宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ギリガンのケアの倫理2)権利と責任

 昨日はお天気が悪かったのですが、佐川文庫で「前橋汀子 カルテット」夜のコンサートを聴いて満足した時間を過ごせました。前橋さんのヴァイオリンの音色は深みのある音、軽やかな音、高音の研ぎ澄まされた音を引き分けて、身体に染み込んでくるようでした。プログラム自体は、ベートーヴェン尽くしの、聞きなれない曲ばかりでしたが、音の奏でる世界は心地よく、そして思索的でした。でも音と向き合って、研鑽に次ぐ研鑽の世界に生きる人を動かしているものは何なのだろうと、考えていました。

 視覚的芸術作品に取り組む場合のこだわり方は、分かる気がします。自分で花を活けているとき、私の場合はどこかでやめて、これで良し、と割り切りますが、その工夫が無限であることは感じます。大学時代に、ある友人が、音楽会では譜面を見ながら聴くと言っていました。そして、必ず、どこか「違う」と感じる部分があるとも。なんか凄いなあ、と思いながらその話を聞きましたが、私には未だ到達不可能な境地です。

 さて、ギリガンの話を続けたいと思います。キャロル・ギリガンの『もうひとつの声』(1982年)は、大きな衝撃を与えた本でした。彼女は、コールバーグの道徳性の発達段階論への批判(あるいはその一面性の指摘)から、道徳を権利と責任というキーワードで考えます。そして女性の道徳的命令は、世の中の苦悩を緩和するという責任に関わった命令であると言います。これに対し男性の道徳命令は、他人の権利を尊重し、そうすることで生命と自己達成の権利を干渉から守る命令だと言うのです。

 しかしギリガンは、二つの声の違いを単純に男性と女性の違いに還元できるとは考えていませんでした。二つの声は人生における主要な二つのテーマなのだと考えています。世話の倫理は応答責任にのめり込んで自分を見失ってゆく危険性を持ちます。これに対しては、自分の気持ちと向き合うことで、人間関係の真実が見えてくるとき、配慮と責任の対象に自分入れない無理さ加減の問題性が見えてきます。そして、自分を含めたすべての人が思いやりを示されるべきであると主張することで自滅性が和らげられます。

 一方で正義の倫理は、自己の権利を守るため他者の権利も守るという考え方を取ります。ここには不干渉の道徳という潜在的無関心があります。これは思いやりを示すという積極的責任を求めることを通して、自分の注意を論理から選択の結果へと向けることができます。

 実際、ウォーカーやレストの研究では道徳的発達における性差は認められないということが言われます。ウォーカーはギリガンの方法とコールバーグの方法をあわせて実施し、広範な年齢層で検討しました。その結果道徳的な問題の捉え方にはギリガンのいう二つの志向(権利と配慮・責任)があること、しかしそれらは必ずしも性差とは関わらないことが言われています。個人的な領域では「世話の道徳」、多様な欲求の均衡を図ることが問題になる(社会的)領域では「正義の道徳」が使われやすいのです。とはいえ、いち早く「世話(ケア)」に注目し、ケア問題との絡みで道徳性の発達を考察した視点は高く評価されます。ところで、発達の最終段階では両者の統合がなされるにしろ、現実の社会では最終段階に到達する人はまれです。ということは、道徳を考えるときにどちらの側面(正義か世話か)に重点を置くべきかが、問題として残されたままなのです。

h-miya@concerto.plala.or.jp