宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

自由と平等

 昨日は少し風が涼しく感じましたが、今日はまた、暑さがぶり返した感じがします。台風の影響なのでしょうか。天気予報では、9月の残暑は厳しいようです。

 自由と平等は、当たり前の感覚で生活しています。でも、本当のところ、どうなのか。ちょっと情報を集めれば、相対的貧困状態の人たちが15%くらいいるとか、若年層の困窮者が増えているとか分かります。平等とは何なのか。少なくとも、経済的平等は達成されているとは言い難い。問題なのは、「最低限」が確保されていないということで、まったく「同じ」の達成ではありません。それは不可能ですし、そういう平等施策が社会的に意義があるかどうか。もちろん「最低限」の設定の仕方も難しいですが。

 平等を達成することを目指すやり方に、「機会の平等」と「結果の平等」があります。日本では、少なくとも表面上は「機会の平等」は法的にかなり保証されています。これに対し「結果の平等」にもっと力を入れて、高税率によって生活を平準化すべきという考え方もあります。少なくとも教育・医療・介護等に関しては、無償化すべきとか、ベーシックインカム政策を推進すべき、というような考え方も「結果の平等」を目指すものです。生活保護政策の問題はいろいろ出ています。むしろ、生活保護制度や失業保険制度、年金制度を止めるか大幅に縮小して、国民全員を対象に最低限度の生活を保障するための現金を給付するというベーシックインカムの考え方、ある程度納得する部分もあります。今回の新型コロナ対策の一つである、1人当たり10万円の給付は、正にこの政策のやり方でした。

 では、自由をめぐる問題は、それなりに解決されているのでしょうか。施設に勤務していて思うのは、むしろこちらの問題かもしれません。ハンナ・アレントは『人間の条件』の中で、古代ギリシアやローマでは、公的生活(政治的生活)において人間は自由で平等であったと書いています。逆に言えば、公的生活を失った、あるいは奪われている人間には自由も平等もなかったとも読めます。施設は「大きな家」ということは言えるでしょうが、そこの住人は(無能力という意味で)公的生活は奪われています。彼らにとって「自由」とは何か。生活の自立支援が介護の基本ですが、そもそも生活とは生存の必要性に制約されています。人間が生きるにあたって、自由の持つ意義はどこにあるのか。それはどういうときに実現されているのか。

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                茨城県立近代美術館(7月30日)

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