宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

107歳の大往生

 年上の女友だちのお母さまが、107歳(数え109歳)の天寿を全うされました。3月にお亡くなりになり、帰りたかった故郷のお墓に入られたそうです。明治44年6月の生まれ。ハガキを頂いたので、お線香をあげに伺いました。100歳直前くらいの写真を見せていただきましたが、髪をきちんと染めていて、とても100歳には見えない若々しく、ふっくらとした佇まいでした。

 15歳の時に御嶽山に登ったときの写真も見せていただきましたが、和服に脚絆という出で立ちで、おそらく昔の旅姿のような支度で登山をしていたようです。明治、大正、昭和、平成と4つの時代を生き切った旅立ちです。友人と話しながら、だんだん親しい人が亡くなっていく寂しさに、二人で思いを馳せました。この感覚は若い時には分からなかった、ということで意見が一致。

 それでも100歳を越えて生きるというのは、生きてみないと分からない。友人はお母さんの寂しさについても推測していました。そうだろうなぁ、と思いました。故郷を離れて、娘夫婦や孫の家族とともに暮らしていても、おそらくその寂しさはぬぐえなかったでしょうね。私の伯母がやはり100歳を越えました。伯母は、もちろん生まれた家ではありませんが、県内に嫁ぎ、今も家族に囲まれてはいますが、寂しいだろうなぁと思います。

 何なのでしょうか、歳老いて行く寂しさって。自分が頼りにしていた人たちはすでになく、自分自身の「生き甲斐」も見えなくなっていくからでしょうか。107歳の旅立ちは、本当にスーと炎が静かに消えるようなものだったようです。直前まで食事が取れていて、眠ったまま旅立たれたとか。見事としか言いようがありませんが、それでも命を燃やし切るということの大変さは、友人の日常の言葉の端々から感じられました。

 いずれ迎える自らの最期にも思いを馳せた時間でした。

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          4月8日 ふれあいファーム芳野

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