宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ケアにおける客観性2)―ニーチェの系譜学における文献学の意義

 ニーチェは「すべては解釈である」(遠近法主義)と言いながら、しかしその解釈を判断評価できるとします。その際、多様な解釈を一つの「正しい」解釈から判断評価するわけではありません。では、どうするのか。そこで登場するのが、系譜学的解釈です。ニーチェは、「遠近法主義と文献学のどちらか一方を排他的に肯定することなく、それぞれから洞察を引き出しながら」(A・D・シュリフト)系譜学的解釈を遂行しています。

 文献学は何よりも原典への忠実さを大切にします。しかし、原典をとらえるとき、解釈を離れることはできません。解釈者の遠近法を通してしか原典がとらえられないのは明らかです。だからと言って解釈者の遠近法はすべて同じ重さを持つわけではありません。従来の読み方の踏襲ということは、積み重ねられてきた解釈の成果を受け入れることです。そこには多様な遠近法の切磋琢磨があります。簡単に否定できるものではありません。しかしまた、踏襲するということは、創造性という点からは問題が生じます。

 ニーチェはアカデミズムの世界で、文献学者として出発しました。1869年2月、バーゼル大学から文献学の教授として招へいされます。まだ24歳でした。文献学の仕事に疑問を抱いていたその時に。しかし、ニーチェバーゼル大学教授職の誘惑に勝てませんでした。1869年5月28日に、彼は『ホメロスと古典文献学』について就任講演をしました。

 1872年1月に『悲劇の誕生』が出版され、ニーチェはこれとともに、伝統的な古い文献学的な考え方と決別します。この本の出版は、文献学の分野で彼が大きな仕事をするだろうと期待していた多くの人を驚かせ、そして失望させました。文献学者たちは、ニーチェは学問的に死んだと批判しました。後輩のメーレンドルフは、この書は先達が築いてきた「歴史的・批判的方法」への裏切りであり、古代悲劇に、ショーペンハウアーワーグナーの理論を当てはめることはドグマだと非難しました。三島憲一さんの『ニーチェ』(岩波新書)には、メーレンドルフの攻撃文でいう「方法」について、以下のように書かれています。

「この方法とは『先入見にとらわれることのない』客観的解釈であり、また対象を『それが成立した時代の前提からのみ理解する』ことであり、これを破ることはそのまま学問の放棄であるというのだ」(92頁)

 ですが、ニーチェはこの事件をきっかけに、過去を客観的に調べる歴史的学問のあり方に、厳しい批判を展開するようになります。それが『反時代的考察』という論文集に結実しています。しかしながら、のちにニーチェは、系譜学者としての自己の解釈に対し、文献学者としての在り方がいまだに意味を持っているといいます。

「文献学者は、そんなにたやすく何かを片づけはしない。それはよく読むことを、すなわち、底意を持ち、扉を開けたままにして、敏感な指と目で、ゆっくりと、深く、後にも前にも気を配りながら読むことを教える‥‥」(『曙光』序文)

 ただし、従来の文献学は正しく読む技術ですから、「正しい解釈は存在しない」というニーチェの主張とは、そのままでは相いれません。ニーチェの肯定する文献学的な読みとは、ゆっくり深く読む「よく読む」技術なのです。そして客観性の概念も変容しています。ここからは次回に考えたいと思います。

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