宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「11・3憲法のつどい」実行委員会

 昨日今日と晴天が続いて、気持ちの良い秋の日でした。仕事が終わってから、「11・3憲法のつどい」の実行委員会がありました。「憲法」からみる原発問題、というテーマで、東海第2原発の再稼働問題を憲法の観点で考えてみようというのが今回の趣旨です。生存権地方自治から考えるということになります。

 92条の「地方自治の本旨」という基準は何を言っているのか。一般的にはここから住民自治と団体自治という原則を導き出します。ただこれだけでは、やはりよく分かりません。住民自治と団体自治は必ずしも同じ方向は見ていないし、住民自治という在り方自体も、手探り状態です。

 『憲法への招待』(渋谷秀樹、岩波新書)によれば、中央政府も地方政府も、主権者の同意に統治権の根拠を見い出しますから、本来両政府は対等の立場にあります。ともに個人の幸福をよりよく実現するために存在するので、両政府の仕事と権限の配分方法は、この目的に適うものでなければなりません。となると、個人の生活に密接に関係する仕事は、その生活に近いより狭い政府に配分されるべきという「近接性の原理」が導き出されます。

 しかし、逆にそのことで視野が狭くなり、偏ってしまう危険性もある。地方政府も統治権を持つ組織なので、立憲主義の視角からすると警戒すべき存在であるのは、中央政府とそれほど違わない。とすれば両方が同じ仕事で互いにけん制しあう必要がある。これが権力分立原理を組みこむ意味だというのです。

 一番狭い地域を担当する政府(市町村)に、日常生活に密着した仕事と権限を配分し、順次より広い地域を担当する政府(都道府県➡国)へと割り振っていくというのが「補完性の原理」と呼ばれます。

 原発問題の難しさは、一番の被害者が地域住民であるにもかかわらず、その技術や資金、効力のレベルが地域単位ではないところにあります。被害者になり得る危険性を原発交付金によって、補完してきたとも言えますが、お金で何とかなることではない、というのが「福島」を経験して嫌というほど思い知らされたわけです。

 「ああそれなのに‥‥‥喉元過ぎれば熱さを忘れる」。まあ人間は自分の現状の悲惨さから簡単に目を逸らす、というのは仏教の人間観でもありますから。それでも、いろいろな視角から、考え続けることは必要なのだと思っています。原発問題を具体例に考えることで、地方自治の本旨への理解も深まる気がします。

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         みと文化交流プラザは、旧ビヨンドです。 

『幸せへのキセキ』と『僕とシッポと神楽坂』:動物たちと共に

 2011年12月23日公開のアメリカの映画『幸せへのキセキ』(2012年6月8日日本公開)のDVDを借りてきて観ました。実話を基にした映画で、その話は「動物園を買った家族の奇跡」としてアンビリバボーで、2012年に放送されています。実在するイギリス南西部のダートムーア動物公園立て直しの話です。動物園の運営など、全くの素人だったコラムニストのベンジャミン・ミーは、閉鎖を余儀なくされ、このままでは200頭以上の動物が射殺されることになる動物園を、父親の遺産と自分の全財産を投資して買収しました。彼は、アフリカの動物を守るために自分には何もできなくても、ここの動物たちのためには何かできると思ったから、とネットで語っていました。

 『幸せのキセキ』では、場所がロサンゼルスに移り、最愛の妻を失ったことで抜け殻になった主人公(ベンジャミン)が、家族(特に息子)との関係を立て直そうとチャレンジすることになっています。実話では奥さんは開園3か月くらい前に亡くなっていて、それまでは一緒に開園に向けて力を貸してくれていました。子どもや兄弟たちも協力的だったそうです。それでも、開園までは資金問題なども含め大変だったようです。それはそうでしょうね。しかし、ともかくは採算を度外視しても走り出す熱意はすごいなあと思います。

 人間も動物ですが、野生動物と共に過ごすことで、何かが変わっていくというのは分かるような気がします。自然の前で、人間の事情や「甘え」は通用しない。映画の後半で、ベンジャミンが亡き妻を思い出すシーンが素敵でした。子どもたちと遊び戯れる妻の生き生きとした姿に、ベンジャミンは涙を流します。彼はもしかしたら初めてしみじみと泣いたのかな、と思わせるシーンです。心が固まって彼の中で時間が止まってしまっていたのが、静かに溶けていく。そんなシーンでした。

 最近気に入って観ているドラマ『僕とシッポと神楽坂』はペットの話ですが、おそらく神楽坂という場所が大きな意味を持っていると感じます。動物のほっこり感と神楽坂というかつて隆盛を誇った花街の路地の雰囲気が、懐かしさを醸し出しているのでしょう。原作はたらさわみちさんの漫画だそうです。こちらのドラマは、「甘え」を上手に活かしている感じです。甘ったれではなく、ゆとりを生む「甘え」にペットが一役買っている。ペットは特に一人暮らしの人に薦められたりしますが、ちゃんと世話をしてあげないといけない。それが生きがいになりもするのでしょう。

 人間の言葉を話さない動物たちと一緒にいると、相手の状態を注意深く読み取る力が必要になります。ちょっと言葉は悪いのですが、実用心理学で人の心を読む方法、なんてあります。でも、動物と向き合うとき、自分の利害のために相手を知るのでなく、純粋に相手を知る力が必要になります。この力は、結局は、自分がどういう状況にいるのかを「客観的」に読み取る力につながります。

 一見無駄に思えることの中に、私たちの生き方の中に何が必要なのか、そういうことに思いを馳せさせる仕掛けがある気がします。

午後の一コマ

 今日の午後のレクリエーションのときに、カルタ取りをしました。何かと言うと、「このやろう」という言葉が出てくるKさん。同じテーブル席のHさんの世話を焼きますが、口調が強いので、最初スタッフは、はらはらしていました。でも今日は、カルタ取りのとき、彼が読み手になって、「Hさん、次は『か』だよ。しっかり取りなよ」とずるしてました。「それ言っちゃだめですよ」と私が何度やんわり注意しても、「あはは」と笑って、思わず私も笑ってしまいました。

 別の日のある女性の利用さんからは「このやろうなんて言葉、ここへきて初めて聞いたわ。そういうこと言わないで下さい」というお叱りの言葉が飛んだりしました。そういうときは結構素直に「分かったよ」なんていうのですが、やはり少しすると口癖なのでしょう、「このやろう」が出てきます。

 体調が悪い時は、例えば昼食後の歯磨きの声掛けをしても「やだ」を連発して、がんとして動いてくれなかったりします。でもどこかでは納得していて、「はい、行きましょう」の掛け声が上手く入ると、「分かったよ、やるよ」と応答してくれます。

 理解し、納得していることへの応答が上手く出来ない。あまのじゃく気質が出てくるようです。でもそれと闘っている自分もいる。なんか面白いなあと思います。

 今日は、ちょっとほのぼのした思いになりました。誰かを友だちと思ったとき、大切にしてきた人なんだろうなあ。それがとても素直に出てきていました。

『改訂御定法』(山本周五郎)

 久しぶりに山本周五郎の短編を読み返しました。これは私の好きな短編で、プロットも登場人物も気に入っています。映像化するとしたら、誰かななど思いながら読んだりもします。

 町人資本が勃興した時代の話なので、元禄(1688-1704)時代以降。主人公のいいなずけ河本佳奈が、元禄袖の常着に半幅帯という略装という表現もあるので、江戸時代中期の町人経済が武士を圧迫していく時代を背景に、武士としての生きざまを描いていると言っていいでしょう。まだ江戸後期程には、社会状況が混乱していない感じがしますが、それでも江戸初期の統一貨幣制度の導入が町人資本を成長させ、武士が金に振り回され始めている状況が伝わってきます。

 江戸時代の金貸しは、「両替屋」が行っていました。元々は金銀銅貨を両替するのが仕事でしたが、副業として預金業務と貸付業務を行っていたようです。両替屋からお金を借りられるのは、余程信用がある者に限られていました。また、大名などは身分にもの言わせて、踏み倒しもしたようです。大名貸し潰しが頻発するようになると、両替屋同士が大名貸しに対し企業連合を結成しました。

 まあ、武士が身分と権力を立てに借り倒しをする、ということは大名レベルでなくともあり得ます。この話は、町人が武士を訴えることができるように改正された御定法を背景に、商人と武士とが、お金とどう向き合うかをめぐって展開されます。

 この御定法の改正は行きすぎだと反対したのが、若き日の主人公中所直衛で、彼は若き藩主甲斐守教信に疎まれ、閑職に追いやられました。それから7年後、中所が案じていたような事態が起こりました。武士が借金まみれになって訴えられ、友人の町奉行で佳奈の兄である河本宗兵衛に相談されます。直衛は「自分ならこの裁きをつけられる」と引き受け、見事に裁きました。商人が武士に藩を担保に金を貸すという事態に釘を刺したのです。いざとなれば、訴訟を起こして金を取り戻せる、だから武士に金を貸すし、武士もついその手口に乗ってしまう、という危険を除きたかった、と直衛は終幕で言っています。

 直衛は、金を借りて問題を起こした矢堂玄蕃を嫌っていますが、それはその生き方への疑義であり、この問題に関しては武士としての面目を立てさせ、かつその身の処し方にも、自ら悟って腹を切るという結末を用意しました。また藩を担保に(裏業として)金を貸した要屋主従を30日の入牢としました。しかし玄蕃には、直衛自身が料亭難波から5年がけで借りた金を渡して、要屋に返させます。借りは借りだからと。そして要屋主従も10日もしたら帰宅させようと、その目的が釘を刺すことだったと分かるような結末になっています。

 よく出来てるなあ、と何度読んでも感歎する短編です。情も理もある筋立てです。怒った顔がきれいだという佳奈の造形も好ましいし、頑固で癇癪もちの城代家老朝倉摂津に対しても、一歩も引かない直衛の性格にもほれぼれします。江戸時代をもう少し調べようかなと思いました。

技術か性格か

 ここのところ、病院通いが続いています。身体のメンテナンスの時期なのでしょう。5日に右下の親知らずを切開抜歯、11日に左肩の石灰沈着腱板炎を診てもらいました。今日、親知らずの手術の抜糸をしてもらい、ひとまず親知らずの治療は終了。2007年に左下の親知らずを抜いたときは、2時間半かかり、死ぬ思いでした。今回は、抜歯自体にかかった時間は10分。えー、あれは何だったの、と思いました。後でネットで調べたら、親知らずの抜歯はかなり難易度の高い手術で、技術の差が出てしまうとありました。

 ふと『ドクターX』を思い出しました。「私失敗しないので」が口癖の彼女は、手術にあたって、あらゆる想定をして対応策を練っていました。性格に難あり、というキャラですが、でも真っ当と言えば真っ当なことを言っています。

 よく「性格が悪くても腕のいい歯医者にかかりたい」と言われますが、本当は両方欲しいところです。頭の良さや腕のいいことと性格の良さは、必ずしも比例しません。でも、ここでいう性格の良さとは、何を言っているのでしょうか。人当たりの良さのことでしょうか。極悪人に、自分の口の中をいじられることを許可する人はまずいないと思います。プロフェッショナルとしての倫理観を持っていることは、当然のことと前提されているわけです。そう考えると、性格か技術かの問題の立て方は、要はコミュニケーション能力か技術かということなのだろうと思います。

 技術者は、技術があってなんぼのもの。コミュニケーション能力はあった方が、本人にも周りにも望ましいでしょうが、基本はプロフェッショナルの自覚と技術だろうなあ。誤解のないように言っておけば、今回抜歯してくれた先生は、丁寧で親切でしたよ。

『大統領の料理人』:美味しいもの万歳

 10月もあっという間に過ぎています。今日は台風の影響で、真夏日でした。明日は24度まで下がるようですが。10月といえば、収穫の秋。美味しいものが一杯。そういうわけでもないのですが、『大統領の料理人』(2012年公開)のDVDを借りてきて、観ました。ともかく、素朴な家庭料理として作られているプライベートランチの豪華なこと。まあ、大統領のランチなので豪華なのかもしれませんが、これが素朴な家庭料理かい、と思いながら「美味しそうだなぁ」と観ていました。

 これは実話に基づいた映画です。1988年から2年間、フランソワ・ミッテラン仏大統領に仕えたダニエル・デルプシュさんをモデルにしています。デルプシュさんは、フランス大統領官邸(エリゼ宮殿)の史上初の女性料理人です。彼女はプライベートランチを担当するように抜擢されました。美味しいものを、食べる人の好みを考えながら作る彼女は、妥協せずに食材を吟味し、助手の二コラと一緒に試作を重ね、大統領を満足させる料理を提供し続けます。

 エリゼ宮は、1718年にフランスの貴族のために建てられた宮殿で、その後、ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人やナポレオンの皇后ジョセフィーヌらが住まいにしていたこともあります。大統領官邸としては、1873年から使用され、ここを住まいにする大統領は、エマニュエル・マクロンで23人目です。

 さて、映画に戻ると、大統領の健康管理や経費削減が進められて、彼女は自由に料理が作れなくなります。さらに、入った当初からの主厨房の男性シェフたちからの当たりの強さにも疲れ、2年で退職してしまいます。その後、南極のフランス観測基地で1年間料理人をしてお金を貯め、ニュージーランドでトリュフを育てる土地を手に入れます。これも全部実話だそうです。なんか、すごい行動力だなぁと、圧倒されました。でも、「料理は芸術よ」という彼女の言葉には同感しました。だからこそ至高のトリュフを育てたい、という思いで南極で働く。これも何となく納得。

 美味しいものの力、これはありです。話が飛びますが、高齢者の低栄養が問題になっています。利用者さんを見ていても、食が細い方がいますが、彼らも好きなものや美味しいものは全部召し上がります。見ている側も嬉しくなります。食の力はすごい。映画自体はそれほどストーリー性がなく、話もある種挫折の物語でもあったのですが、でも美味しいものの力を、作る側も食べる側ももらえると感じさせられ、とてもほのぼのと豊かな気持ちになりました。

『新潮45』休刊から人権を思う

 今日のワイドショーでは、貴乃花親方の引退宣言会見と『新潮45』の休刊が目を引きました。『新潮45』は、杉田水脈衆議院議員のLGBT(性的少数者)の人々への「生産性がない」という主張を掲載した8月号に続き、10月号で「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文』を特集して、休刊に至りました。

 江川紹子さんが、BJ(Business Journal)に書いている分析が納得できます。LGBTの問題を、杉田議員が性的「嗜好」、つまり好みや趣味の問題と捉えていることの誤りや(生産性のない)彼らへの税金の投入への疑問視発言は「非難の度が過ぎる」という指摘など、その通りだなぁと思いながら読みました。

 尾辻かな子衆議院議員が各省庁に問い合わせたところ、彼らに使われている税金支出はほとんどなく、具体的な金額が提示されたのは人権擁護局を抱える法務省だけ。法務省での29年度予算を見ると、「LGBT(性的少数者)の人権問題対策の推進」として計上されているのは1300万円で、法務省予算の0.017%。国の一般会計予算の0.00001%です。渋谷区では男女共同参画と合わせて1300万円ですが、それでも予算総額の0.01%。

 これらの数値を上げて、江川さんは「これを『支援の度が過ぎる』とは、『非難の度が過ぎる』だろう」と書いています。思わず、その通り、と思いました。

 杉田議員は、要は批判したいんだよなぁ、LGBTの人たちを、と思わざるを得ません。自分の心の中だけで思っている分には思想・信条の自由ですが、衆議院議員が公的媒体を使って「人権」の考え方に背く発言をすることに問題があります。そしてそれを掲載する出版社側は、まさに「差別でめし食うな」(抗議行動をした人たちのプラカードの言葉)と言われてしまう事態を招いています。

 人権の宣言とは、そこに自由の重要性が認識され、その重要性が原動力になっています。例えば、拷問されない権利とは、すべての人が拷問から解放される自由の重要性から出てきます。ここで重要なことの一つは、「すべての人」が主語だということで、自分が共感する相手だからとかではありません。好悪に関係なく、あるいはその人の所業に関係なく、人間であることから生じる権利です。

 そして人権とは、この拷問に関して言えば、拷問したい人間に、拷問を断念させる根拠であり、また拷問するつもりのない者に、拷問という事態をチェックし、抑制する責任を生じさせます。

 <人権>の宣言とは、<人権>を明文化した中で言及された自由の意義に適切な関心を払う必要があることを、倫理的に肯定するものであり、人間としてふさわしい条件としての自由の重要性に注意を向ければ、自分の権利と自由だけでなく他の人の重要な自由に関心を向けることにも、行動を起こす理由を見い出せるようになります。

 人権とは、モノではなく、コンセンサスであり、私たち一人ひとりの意識と行動によって維持されるものです。「人それぞれ」が成り立つ(信念的)地盤であり、この地盤を「それぞれ」ということは出来ません。一人ひとりの人間としての自由の尊重は民主主義社会の地盤であって、ローティが言うように、歴史的偶然の幸運な産物です。そして言論の世界の自由は、公的なものであり、歴史的真理に背くことは、自分の首を絞めることになる。ため息と共に思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp