現代において、「各人の自由・平等・幸福」というのは、総論賛成の当たり前だと思います。何をもって、という具体的な問題になると違いが出てきますが。
自由(リバティ)は、語源的には「主人ー奴隷関係からの解放」を意味するラテン語の「libertas」に由来します。自由主義のリベラリズムはここからきています。近世までは、民衆が持ちえない権利(特権)を持っている状態が、フリーダムあるいはリバティでした。このような身分的特権との闘争の中で、自由で平等な自律的な個人という理念が形成されました。これら闘争が市民革命と言われますが、思想的源流ともいえるジョン・ロック(1632-1704)は、名誉革命(1689年)の成功で亡命先のオランダからイギリスに戻りました。思想的には王権神授説を否定して社会契約説をとり、最高権威は人民にあるという主張をして、アメリカ独立革命やフランス革命に影響を与えました。ただ古典的自由主義と言われる王政時代のイギリス(ロックもまたその時代を生きています)で主張されたものは、個人の生命、自由、財産の三つの権利は自然権であり、国王であろうとも犯すことのできない最低限の権利である、というものです。民主主義、平等主義の要素は、先の三つの権利の維持に必要なものとして、アメリカの独立宣言(1776年)、フランスの人権宣言(1789年)に加わっています。
フランスの人権宣言第4条には、「自由は、他人の権利を侵害しないすべてをなし得ること」とあります。アメリカ独立宣言は、自明の真理として「すべての人は平等に造られ」、一定の天賦の権利を与えられていて、「生命、自由および幸福の追求」が含まれると言っています。しかし、ただ自由と平等が獲得されれば、それで実質的に誰でも自分の幸福を追求し得るのか。そこから近代自由主義の思想が要請されます。個人の自由を実質的に保障するには、政府や地域社会による積極的介入が必要とする考え方です。ここで重視されてくるのが、社会権(生存権)です。
生存権が姿を現したのは20世紀に入ってからで、1919年のドイツのワイマール憲法がその典型と言われています。ここでの生存権の規定では、婚姻および母性は国の保護を受ける(第119条)、貧しいものの進学は国の保護を受ける(第146条)、経済生活の秩序はすべての人の人間らしい生活を保障する正義の原則に適合しなければならず、個人の経済活動はこの限界内で保障される(第154条第1項)などがあります。ワイマール憲法が、かなり先進的なものだったことが改めてわかります。日本国憲法第25条では、生存権「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定められています。
社会主義との違いは、中央集権的な統制を是認しないことや階級間の対立を固定観念化しないことにあります。実質的自由を実現するには、現実的制約となっている社会的不公正を政府が是正しなければならないという立場に立つのが、リベラルと言えます。
この社会保障などを提唱する自由主義が近代自由主義、ニューリベラリズムですが、もう一つ似た言葉でネオリベラリズムがあります。どちらも新自由主義と訳せますが、1970年代以降の日本で新自由主義は、ネオリベのことを意味しています。こちらは個人の自由や市場原理を再評価し、政府による介入を最低限にすべきと主張します。自己責任を基本とした小さな政府を推奨します。ミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエクなどが有名ですが、その思想に基づく政策を実行した政治家としては、ロナルド・レーガン、マーガレット・サッチャー、中曽根康弘、小泉純一郎などがいます。この立場は、経済的に低成長時代を迎え、スタグフレーションや財政赤字問題の深刻化の中で、福祉国家の見直しや規制緩和を志向するものが優勢になったということです。
1990年代以降、大きな政府と小さな政府の中道を模索する第三の道が台頭しました。市場を重視しつつも国家による公正を確保しようというものです。グローバル化の進行の中で、実質的自由と平等、幸福の実現に向かってどうかじ取りをしてゆくのか、リベラルの力が試されています。