宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』6:太陽と夜の歌

 自らを太陽に摸するツァラトゥストラは、贈与者として語り続けます。しかしその孤独も知っていて、それが「夜の歌」という詩になって迸り出ます。『ツァラトゥストラ』の第1部「ツァラトゥストラの説話」から第3部までのそれぞれの節の締めは、基本「Also sprach Zarathustra(このように、ツァラトゥストラは語った)」ですが、3つの節だけは異なっていて「Also sang Zarathustra(このように、ツァラトゥストラは歌った)」になっています。夜の歌はその中の一つです。

 夜の歌は印象的な一節です。これは贈与者の孤独の歌です。Z-N(ツァラトゥストラニーチェ)は、受け取ることの出来ない者、贈与し続けるしかない者として描かれています。そして、受け取るものがいない贈与者の飢えを訴えます。夜であったら自分も光をむさぼるように受け取れたのに。

 「わたしは光だ。ああ、わたしが夜であったらなあ! だが、わたしが光に取り巻かれていること、これがわたしの孤独である」(ツァラトゥストラ』Ⅰ-9、4

 Z-N(ツァラトゥストラニーチェ)が太陽に自分を仮託するのは、ゾロアスター教拝火教であり、太陽崇拝の宗教であったことと関わると言われます。それと同時に、この太陽は「ディオニュソス」に当てはまります。ディオニュソス vs. アポロの問題など、別に書きたいと思いますが、ディオニュソスに仮託したものは生と認識の根源的な統合と言えるでしょう。

  「おお、すべての贈与する者たちの、この上なき不幸よ! おお、わたしの太陽の日食よ! おお、熱望することへの熱望よ! おお、満腹状態における激しい飢えよ!」(ツァラトゥストラ』Ⅰ-9、10) 

 飢えて孤独な贈与者として、それでも、泉がほとばしり出る様に自分の中から熱望があふれ出るのを止めることは出来ない、とツァラトゥストラは歌います。なんという壮大な無駄でしょうか。そしてまた、受け取る側の魂にも触れられないこと、贈与し続けるものが羞恥心を失う危険を持つこと、贈与することに飽きてしまうこと、など。贈与することと受け取ることとの間の解離。贈与するだけの在りようの難しさや孤独が語られ、それでも贈与し続ける存在としてのツァラトゥストラ

 「わたしの目の涙とわたしの心の産毛とは、どこへ行ってしまったのか? おお、すべての贈与する者たちの孤独よ! おお、すべての照らす者たちの寡黙よ!」(ツァラトゥストラ』Ⅰ-9、18

 ツァラトゥストラは理想を抱かない凡庸な存在の幸福を、序説の5で、最後の人間の語る幸福として、激しく攻撃しています。「自分自身をもはや軽蔑することが出来ないもっとも軽蔑すべき人間の時が来る」と。今や、私たちの時代は、そういう時代に入っているのしょうか。現代は、自己肯定が盛んに語られている時代です。ただ、これは自己肯定感を自然に持てなくなっている時代とも言えます。となると、「もっとも軽蔑すべき人間の時」とツァラトゥストラが語った時代よりももっと悪く、脆弱になっているのでしょうか。

 そしてこの夜の歌は、次のように結ばれます。ここは「夜の歌」の最初の部分のリフレインになっています。

 「夜だ。いまや、ほとばしり出る泉のすべてが、一段と声高く話すのだ。そして、わたしの魂もまた、一個のほとばしり出る泉である。

  夜だ。いまや初めて、愛する者たちの歌のすべてが目ざめるのだ。そして、わたしの魂もまた、一人の愛する者の歌である。――」

 贈与する者の傲慢さに気づいている贈与者は、孤独であり、それでも贈与せざるを得ないというのは、何なのかなと思います。言葉がほとばしりでる、というのはよくわかります。その言葉を受け止めてくれる仲間や弟子のような存在が居ないことの孤独。夜の歌の節は、ツァラトゥストラニーチェの心の叫びです。『ツァラトゥストラ』は説教の形式をとりながら、その実、所々にこのような内省的なロマンチックとも言えるような節が挟まっています。そのことで、力への意志とか超人、永遠回帰の思想の論理を擬人的に描いているというより、魂の深みを除きこむ思いをさせられます。それをトータルにどう解釈していくか、解釈の難しさを感じさせられます。

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        (本文とは関係なく)11月17日 笠間神社の大いちょう

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