宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

リベラリズム

 現代において、「各人の自由・平等・幸福」というのは、総論賛成の当たり前だと思います。何をもって、という具体的な問題になると違いが出てきますが。

 自由(リバティ)は、語源的には「主人ー奴隷関係からの解放」を意味するラテン語の「libertas」に由来します。自由主義リベラリズムはここからきています。近世までは、民衆が持ちえない権利(特権)を持っている状態が、フリーダムあるいはリバティでした。このような身分的特権との闘争の中で、自由で平等な自律的な個人という理念が形成されました。これら闘争が市民革命と言われますが、思想的源流ともいえるジョン・ロック(1632-1704)は、名誉革命(1689年)の成功で亡命先のオランダからイギリスに戻りました。思想的には王権神授説を否定して社会契約説をとり、最高権威は人民にあるという主張をして、アメリカ独立革命フランス革命に影響を与えました。ただ古典的自由主義と言われる王政時代のイギリス(ロックもまたその時代を生きています)で主張されたものは、個人の生命、自由、財産の三つの権利は自然権であり、国王であろうとも犯すことのできない最低限の権利である、というものです。民主主義、平等主義の要素は、先の三つの権利の維持に必要なものとして、アメリカの独立宣言(1776年)、フランスの人権宣言(1789年)に加わっています。

 フランスの人権宣言第4条には、「自由は、他人の権利を侵害しないすべてをなし得ること」とあります。アメリカ独立宣言は、自明の真理として「すべての人は平等に造られ」、一定の天賦の権利を与えられていて、「生命、自由および幸福の追求」が含まれると言っています。しかし、ただ自由と平等が獲得されれば、それで実質的に誰でも自分の幸福を追求し得るのか。そこから近代自由主義の思想が要請されます。個人の自由を実質的に保障するには、政府や地域社会による積極的介入が必要とする考え方です。ここで重視されてくるのが、社会権生存権)です。

 生存権が姿を現したのは20世紀に入ってからで、1919年のドイツのワイマール憲法がその典型と言われています。ここでの生存権の規定では、婚姻および母性は国の保護を受ける(第119条)、貧しいものの進学は国の保護を受ける(第146条)、経済生活の秩序はすべての人の人間らしい生活を保障する正義の原則に適合しなければならず、個人の経済活動はこの限界内で保障される(第154条第1項)などがあります。ワイマール憲法が、かなり先進的なものだったことが改めてわかります。日本国憲法第25条では、生存権「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定められています。

 社会主義との違いは、中央集権的な統制を是認しないことや階級間の対立を固定観念化しないことにあります。実質的自由を実現するには、現実的制約となっている社会的不公正を政府が是正しなければならないという立場に立つのが、リベラルと言えます。

 この社会保障などを提唱する自由主義が近代自由主義、ニューリベラリズムですが、もう一つ似た言葉でネオリベラリズムがあります。どちらも新自由主義と訳せますが、1970年代以降の日本で新自由主義は、ネオリベのことを意味しています。こちらは個人の自由や市場原理を再評価し、政府による介入を最低限にすべきと主張します。自己責任を基本とした小さな政府を推奨します。ミルトン・フリードマンフリードリヒ・ハイエクなどが有名ですが、その思想に基づく政策を実行した政治家としては、ロナルド・レーガンマーガレット・サッチャー中曽根康弘小泉純一郎などがいます。この立場は、経済的に低成長時代を迎え、スタグフレーション財政赤字問題の深刻化の中で、福祉国家の見直しや規制緩和を志向するものが優勢になったということです。

 1990年代以降、大きな政府と小さな政府の中道を模索する第三の道が台頭しました。市場を重視しつつも国家による公正を確保しようというものです。グローバル化の進行の中で、実質的自由と平等、幸福の実現に向かってどうかじ取りをしてゆくのか、リベラルの力が試されています。

衆院選への動き:リベラルの力

 高齢になるとどうしても表情が厳しくなります。ところが、軽度認知症の方々は、柔らかなかわいらしさを保っています。健康状態や心的状態なども関わりますが、安定感が保たれる状況ができているときには、こういう穏やかな表情でいられるんだなあとこちらも穏やかな気持ちになります。

 打って変わって、連日ニュースをにぎわす衆院選への変動は、面白くもありますが、力のぶつかり合い、凌ぎあいで疲れてきます。でも、辻元清美さんが「リベラルの力を信じたい」と言っていたのは、ストレートな表現で印象に残りました。

 9月25日に安倍首相が解散を表明したのにぶつけるように、小池百合子都知事が新党「希望の党」の結成を発表。28日には、前原誠司民進党代表が、民進党の候補者を希望の党から立候補させるという奇策を発表。はあー、なにそれ?って思っていたら、希望の党民進党出身者の選別、「排除」を始めました。民進党最大の支援組織連合がこれに反発し、無所属での出馬表明も相次ぎ、10月2日には、枝野幸男民進党代表代行がリベラル新党の結成検討を表明、3日に立憲民主党を立ち上げました。その結党理念は立憲主義と民主主義を基本に掲げたものと言えます。

 衆院選は10日には公示され、22日が投開票と言われています。リベラルとは何か、結構気になる人が増えているようです。自由だと、リバティとかフリーダムですが、自由主義リベラリズムです。じゃあ、リベラルって何でしょうね。辞書的には、形容詞で「気前のよい」「寛大な・心の広い・偏見のない」「自由主義の・進歩的な」「教養的な」などが出てきます。名詞としては自由(改進)主義者となっています。とりあえず、私としては、リベラルの力を「自由主義の力」と捉えておきます。

 じゃあ、自由主義って何?自由を何よりも重視する立場、ということでしょうか。自由にはいろいろあります。経済的自由(ヨーロッパの市民革命を主導した力は、この尊重)、思想信条の自由、宗教の自由、身体的自由、政治的自由などなど。20世紀に入って、社会権が重視されるようになり、人間らしく自由に生きる権利の保障が問題になりました。もう少し整理したいと思いますが、明日にします。

神楽坂散歩

 戸板学園で非常勤をやっていたときの仲間と3人で、毎年恒例の食事会を新宿でしました。その後、2人と別れてから帰りの電車の時間まで余裕があったので、神楽坂を歩いて、ついでに天丼を食べて帰って来ました。もっと神楽坂的お店に入ってみたかったのですが、カフェ以外は何となく一人では入りにくく、天丼も食べたかったので、「天丼 てんや」に入りました。おいしかったです。

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 坂の途中に毘沙門天善國寺(日蓮宗)のお寺がありました。毘沙門天で、那珂市の一乗院を思い出し、一乗院は何宗だったのか気になり調べたら、なんと真言宗智山派でした。華蔵院と同じ宗派です。真言宗弘法大師を開祖としますが、この智山派は新義真言宗の一派です。弘法大師空海(774-835)によって、真言宗の教義は確立されていましたが、その修行法に違いが生じて、分派していったようです。真言宗というと、高野山金剛峰寺と社会科では習いましたが、華蔵院の本山は智積院だと言われ、どういう関係かなあとずっと不思議でした。今回調べてみて、何となく概要が分かりました。でも複雑だなあ。

 新義真言宗は、真言宗の中興の祖と言われる覚鑁(かくばん、1095-1143)に始まります。真言宗の最高仏は大日如来ですが、(従来の)古義真言宗では、真言を唱えるだけで、この大日如来が直接現われて教えを説きます。新義真言宗では、三密行(印を結び、真言を唱え、心を仏に向ける)によって大日如来が加持身となって(修行者と大日如来が一体化して)教えを説くと考えます。新義真言宗和歌山県根来寺を総本山としていますが、根来寺が秀吉によって焼き討ち(1585年)され、塔頭(別院)の一つ智積院が京都に移り、1600年に再興されました。新義真言宗はもう一つ真言宗豊山派長谷寺)が有名です。

 お寺は好きで、真言宗関連の智積院、東寺、長谷寺室生寺にも行っていますが、金剛峯寺にはまだ行っていません。建物や雰囲気が好きなのですが、歴史的背景を知るとまた愛着が増した気がしました。 しかし、長い時間が経過しているんだなあ、と改めて感じます。弘法大師から覚鑁まででも、300年以上たっていて、現在までには1200年以上が経過しています。そりゃあ、中味が形骸化もするわな、ちょっとため息です。でも、哲学の歴史は紀元前からですから、頑張ってる方かな。

ギリガンのケアの倫理2)権利と責任

 昨日はお天気が悪かったのですが、佐川文庫で「前橋汀子 カルテット」夜のコンサートを聴いて満足した時間を過ごせました。前橋さんのヴァイオリンの音色は深みのある音、軽やかな音、高音の研ぎ澄まされた音を引き分けて、身体に染み込んでくるようでした。プログラム自体は、ベートーヴェン尽くしの、聞きなれない曲ばかりでしたが、音の奏でる世界は心地よく、そして思索的でした。でも音と向き合って、研鑽に次ぐ研鑽の世界に生きる人を動かしているものは何なのだろうと、考えていました。

 視覚的芸術作品に取り組む場合のこだわり方は、分かる気がします。自分で花を活けているとき、私の場合はどこかでやめて、これで良し、と割り切りますが、その工夫が無限であることは感じます。大学時代に、ある友人が、音楽会では譜面を見ながら聴くと言っていました。そして、必ず、どこか「違う」と感じる部分があるとも。なんか凄いなあ、と思いながらその話を聞きましたが、私には未だ到達不可能な境地です。

 さて、ギリガンの話を続けたいと思います。キャロル・ギリガンの『もうひとつの声』(1982年)は、大きな衝撃を与えた本でした。彼女は、コールバーグの道徳性の発達段階論への批判(あるいはその一面性の指摘)から、道徳を権利と責任というキーワードで考えます。そして女性の道徳的命令は、世の中の苦悩を緩和するという責任に関わった命令であると言います。これに対し男性の道徳命令は、他人の権利を尊重し、そうすることで生命と自己達成の権利を干渉から守る命令だと言うのです。

 しかしギリガンは、二つの声の違いを単純に男性と女性の違いに還元できるとは考えていませんでした。二つの声は人生における主要な二つのテーマなのだと考えています。世話の倫理は応答責任にのめり込んで自分を見失ってゆく危険性を持ちます。これに対しては、自分の気持ちと向き合うことで、人間関係の真実が見えてくるとき、配慮と責任の対象に自分入れない無理さ加減の問題性が見えてきます。そして、自分を含めたすべての人が思いやりを示されるべきであると主張することで自滅性が和らげられます。

 一方で正義の倫理は、自己の権利を守るため他者の権利も守るという考え方を取ります。ここには不干渉の道徳という潜在的無関心があります。これは思いやりを示すという積極的責任を求めることを通して、自分の注意を論理から選択の結果へと向けることができます。

 実際、ウォーカーやレストの研究では道徳的発達における性差は認められないということが言われます。ウォーカーはギリガンの方法とコールバーグの方法をあわせて実施し、広範な年齢層で検討しました。その結果道徳的な問題の捉え方にはギリガンのいう二つの志向(権利と配慮・責任)があること、しかしそれらは必ずしも性差とは関わらないことが言われています。個人的な領域では「世話の道徳」、多様な欲求の均衡を図ることが問題になる(社会的)領域では「正義の道徳」が使われやすいのです。とはいえ、いち早く「世話(ケア)」に注目し、ケア問題との絡みで道徳性の発達を考察した視点は高く評価されます。ところで、発達の最終段階では両者の統合がなされるにしろ、現実の社会では最終段階に到達する人はまれです。ということは、道徳を考えるときにどちらの側面(正義か世話か)に重点を置くべきかが、問題として残されたままなのです。

ギリガンのケアの倫理1)「正義の倫理」と「世話の倫理」

 


 昨日は、夏の間お休みだった生け花の会があり、久しぶりにお花を活けました。茶色に紅葉したモミジと白いトルコキキョウ、黄色い葉鶏頭に八つ手の葉っぱ。色合わせは活けているときは、地味に感じましたが、家に戻って玄関に活けたら驚くほどの華やかさ。生け花は活ける場所とのコラボなんだと、改めて気づかされました。芸術作品も本来は場所とのコラボだったものが、美術館のような特定の場所で観賞するものという「約束」がいつの間にか当たり前になっています。

             f:id:miyauchi135:20170930225038j:plain                f:id:miyauchi135:20170930224855j:plain            男女共同参画支援室の交流室でお稽古していますが、広い空間と自宅の玄関では花の雰囲気が異なりました。

 美術作品の「自立」という方向性と自我の自律の理念が重なって感じます。ギリガンのケアの倫理は、どこまでも関係性の中にある「私」の道徳的発達を追求したものです。これは女性被験者のジレンマへの対応の中に、明瞭に表れています。

 ギリガン(Carol Gilligan1936~)はE・H・エリクソンに学んだ後、コールバーグの指導のもとに、青年期のアイデンティティ形成及び実生活上の道徳的葛藤を扱う研究をしていました。その中で、普遍的な道徳性の発達段階を唱えたコールバーグに対し、二つの点から批判を展開しました。第一は文脈的相対主義の問題です。第二は女性の道徳性の発達の問題です。

 文脈的相対主義の問題とは、コールバーグが文脈相対主義者たちを4と2分の1段階(4段階から5段階への移行段階)と評価した問題です。これに対しギリガンは、文脈的相対主義は、もっと高い水準にあると考えています。なぜなら文脈相対主義の問題とは、成熟した成人期の道徳的判断そのものの問題でもあるからです。大人が直面する道徳的状況は一般的原理と葛藤を生じる(嘘を言うことは悪いことですが、正直に「あなたの歌は聞くに堪えない」と言うのが望ましいわけではありません)ことがよくあります。その後ギリガンの関心は、むしろ女性の道徳性発達に向けられているので、以下では1982年に出版されて大きな反響を引き起こした『もうひとつの声』を参照しつつ、その問題を取り上げることにします。

 ギリガンはコールバーグの理論が男性を中心に構成されたものと批判しました。コールバーグ自身、彼の最初の理論構想の目的は、道徳性の発達を引き起こす要因として仲間集団への参加と、父親との同一視に関する仮説を検証することであったと言っています。ギリガンは、コールバーグが理論化しなかった「もう一つの」発達の道筋を提示しようとしました。ギリガンは女性を被験者に、道徳的ジレンマ(コールバーグのモラル・ジレンマや実生活上のジレンマ)や自己の捉え方に関する面接を行いました。そして、ギリガンは二つの声それぞれに「正義の倫理」、「世話の倫理」という名前をつけて、両者の比較をしました。まず、よく引き合いに出されるハインツのジレンマに対するエイミーの回答をみてみましょう。ここではエイミーの回答と、同じ11歳の男の子(ジェイク)とのそれを比較検討しています。

 【エイミー】:そうねえ。ハインツは盗んじゃいけないと思うわ。ハインツは、そのお金を人に借りるとか、ローンかなんかにするとか、もっと別の方法があるんじゃないかしら。ハインツは絶対その薬を盗んではいけないわ。でも、ハインツの奥さんも死なせてはいけないと思うし。(なぜ盗んではいけないと思いますか)。だって、もしハインツがその薬を盗んだら、確かにその時だけは奥さんを助けることができるわよ。でも、もしそうしたらハインツは監獄に行かなければならないかもしれないし、そうしたら奥さんは前よりも病気が重くなってしまうかもしれないわ。そうなったら、ハインツは、薬よりも大事なものをなくしてしまうことになるじゃないの。こんなことはちっともよくないわ。だからハインツたちは人に事情を話して、薬を買うお金をつくるなにか別の方法を見つけるべきだと思うわ。

 これに対してジェイクは、ハインツは盗むべきだというはっきりした回答を最初から持っていました。なぜなら、彼はハインツのジレンマを財産と生命という価値観の葛藤問題として理解し、生命に論理的優先権を与えたのです。論理に魅了されているジェイクは、道徳的ジレンマは人間についての数学問題に類するものと考えています。

 しかしエイミーは、ジレンマの中に数学の問題ではなく、人間に関する、時間を越えて広がる人間関係の物語を見ています。「正義の倫理」は道徳問題を諸権利の競合から生じるものとし、形式的・抽象的な思考で諸権利に優先順位をつけることでこの問題に解決を与えようとします。ここでの自己の概念は、分離されたものであり、その自分自身から始めて、やがて「ほかの人たちと一緒に生きていかなければならない」ということを認識して、妨害を制限し、損害を最小にする規則を見つけようとします。この立場での責任は、行動を制限することや攻撃を抑制することに関わります。すなわち、ジェイクにとって責任とは「他人のことを考慮して自分のしたいことをしないこと」なのです。なぜなら、彼によると攻撃性の表出によって人は傷つくからです。

 しかしエイミーにとっては「自分のしたいこととは無関係に、他人が彼女にしてもらいたいと願っていることをすること」が責任の意味することです。なぜなら、自分の要求が答えてもらえないとき人は傷つくと、彼女が考えているからです。エイミーは、他人との結びつきを前提にして分離の変数(結びつきが同時に分離であるような条件)を求め始めます。以下、次回にまとめたいと思います。

コールバーグの道徳性の発達段階論を検討する

 コールバーグの道徳的認識の発達段階の設定は面白いと思いますが、そこには混乱があるような気がしています。ギリガンが指摘したように、別の在り方を混在させている気がします。私は、第2段階から第3段階を経るのでなく、第4段階、第5段階に行くリニアと第2段階から第3段階、そして別の展開があると思います。第6段階は両方の系列に関わっている気がします。第2段階から慣習レベルの第4段階の「決まりは決まり」系列の展開をすると、第5段階の社会契約的法律志向が発展理念として受け入れやすい。ただし、第5段階は建前としても掲げられます。

 ここでもう一つの問題が指摘できます。それは、道徳の発達について哲学的に考えることと心理学的に考えることとを統合しようとする点です。取り組みとしては評価しますが、心の発達と道徳の在るべき姿への論理的展開とが平行関係で捉えられて、心の発達の段階設定でも到達目標と掲げられることは、それほど自明なことだろうかという疑問です。

 コールバーグは、発達心理学において発達段階を設定し、それが文化の違いや性差を超えて設定可能であるという前提から出発します。そして、そのより高い段階への移行(分化と統合という基準に基づく発達)が見られるとしますが、その望ましさを心理学の中だけで証明することはできません。望ましさは価値に関わる問題だからです。

 この価値と事実の関係をコールバーグは平行関係であると言います。すなわち「道徳性の発達の方向」と道徳哲学における「適切性の規準」は導き合いの関係ではありませんが、平行関係にあるということです。道徳哲学における「適切性の基準」は道徳的規則の持つべき性質として次のように整理されます。①普遍化可能性の基準と②指令性(個人的な好みや欲求を超えた命令の性質、「べき」)です。これは人間一般に当てはまる理性(真偽・善悪を見分ける力)の在り方を示すものです。

 道徳性の発達は、発達心理学における基準では分化(たとえば鯨を食べる人間は悪いので殺されても仕方ない、という動物の生命への自然的共感反応を示した子が、人間の生命の価値と動物の生命の価値を区別するようになる)と統合(人間の生命価値と動物の生命価値を質的差異があるものとして位置づけ直す)の度合いの進展ですが、それはまた倫理学における適切性の基準をより十分に満たすような道徳判断が可能になる過程でもある、とコールバーグは言うのです。つまり、道徳性の発達と道徳哲学における適切性の基準が平行関係にあるという前提から出発していますが、道徳哲学の規準は建前としても受け取ることが可能なものです。世の大人がよくやってますよね。

 コールバーグは認知・構造的特質を道徳性発達の中核に置きますが、道徳判断は、単に論理的、技術的思考の意味における知能が、道徳的状況や道徳問題に応用されたものではないと言っています。そして、次のような検証不可能な仮説が含まれていることも言われています。すなわち道徳的原理を発達させるには、その前に道徳性の全段階を経過しなければならないだろうという仮説です。もしこれが事実でないとすれば、道徳の分野における普遍的連続性を説明することは困難になると考えられます。

 成熟した道徳判断の妥当性(高い段階は低い段階よりも適切である)を保証する基準は、真実性の価値や有効性といった基準より、もっと一般的な構造的基準に基づいています。この一般的な基準は、発達理論において、あらゆる成熟した構造を規定すると考えられている形式的な基準です。それは分化と統合の増進という基準です。発達は認知的葛藤や認知的不安状態(たとえば親子関係で求められている行動と、友人関係で求められている行動が異なっているというような状態)を「原動力」にした道徳的認知構造内の再組織化という過程をとります。前の段階の矛盾の解消によって道徳性は発達を繰り返すわけですから、当然段階の飛び越しはありえないのです。そして発達においてより高い段階が、包括性を持つことはいえると思います。

 しかしこの発達心理学のアイディアと、道徳哲学における適切性の基準は本当に平行関係を持つのでしょうか。カントからヘアーにいたる形式主義哲学者たちが、真の道徳判断ないし適切な道徳判断の特徴と考えてきた形式的基準は、このような発達の形式的基準(分化と統合)と一致するにしろ、哲学における基準の導出は純粋に論理性の次元でのことではないでしょうか。この疑問は、彼が発達の最終段階とその結果の道徳判断の基準を「正義」――後に正義と慈愛に変更されていますが――においていることへの疑問でもあります。

コールバーグの道徳性の発達段階論3)

 私たちが通常道徳として受け止めている規範レベル、それが慣習的水準と呼ばれているものです。一言で言えば、この水準は現状維持を前提としています。そしてこれもコールバーグは2段階に分けます。

〔慣習的レベル〕

 個人の属する家族、集団、あるいは国の期待に添うことが、それだけで価値があると認識され、それがどのような直接的結果をもたらすかは問われません。さらに、社会の秩序に対する忠誠心、その秩序の積極的維持と正当化、所属集団への同一化傾向が見られます。

<第三段階――対人関係の調和あるいは「良い子」志向>

 善い行動とは、人を喜ばせ、人を助け、人から承認される行動です。多数意見や「自然な」行動についての紋切り型のイメージに従う傾向があります。「善意でやっている」ことが重要であり、「良い子」であることによって承認を得ます。

【動機づけ】・賛成:薬を盗んでもハインツを悪い人間だと思う人はいないでしょうが、盗まない場合は、家族の者は彼を人でなしの夫と思うでしょう。

      ・反対:みんなから犯罪者と考えられてしまいます。自分の家族や自分の顔に泥を塗るような行為をしたことを後悔するでしょう。

<第四段階ーー法と秩序」志向>

 権威、定められた規則、社会秩序の維持などへの志向が見られます。正しい行動とは、自分の義務を果たし、権威を尊重し、既存の社会秩序を、秩序そのもののために維持することです。

【動機づけ】・賛成:結婚するとき、人は妻を愛し、大事にすると誓います。結婚は愛情だけではなく法的契約に似た一つの義務でもあるのです。

      ・反対:法律上、財産の権利の侵害は悪です。刑務所に入れられ冷静になったとき、自分の不正と法を犯したことに対する罪の念を常に感じることになるでしょう。

 この第3段階と第4段階の順序は、自律に向かう正義原理からは納得しますが、人間関係を重視する立場からすると、第4段階は「杓子定規」になります。

〔慣習以後の自律的、原理的レベル〕

 このレベルでは、道徳的価値や道徳原理を、集団の権威や道徳原理を唱えている人間の権威から区別し、また個人が抱く集団との一体感からも区別して、なお妥当性をもち、適用されるようなものとして規定しようとする明確な努力が見られます。

<第五段階ーー社会契約的遵法主義志向>

 正しい行為は、一般的な個人の権利や、社会全体により批判的に吟味されて合意された基準によって、規定される傾向があります。個人的価値や意見の相対性が明瞭に意識され、合意に至るための手続き上の規則が重視されます。「法の観点」が重視されるのですが、第四段階とは異なって法を固定的には考えません。社会的効用を合理的に考察することにより、法を変更する可能性が重視されます。

【動機づけ】・賛成:薬を盗まず妻を死なせるとすれば、それは恐怖心の結果です。したがって自分の自尊心を失うとともに、他の人々の尊敬をも失ってしまうでしょう。

      ・反対:共同体での自分の地位と尊敬を失い、法を犯すことになります。感情に流され、長期的展望を忘れてしまうと、自尊心も失ってしまいます。

<第六段階――普遍的な倫理的原理志向>

 正しさは、論理的包括性、普遍性、一貫性に訴えて自ら選択した倫理的原理に一致する良心の決定によって規定されます。これらの原理は、人間の権利の相互性と平等性、一人ひとりの人間の尊厳性の尊重など、正義の普遍的諸原理です。

【動機づけ】・賛成:薬を盗まず妻を死なせてしまったら、人から非難されず、法を犯すことがなかったとしても、自分自身の良心の基準に従わなかったことで自分を責めることになるでしょう。

      ・反対:薬を盗めば、人からは非難されなくとも、自分自身の良心と誠実の基準に従わなかったという理由で自分自身を責めるでしょう。

 第5段階・第6段階は倫理学的理論のレベルと考えていいでしょう。第5段階がいわゆるコンプライアンス、遵法主義が目指しているものです。第6段階は、現実にはなかなか実現できないと言われています。

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