宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「道徳教育、大切なことは?」から

 今日は昨日と打って変わって曇り空。天気予報では、お昼頃に雨マークもついていました。3時頃にざぁーと降ってきましたが、気温も低めで過ごし易い一日でした。30日の新聞から今日の新聞までまとめ読みしました。『東京新聞』(7月30日)「時代を読む」コーナーに、関西学院大学准教授の貴戸理恵さんの「道徳教育、大切なことは?」という一文が掲載されていました。貴戸さんは大切なものとは、表面的なことではないのではと問いかけています。例えば、教科書検定で「おじさん」から「おじいさん」への表記変更や、「伝統文化の尊重」の観点から「パン屋」が「和菓子屋」に変更されるなど。私もこのニュースを見たときは、開いた口がふさがりませんでした。

 これに対比して、アメリカやオーストラリアなどの小学校低学年向けの哲学系の授業でよく使われている絵本『たいせつなこと』が紹介されていました。身近なものからその本質を考えていく。例えば、「スプーンにとって/たいせつなのは/それをつかうと/じょうずにたべられる/ということ」、では靴は?りんごは?と登場し、最後に「あなた」について考え、「たいせつなのは/あなたが/あなたで/あること」と終わります。これに対し、日本の道徳教科書のすべてに採用された「かぼちゃのつる」は、ぐんぐんつるを伸ばしていくかぼちゃが、ハチや犬の通り道を無視して伸びていって、道路にはみ出し最後はトラックにひかれて泣いてしまう、というものです。テーマは「わがままな行い」。まあ、違いは一目瞭然です。

 貴戸さんは、「自由で民主的な国の価値教育は一般に『個人のよりよい生』と『社会における共生』を目的とする」と述べています。そして共生社会の基礎は、個々人の「自己が自己である」ことが認められていることであり、そうすることで「他者が他者である」ことを尊重できると言います。これはその通りだと思います。

 私もかつて道徳教育に関係した短い投稿論文を三つ書いています。基本は「個人の内発性を重視した自立と公共性」という観点から書きました。共生の問題を考えるとき、個人をどう捉えるかが問われます。個人個人が異なっていることは、実際の経験で分かります。その上で、価値観としてどう考えるかということになります。

 金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」は今も愛されている詩だと思います。「みんなちがって、みんないい」を受け止める感受性に、「かぼちゃのつる」の話はどう入って行くのでしょうか。教師はどう伝えるのでしょうか。「違うこととわがままは別だよ」ということでしょうか。しかし、違うことを認めていくとき、特に小学校低学年の子の場合、わがままの境界線を納得してゆくのはかなり難しいのではないでしょうか。どうしても自分の思いが強く出てしまって、お互い同士がけんかになって、というような経験を繰り返しながら、折り合えるようになっていくのではないでしょうか。

 ハンナ・アレントは、いろいろな人間がいるという多種多様性が、活動と言論が成り立つ基本的条件だと言います。そしてこれは平等と差異という二重の性格を持ちます。つまり互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できないし、未来のために計画したり、後から来る人たちの欲求を予見したりもできません。しかし、他方で、一人ひとりが異なっていなければ、自分たちを理解させようと言葉を使う必要はなく、共通の直接的欲求と欲望(お腹が空いたとか、眠いとか)を伝達するサインと音があれば十分です。存在しているものはすべて他者性を持ち、生きているものはすべて違い(差異)がありますが、違いを語るのは人間だけです。この他者性と差異性は、人間では唯一性になると言われます。以下少し引用します。

「人間の多数性とは、唯一存在の逆説的な多数性である。

 言論と活動は、このユニークな差異性を明らかにする。そして、人間は、言論と活動を通じて、単に互いに『異なるもの』という次元を超えて抜きんでようとする。つまり言論と活動は、人間が、物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現れる様式である」(ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫、287頁)

 人間であることが唯一存在であることにかかっていて、かつそれが平等と差異という二重性を持っていること、かつ異なることを超えて抜きんでようとすることにあり、これが言論と活動によって示される創始であり、それは人間である以上止めることはできない。人間を人間たらしめるのがこの創始である、と言われています。

 道徳と各自の主体性(みずからであること)を切り離すことはできません。道徳教育の根本には、人間とはどのような存在かという問いがあり、その上での望ましさの問題が出てくるのではないでしょうか。文化伝統を大切にするのは、そこで一人ひとりが人間らしく生きるためであり、その育ちのために文化伝統があるのではないでしょうか。文化伝統のために、一人ひとりの持ち味が無視されることがあっていいとは、誰も思っていないと考えたいのですが。

h-miya@concerto.plala.or.jp