宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『新潮45』休刊から人権を思う

 今日のワイドショーでは、貴乃花親方の引退宣言会見と『新潮45』の休刊が目を引きました。『新潮45』は、杉田水脈衆議院議員のLGBT(性的少数者)の人々への「生産性がない」という主張を掲載した8月号に続き、10月号で「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文』を特集して、休刊に至りました。

 江川紹子さんが、BJ(Business Journal)に書いている分析が納得できます。LGBTの問題を、杉田議員が性的「嗜好」、つまり好みや趣味の問題と捉えていることの誤りや(生産性のない)彼らへの税金の投入への疑問視発言は「非難の度が過ぎる」という指摘など、その通りだなぁと思いながら読みました。

 尾辻かな子衆議院議員が各省庁に問い合わせたところ、彼らに使われている税金支出はほとんどなく、具体的な金額が提示されたのは人権擁護局を抱える法務省だけ。法務省での29年度予算を見ると、「LGBT(性的少数者)の人権問題対策の推進」として計上されているのは1300万円で、法務省予算の0.017%。国の一般会計予算の0.00001%です。渋谷区では男女共同参画と合わせて1300万円ですが、それでも予算総額の0.01%。

 これらの数値を上げて、江川さんは「これを『支援の度が過ぎる』とは、『非難の度が過ぎる』だろう」と書いています。思わず、その通り、と思いました。

 杉田議員は、要は批判したいんだよなぁ、LGBTの人たちを、と思わざるを得ません。自分の心の中だけで思っている分には思想・信条の自由ですが、衆議院議員が公的媒体を使って「人権」の考え方に背く発言をすることに問題があります。そしてそれを掲載する出版社側は、まさに「差別でめし食うな」(抗議行動をした人たちのプラカードの言葉)と言われてしまう事態を招いています。

 人権の宣言とは、そこに自由の重要性が認識され、その重要性が原動力になっています。例えば、拷問されない権利とは、すべての人が拷問から解放される自由の重要性から出てきます。ここで重要なことの一つは、「すべての人」が主語だということで、自分が共感する相手だからとかではありません。好悪に関係なく、あるいはその人の所業に関係なく、人間であることから生じる権利です。

 そして人権とは、この拷問に関して言えば、拷問したい人間に、拷問を断念させる根拠であり、また拷問するつもりのない者に、拷問という事態をチェックし、抑制する責任を生じさせます。

 <人権>の宣言とは、<人権>を明文化した中で言及された自由の意義に適切な関心を払う必要があることを、倫理的に肯定するものであり、人間としてふさわしい条件としての自由の重要性に注意を向ければ、自分の権利と自由だけでなく他の人の重要な自由に関心を向けることにも、行動を起こす理由を見い出せるようになります。

 人権とは、モノではなく、コンセンサスであり、私たち一人ひとりの意識と行動によって維持されるものです。「人それぞれ」が成り立つ(信念的)地盤であり、この地盤を「それぞれ」ということは出来ません。一人ひとりの人間としての自由の尊重は民主主義社会の地盤であって、ローティが言うように、歴史的偶然の幸運な産物です。そして言論の世界の自由は、公的なものであり、歴史的真理に背くことは、自分の首を絞めることになる。ため息と共に思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp