宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

目的意識の問題性

 今日は潮干狩り日和でした。海岸まで散歩したら、いつもは歩けない場所が潮が引いていて、歩けました。久しぶりに砂浜を歩いて、潮の香りと波の音を本当に間近に感じました。30分くらいの散歩のつもりが、1時間近くなりました。

 散歩するときも、健康のためとか考え過ぎると、つい周りの景色へ没入し切れず、体だけは動かしながら、いろいろ考えごとをしたりしてしまいます。健康のためにしなければとか、○○のために、は結構私たちの生活を縛っているなぁと思わさせられます。

 確かに「そのときその場を生きる」というのはとても難しい。ただ、何かの目的に向かっているときも、その過程を丁寧に味わうことは、生きる醍醐味につながるのでしょう。目的意識が強すぎると、そこが抜け落ちがちになる。かと言って自分の中に、方向性を感じ取っていないと、瞬間瞬間の、例えば体調などに支配されてしまう。ここの頃合いは難しいですね。

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  5月5日 平磯側から姥の懐方面を望む         姥の懐マリン・プール脇の海で

齋藤孝『退屈力』より

 齋藤孝さんが「退屈力」という言葉を作った理由の一つが、セカンドライフを豊かにするキーワードになるのではという思いがあったそうです。もちろん退屈力は、若い世代が何事かを極めていくときの重要なキーワードでもあります。ただ私は、どちらかというと、セカンドライフとの関係で興味を惹かれます。

 齋藤さんの守備範囲の広さには驚かされますが、落語の味わい方など、納得できます。話自体の面白さというより、噺家の間合いと客席との笑いの掛け合いが、心の底からの笑いを引き出します。なんでこんな話でこんなに私は笑っているのだろう、でも笑いが止まらないという、私自身のわずかな寄席体験から、寄席通いというのを納得した瞬間でした。

 「落語家は、観客の息の詰め開き、体の緊張弛緩というものを、自分自身の呼吸と、話の間を使って、自在にコントロールしている。逆に観客は、落語家にコントロールされることを楽しみに寄席に通う。いわば、呼吸の芸術なのだ」(『退屈力』文春新書、2008年、171頁)

 また、「美」というものは人生における態度転換の大切な水先案内人になってくれる、と齋藤さんは書いています。確かに、これまで私自身、何かをやるときその実利、どう役に立つかで重い腰を上げたりしてきました。でもこの発想は、人生の後半期を生きるとき、少々気が滅入るものがあります。まだ頑張らなければならないのか、と。

 芸術の世界(美術、クラシック音楽古典落語など)の奥の深さは、そこへと突破していくための手続きがあります。ただその「一見退屈そうに見える世界に入りこむ楽しさを覚えてしまうと、人生でやることがなくてつまらないということには、もう絶対にならない。そしてこれらのすごいところは」それぞれが何かの手段になるのではなく、「それ自体が最終的な喜びをもたらしてくれるというところだ」(199頁)と、美の効用を述べています。

 効用という言い方はあっていないかもしれません。この芸術、美という在り方は、アリストテレスが「幸福こそが最高善」といったことを思い起こさせます。幸福を何かの手段として求める人はいない、幸福こそが人間にとっての最終目的なのだと。ゆっくりとそのこと自体を楽しむために向き合うこと、そういうものを見つけること。それが人生の後半期を生きる肝なのかもしれません。

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4月26日 ガーベラ、宿根スイトピー、      4月28日 平磯海岸から那珂湊方面を望む

虫取りなでしこ、縞はらん  

感動すること

 元号が、平成から令和に変わりました。ここのところ、前天皇・前皇后両陛下のこれまでの活動が盛んに報道されていました。その中で、災害にあった人たちへの両陛下の寄り添いが取り上げられていました。お二人からの励ましで、ここまで頑張って立ち直ってこれたという人たちの報道に接するたびに、そこで起こっていたことは何なのだろうと気になっていました。その励ましは、特別な感動を与えたということだと思います。そしてそういう感動が持つ力をどう理解したらいいのか。

 茂木健一郎さんが「感動」ということをよく取り上げています。『脳が変わる考え方』(PHP研究所、2010年)の中で、感動というのは優しく悩が傷つけられて、それが癒えるのに何年もかかることだ、というようなことが言われていました。彼はアインシュタインから受けた衝撃が自分の人生を決定し、いまだに自分の人生の課題になっているというのです。

 人生で何か意味あることを達成するとき、倦まずたゆまずの努力を必要とします。そういう力を齋藤孝さんは「退屈力」という言い方をします。退屈とは何かと言えば、刺激のなさに味気なさを感じている状態と言えるでしょうか。バートランド・ラッセルは『幸福論』岩波文庫の中で、退屈の反対は興奮だと言っています。そして興奮が多すぎると、(単調さそのものにメリットがあると言っているのではなく)実りある単調さに耐えることが出来なくなってしまうと言うのです。ある種のよいものは、ある程度の単調さの中で可能になると言います。

 「退屈に耐える力をある程度持っていることは、幸福な生活にとって不可欠であり、若い人たちに教えるべき事柄の一つである」(68頁)

 齋藤さんの言う退屈力とは、そういうある種の単調さに耐えて、地味な作業を積み重ねることで技を掴み、本物の感動を手にする力のことです。武道の「型」の習得は、ある意味つまらないとも言えますが、ここで基本を習得することで応用力や我慢力が身に付きます。この基本を繰り返す力、一見刺激がなく退屈に思えるものにコツコツと向き合う力が、退屈力。

 日常の仕事や作業には、もちろん、一つひとつの積み重ねの中に、小さな喜びはあると思いますが、それを飽きることなく続けるには、その最初のきっかけが、そしてその努力を支え続ける何かが必要だと思います。それを「感動」と表現してもいいのかもしれません。

 災害の中で茫然自失、これからどうしたらいいのか分からなくなっている人々にとって、特別な存在からの温かい励ましは、脳を優しく傷つける「感動」となったのではないでしょうか。そして、一見、先が見えず絶望してしまうような状況の中でも、倦まずたゆまず努力し続ける退屈力を発揮させ得る原動力であり続けている。人が人から、ものではない何かを受け取る。そこには凄いものがあると思います。

つくば・市民ネットワーク

 昨日(19日)、つくば・市民ネットワークの二人から、話を聞く機会がありました。つくば・市民ネットワークとの出会いは、2012年頃だった気がします。その後、2015年につくばの事務所に伺って、話を聞きました。今回は、ひたちなか市に来ていただいて、市民ネットの基本的考え方と活動について伺いました。

 市民ネットワークは生活クラブ活動の中から出てきた、政治への市民参加システムです。ここで議員とは、市民ネットワークの「代理人」として議会で発言する人のことです。つくば・市民ネットワークの3つの原則は「議員は原則2期8年で交代」、「議員報酬は市民の活動費」、「選挙はカンパとボランティアで」というものです。

 議員報酬は「代理人」の必要経費(健康保険料や市県民税、年金など)を除き、代理人が属する会を作ってそこからネットに寄付します。これによって、事務所経費やネット専従の活動者の経費(といっても月5、6万円くらい。代理人の半分くらいと言ってました)やネットの活動費が賄われます。

 要は市民ネットワーク自体が「議員」なのです。議会へ持って行く意見は、すべてみんなで話し合って決めます。テーマごとに調査部会も作られています。地域の人たちの要望も、代理人だけが聞くのではなく、常に複数で聞きとって、ネットに持ち返って検討する、という形をとります。時間のかかる、効率の悪いやり方ではあります、と永井悦子さん(つくば・市民ネットワークの最初の代理人の一人)が言っていました。

 この手間暇かかるやり方は、しかし、ネットワーク活動に参加する一人ひとりの市民が、政治的に成長していくやり方でもあります。おそらく、こういう活動を通してしか、一般の市民が政治を自分の問題として考え、行動し続けることは難しいでしょう。

 「つくば・市民ネットワーク」が目指している社会とは、多くの市民参加で対話し続けながらまちづくりをしていくことだそうです。真の意味で市民参加を実現するためには、単に自分たちの「応援する」議員を出すことではなく、自分たちが実際に参加し続ける仕組みを作らなければなりません。むしろ議員は、突出して自分だけで走ってはまずいのです。自分もまた一市民として、ネットと一緒に政治的に成長して行くのであり、だからこそ次々とバトンを次の人に託していくのだし、行けるシステムなのです。

 面白システムだし、市民参加型の政治を実現するには、こういうやり方しか、今のところないのかもしれません。もちろん、諸々、問題はありますが。

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4月18日 那珂湊コミュニティセンター脇の広場          4月20 平磯海岸

107歳の大往生

 年上の女友だちのお母さまが、107歳(数え109歳)の天寿を全うされました。3月にお亡くなりになり、帰りたかった故郷のお墓に入られたそうです。明治44年6月の生まれ。ハガキを頂いたので、お線香をあげに伺いました。100歳直前くらいの写真を見せていただきましたが、髪をきちんと染めていて、とても100歳には見えない若々しく、ふっくらとした佇まいでした。

 15歳の時に御嶽山に登ったときの写真も見せていただきましたが、和服に脚絆という出で立ちで、おそらく昔の旅姿のような支度で登山をしていたようです。明治、大正、昭和、平成と4つの時代を生き切った旅立ちです。友人と話しながら、だんだん親しい人が亡くなっていく寂しさに、二人で思いを馳せました。この感覚は若い時には分からなかった、ということで意見が一致。

 それでも100歳を越えて生きるというのは、生きてみないと分からない。友人はお母さんの寂しさについても推測していました。そうだろうなぁ、と思いました。故郷を離れて、娘夫婦や孫の家族とともに暮らしていても、おそらくその寂しさはぬぐえなかったでしょうね。私の伯母がやはり100歳を越えました。伯母は、もちろん生まれた家ではありませんが、県内に嫁ぎ、今も家族に囲まれてはいますが、寂しいだろうなぁと思います。

 何なのでしょうか、歳老いて行く寂しさって。自分が頼りにしていた人たちはすでになく、自分自身の「生き甲斐」も見えなくなっていくからでしょうか。107歳の旅立ちは、本当にスーと炎が静かに消えるようなものだったようです。直前まで食事が取れていて、眠ったまま旅立たれたとか。見事としか言いようがありませんが、それでも命を燃やし切るということの大変さは、友人の日常の言葉の端々から感じられました。

 いずれ迎える自らの最期にも思いを馳せた時間でした。

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          4月8日 ふれあいファーム芳野

常識(コモン・センス)を疑うさじ加減

 常識は必要不可欠なものですが、ときにあまりに当たり前でつまらないものになったりもします。自明過ぎて、何が問題なのか分からないこともあります。「初詣はどこに行く?」という発言に関しては、暗黙の決めつけが何かは分かりました。初詣は行くもの、という前提(日本人にとっては常識的なもの)が暗黙裡に含まれている発言です。

 「買ってきたキャベツに青虫がついてたけど、八百屋に文句言ったほうがいいかな」発言の決めつけは何か、一瞬、考えてしまいました。キャベツの青虫は欠陥商品という決めつけだ、と気が付くまでに、ちょっと時間がかかりました。私は文句は言わないですが、言うかどうか問題にすることもあると思い込んでいます。

 W.ブランケンブルクは『自明性の喪失』(みすず書房、1978年)の日本語への序で、次のように述べています。

 「われわれは、魚が水の中に生きているように『自然な自明性』の中に生きているのではありません。人間には、もともと自明性と非自明性とのあいだの弁証法的運動がそなわっているのです。疑問をもつということは、われわれの現存在を統合しているひとつの契機です。ただしそれは、適度の分量の場合にかぎられます。分裂病者ではこの疑問が過度なものとなり、現存在の基盤を掘り崩し、遂には現存在を解体してしまいそうな事態となって、分裂病者はこの疑問のために根底から危機にさらされることになってしまいます。分裂病者を危機にさらすもの、それは反面、われわれの実存の本質に属しているものでもあります」

 適切さ、いい加減の哲学って、それぞれの生き方の中で身に付けていくものなのでしょう。批判精神の大切さが言われます。ただ、その度合いは、場面によっても問題によっても異なるでしょうし、そこを見極めていくにも、各人の個別性が働きます。

 カントは人間悟性(常識)の基準の格律を、1)自分で考えること、2)自分を他者の立場に置いて考えること、3)自分自身と一致して自己矛盾のないように考えること、としています。

 私は、この3番目は難しいなぁと思っています。流れに任せていてもいいのかもしれないとも思うからです。自然に統合していくものもあるのではないかと考えるからで、そこを意識的にずっと考える必要はないのではないか、と今は思っています。

ブラックホール

 昨夜遅くのニュースでも話題になっていたブラックホールの撮影成功。ブラックホールとは、非常に重い、重力の強い天体だそうです。天体だったんだ、と改めて驚きます。何でも吸いこんでしまう空間のように考えていました。

  地球から約5500万光年離れたおとめ座のM87銀河の中心にあるブラックホールだとか。1光年は9兆4600億キロメートルですから、その5500万倍。質料は太陽の65億倍。ちょっとイメージもできない、壮大な世界です。科学の世界はミクロの世界に向かう方向とマクロの世界に向かう方向と、どちらも私たちのイメージをはるかに超えてしまいました。

 こういうニュースに触れると、人間がぐちゃぐちゃやっていることとのギャップの大きさに、はっとさせられます。今日の東京新聞の一面の左上半分は、「桜田五輪相 辞任表明」でした。ブラックホールのニュースは、2面総合の左、紙面の4分の3くらいを占めています。他の新聞をチェックしていないので、その扱い方の違いを比較できませんが、一面トップに何を持ってくるかなど、書き方と同時にその位置に、新聞社独自の判断が働きカラーが出ます。

 テレビのワイドショーでは、ノーベル賞級の発見と報道しているところもありました。こういう研究に取りつかれている人は、そしてそういう研究の才能を持っている人たちは、おそらく寝ても覚めても、意識はこの問題で占められているのでしょう。うーん、こういう大きな夢、希望を追い求める人もいます。

h-miya@concerto.plala.or.jp