宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ゴミと私たち:社会のシャドウ・ベース

 以前に空き家問題を書いたことがあります。実家も空き家になり、取り壊しました。父が亡くなり、母も高齢になり、一人では管理できなくなったこともあって、壊しました。下は、解体に入った段階です。

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 2週間くらいで、更地に戻されました。

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 感慨と共に、あっけなさを感じています。建物を作るとき、あるいは何かを始めるときは、あまり終焉のことを考えていないと思います。でも終わりは来るのであって、使われなくなった建物や古くなった建物をどうして行くのか。壊せばいい、という話ではないと思います。壊すと膨大なゴミが出て、もちろん費用も掛かります。出来るだけゴミを出さないためにはどうしたらよいのか。

 1月3日の東京新聞の一面トップは「空き家 首都圏侵食」でした。2003年から13年までに、首都圏1都6県での空き家率10%未満の自治体数が、125から56へと減ったようです。宇都宮市は14年に「ダブルプレイス」と銘打って、二地域生活の提唱を始めました。2015年に国土交通省国土形成計画は、都市住民に地方との二地域居住を促す方策を打ち出しています。昨年12月には、茨城県も含め新潟、福島、栃木、群馬の5県が「ガッツリ移住系、ダブルプレイス系 あなたはどっち !?」という相談会を東京・有楽町で開催。空き家をどう活用してゆくのか、いろいろな知恵が必要です。

 ゴミの問題は、食品ロスをどう減らすのかにもつながります。市場に出せないものでも、消費期限内のものや賞味期限が切れても食べれるものなど、「もったいない」と思います。捨てるのでなく価格を下げるというのは、コンビニでも始まっています。ただ経営戦略としては、コンビニは「利便性を売る」ところに主眼があるので、下手に安売りをすると自滅するとも言われます。セブン・イレブンが廃棄食品で肥料を作る事業を始めた、とどこかで読んだ記憶があります。食品を捨てないでどう活かすか、知恵を絞る必要があります。捨てるのでなく、NPOなどを通して、困っている人たちに回してゆくシステムをもっと作れないものでしょうか。

 人間が出す排泄物はどうなるのか。下水道を通って下水処理場に集められ、沈殿と微生物による分解を繰り返してきれいになった水は、河川に流されます。バキュームカーで回収されたものも、投入施設から下水道に放流され同じ過程をたどるようです。下水処理場で発生した汚泥のごく一部が堆肥や道路などの舗装資材に加工され、残りの大半は焼却処分され、灰は埋め立てられます。

 ひたちなか市那珂湊清掃センター敷地には、一時保管庫で指定廃棄物が保管されています。これは東京電力福島第一原子力発電所の事故によって放出された放射性物質が、風や雨の影響で広範囲に移動・拡散し、様々なものを汚染して出された廃棄物です。本来国が処分することになっています。指定廃棄物は、放射性セシウム濃度が1キログラム当たり8000ベクレルを超える廃棄物ですが、旧清掃センターの一次保管庫にあるのは、センターでのゴミ焼却によって発生した焼却灰です。この保管強化のお知らせが、『市報 ひたちなか』(12月25日号)に載っていました。

 ベクレルは食品や水・土壌の中に含まれる放射能の総量を現すときに、「1キログラム当たり1000ベクレル」というように使い、放射線を出す能力を表します。よく聞くシーベルトは、人体が直接受ける放射線量を表します。

 2016年4月28日に、環境省福島第一原発事故で発生した指定廃棄物に関し、放射性セシウム濃度が8000㏃/㎏の規準を下回った場合は、指定廃棄物の扱いから一般ゴミ扱いの処分を認める決定をしています。3.11以前は100㏃/㎏超はドラム缶で厳重管理でした。えー、それって何?という決定でした。

 ベクレルをミリシーベルトに換算するには、ベクレルに実効線量係数という値をかけます。3.11以降、日本の食品に対する暫定基準値は、穀類・野菜類・肉・魚が500ベクレル、飲料水・牛乳が200ベクレルです。チェルノブイリ事故を経験したウクライナの基準値は、飲料水2ベクレル、野菜40ベクレル、牛乳100ベクレルです。

 例えば、1キログラム当たり500ベクレルのセシウム137が検出された飲食物を食べた場合の計算は、次のようになります。500×1.3×10⁻⁵=0.0065㍉㏜。これを1年間摂取すると、0.0065㍉㏜×365=2.3725㍉㏜。経口摂取と吸入摂取(呼吸で取り込んだ場合)では実効線量係数は異なりますし、外部被曝の場合は、個人線量測定器の測定結果から算出するようです。8000㏃/㎏の焼却灰が、現実にどの程度のシーベルト換算になるかは、よく分かりません。旧那珂湊清掃センターの敷地境界線の空間線量率は、国の除染基準値0.23マイクロ㏜/hを下回っていると書かれていました。年間に換算すると、0.23×24×365×10⁻³=2.0148㍉㏜になります。

 ところで放射線管理区域、その線量限度は年間5.2㍉㏜以上の区域です。この区域には18歳以上でなければ入れません。そしてここでは飲食・喫煙・就寝は禁止。管理区域外に出るときは汚染検査し、除染が完了しなければ出られません。汚染の危険があるところでは防護服、全面マスク、手袋、靴カバーなどを着用します。

 自然界から受ける放射性物質からの影響は世界平均で、年間約2.4㍉㏜と言われます。明らかに即死に至る高線量被曝領域に対して、低線量被曝領域は影響がないかのように言われていますが、これは現在科学的には否定されています。国際放射線防護委員会は次のように述べて、放射線の被曝はそれが低線量であっても影響があることを認めています。

「生体防護機能は、低線量においてさえ、完全には効果的でないようなので、線量反応関係にしきい値を生じることはありそうにない」

 さらに、人間の被曝に関してはもっと具体的データがあります。広島・長崎の原爆被爆者のデータです。これによるとむしろ低線量になるに従って、単位線量当たりの被曝の危険度が高くなる傾向が示されています。3.11で発生した大量の指定廃棄物。そして他の原発から出たゴミ、出るゴミ。これをどう扱ってゆくのか。

 「指定廃棄物の保管強化のお知らせ」には、保管強化と共に、基準値以下に濃度が下がった場合、段階的に処理することが決定された、と載っています。そしてまた、現在「8,000ベクレル/㎏程度まで減衰していると推定されます」とあります。埋め立て資材として使うこともあるのでしょうか。ゴミ問題は、まさに社会のシャドウ・ベースだと思います。

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        この水の美しさが守られ得る社会でありますように 

認知症と共に生きる

 認知症になると、いろいろなことが分からなくなり、出来なくなります。ここでは認知症という表現で書いていますが、本来認知症とは病名ではなく、認知症候群のことです。記憶に障害が生まれ、時間が分からなくなり、場所が分からなくなり、人が分からなくなり、思考機能に障害が起こることなどを、認知症と言います。病名としては、アルツハイマー病、脳血管性認知症レビー小体型認知症、前頭側頭型認知症(ピック病)などが上げられます。

 クリスティーン・ブライデンさんは、46歳で若年性認知症を発症し、オーストラリア政府の上級行政官としてのキャリアをあきらめます。彼女は2冊の本を書き、世界各国を講演して歩きました。日本にも2003年、2004年に来ています。一冊目の本は『私は誰になっていくの?』、二冊目は『私は私になっていく』です。彼女はクリスチャンなので、最後に到達する本当の自己を、神とのつながりの中での(霊性レベルの)「精神的自己」と捉えています。

 認知症では記憶障害がまず言われます。記憶の帯が切れて抜け落ちてしまうと。通常の物忘れはヒントがあったり、関係する場所に行くと思い出したりします。何のために2階に行ったか忘れても、1階に戻ると「ああそうだった。あれを取りに行ったんだ」と思い出すような場合です。これは結構ありますよね。認知症の症状としての物忘れは、忘れていることも忘れます。

 ただし、感情記憶は最後まで残ると言われています。認知症になるとすべてを忘れてむしろ楽になるのでは、と言うのは違うようです。感情の世界は最後まで残っていて、記憶が失われて行っても、情動を揺り動かしたものは最後まで残ります。あるいは、感情記憶は結構鮮明で、事実や理由は忘れてしまっても、その時に体験した感情記憶は残っています。

 次に言われるのが見当識障害です。いつ、どこ、誰(人物)に関する認知を見当識と言いますが、この順番で症状が出てくると言われます。時間が分からなくなり、夜中に外出の支度をし、家にいるのに家に帰りたいと言いだし、家族が分からなくなって「誰でしたかね?いつもお世話になってます」など言い出し、家族にショックを与えます。

 初期の認知症の方と接していても、普通の話は辻褄が合っていて、違和感を感じません。気分が安定していると、日常の動作にはそれほどの問題は生じていないようです。ただ一見問題なく安定しているように見えても、本人の疲れ方や不安感は、かなり重い場合があるようです。

 『ポールとクリスティーン』というドキュメンタリ―番組の中で、クリスティーンさんが、スプーンを仕分けできなくなって、「私の手に余る」と言っていました。視力はあって見えているのですが、分類すること片づけることが出来なくなります。このような認知する自己の崩れは、やはり自分が崩れてゆく不安感と共に、自分の居場所への不安感をも生み出している気がします。

 クリスティーンさんは、タクリンを飲まないと、「ぼんやりと霧がかかったようで何が何だか分からず、ひどく落ち着かなくなり、疲労困憊した感じになる」と書いています。認知症状とはこのようなぼんやりと霧がかかったような状態、精神が曇ってゆくような状態なのかもしれません。

 しかし、クリスティーンさんは、「認知は二次的なものであるとして、ゆっくり生きていく人生に満足すれば、私たちの人格の他の部分が広がってくる」と書いています。病気は変えられなくても、自分の態度は変えられる。誰でも自分の態度を日々選べる。そしてサバイバーであることを自分は選んだ、と。そして、それにはケア・パートナー(ポールさん)が重要な役割を担うとも。認知症が中程度に進んだ方でも、ゆっくり対応すると、かなりのことができます。理解するまでに、時間がかかります。そして要求されている行為をするにも、時間がかかります。

「痴呆症を持つ私たちにとって、私たちが解放され、内なる自由を得て、人間としての尊厳を維持出来るような選択ができるようになるためには、ケア・パートナーが重要な役割を担うということになる」(『私は私になってゆく』226頁)

 「自己」とは何かをクリスティーンさんは病の中で掴んだようです。そして彼女は時間と場所を共にするすべての人に、「あなた」と呼掛け、自分たちがあなたたちとできることは、この今という時を一緒に大切に生きること、この今を一緒に強烈に経験することだ、と言います。そして、「この時」を大切にすれば、真の自分を受け入れるということを、あなた自身も私たちと共に分かち合えると。ケア・パートナーという関わり方を、もっと理解してゆきたいと思います。

成人の日

 明日9日は、成人の日です。1998年のハッピーマンデー制度によって、2000年から、成人の日が1月第2月曜日に移動しました。私は、成人の日というと1月15日世代なので、年によって、成人の日がうろうろしている感じがして、ピンときません。最も自分が20歳のとき、成人の日をどう受け止めていたかと言われると、地元を離れていたこともあり、成人式に参加しませんでしたから、今と変わりないのかも。

 成人式は地方公共団体が行うイベントで、ほかの国々では見られないようです。奈良時代に始まった元服を起源とします。世界の成人式は、成人になったことを祝うというより、通過儀礼の一つという側面が強いようです。メキシコのベラクルス州では「逆さ吊りで13回まわされる」とか、アフリカにすむマサイ人は、「14,5歳になると一人でサバンナに出かけ、ライオンを仕留めると成人と認められる」など。また、いわゆる先進諸国には「成人式」は特にはないようです。

 面白いなあと思ったのは、ネイティブアメリカンの「ビジョンクエスト」。これは3日3晩、飲まず食わずで(もちろん水もダメ)一人で山籠もりし、天からビジョンをもらうものだそうです。チョークチェリーの苗木を四方に立てて三畳ほどのスペースを作って、そこに籠ります。ここは夜でも安全で、動物も襲ってこないとか。その四角い範囲は、チーフが作った<結界>で守られているからということらしいです。現代では、他文化圏の人たちが一種の自分探しとして、このビジョンクエストに参加したりしているとか。私もちょっと関心を惹かれました。

 現在行われている日本の成人式は、1946年11月22日に埼玉県蕨町(現在の蕨市)で行われた「青年式」がルーツになっています。敗戦の虚脱状態の中、青年たちに希望を持たせ励ますために、蕨町青年団長の高橋庄次郎さん(のち蕨市長)によって始められました。これに刺激された日本政府が、1948年に公布・施行された祝日法に1月15日を成人の日と定め、全国に広まりました。

 成人の日が1月15日になったのは、この日が小正月で、かつて元服の儀が小正月に行われていたからと言われています。

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           5日の勝田駅前とイルミネーション

 

自立支援としての介護とは?

 現在、介護は自立支援と言われ、本人の自己決定権を重視することを基本に置きます。でも自己決定権、これってとても大変なことです。確かに、一人ひとりが大切にされるには、各人の選択・決定が重視される必要があります。しかし、選択・決定には、情報とそれを処理する能力が必要です。自己決定権はそれほど簡単に言われていいのか、違和感があります。自立支援ってそもそも何か。自立支援イコール自己決定権重視、というような言われ方をしている気がします。

 居宅介護であれば、本人のこれまでの生活のベースがあるので、「何を食べたいか・何をしたいか・何を着たいか」の選択・決定は、本人に聞けばある程度分かります。本人が馴染んでいる状況設定なので。

 これが施設介護の場合、施設側が用意した中で、本人の要望を出来るだけ適える形になります。しかし、利用者さんにとっては、施設側が用意したものを理解し、選択・決定するのは、結構大変なのではないでしょうか。また施設側も、何を何のために用意するのか、そのレベルをどうするかなど。

 そもそも施設は何のためにあるのか。家ではできないことをするため?あるいは家族が看られないから。「今の学校は子どもの一時預かり所になっている」と言った校長先生がいたようですが、介護施設も一時預かり所になっていないか、問われる必要があります。どちらも一時預かり所になってしまうのは、社会から切り離された避難所のようになっているからではないでしょうか。「出番がない」という状態は、手持ち無沙汰なものです。

 自立支援を取りあえず、本人が望む生活を、出来るだけ自分の力で出来るように支援する、と捉えます。そうすると、介護が自立支援なら、特に高齢者ほど、なじみの環境の中での生活を支援をする必要があるのではないでしょうか。これは手間がかかります。かつそれを施設でどう実現するのか、となるとまた難しいことはわかります。

 また、本人の望む生活自体を社会に位置づける形でどう捉えてゆくのか、これも難問です。

介護の現場初日を経験して

 4日から介護の現場に入りました。圧倒的に女性が多いです。そして、女性たちがてきぱきと、かつ利用者さんに適切に話しかけながら、動いています。男性は数も少なく、かつ若い時から働いている人は、リーダーのポジションに移っていくようで、管理的業務もこなしています。

 女性たちはおそらく移動が多いだろうなあ、と直感しました。ある程度技術があれば、自分の生活に合わせて、現状であれば、仕事はあるなあと。

 どういう働き方を望むのかにもよりますが、介護の現場で施設の正社員だと、夜勤が必ず入ってきます。初任者研修を一緒に受けていた20代の女性は、すでに施設で働いていましたが、体が対応できるようになっていると言っていました。それと夜勤手当がほしいからとも。ただ子どもがいる場合は難しいのでは、と思います。

 私は軽度認知症の方がほとんどの、デイ・サービスのフロアに配属されました。利用者さん一人ひとりの顔と名前を一致させるのが、大変だと感じています。今のところ、年明けで、お休みの人も多く、職員の数も足りているので、あまりばたばた感はありません。いろいろなことを任されるようになると、体力も気力もきつくなっていくのかもしれませんが。

 かつて介護士をしていたという知り合いの女性が、いろいろ記録しなければいけないのが合っていなくて辞めた、と言っていました。彼女は、対面的対応は得意な人です。介護士に向いていると思いますが、利用者さんに対応しながら、記録するのは大変なことなのかもしれません。

 教育の場も一人ひとりへの対応が重要ですが、介護の現場はそれが徹底しています。教育の場では、「教える」という行為が前面に出るせいもありますが、子どもたちは本当に大切にされてきたのか、と思わず考えてしまいました。逆に介護の現場では、サービス提供の方向性が本当に分かっていないと、利用者さんが持っている力を逆に萎えさせてしまう危険性があるんだなあ、とも思います。

 横石知二さんの『そうだ、葉っぱを売ろう!』を思い出しました。高齢者でも女性でも稼げる仕事があると、介護施設はがら空きになる。本当は、人間、生涯現役が望ましいのではと思う私は、仕事人間の考え方に染まっているのでしょうか。

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       ひたちなか市高場の静神社 木登り熊

 午後初詣で、静神社に行くと言うので、那珂市の静神社?えーそこまで行くのと内心びっくりしていたら、ひたちなか市にも静神社がありました。

2017年にやりたいこと:現場での記録と所感

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①介護の現場に慣れたら、秋ぐらいから社会福祉士の受験資格を取るため、通信教育を受け始める。②ワーカーズ・コレクティブの可能性を探る。③稲葉峯雄さんの「記録なくして処遇なし」と向き合う。利用者の言葉を書き留め、それへの所感を書く。④現象学の記述という手法への理解を深める。

 どこまでやれるかわかりませんが。③と④はやろうと思っています。森を見る方法と木を見る方法があります。いわゆる理論は森を見るとき、とりあえずの見取り図をくれます。ただそれに引き摺られて、木を見誤る、見落とすことがあります。

 社会福祉士の資格を取るための学習は、福祉という森を見る時に役に立つのではと思います。ただし利用者一人ひとりは、それでは見えてこないでしょう。経験の意味とはそういうことなのだと思います。ただ経験は、そのままだと流れてしまいます。それをどう、「客観視」するのか。対象化してゆくやり方として、記録・記述があるのだと思います。

 メルロ=ポンティが知覚の最適点を言っています。そのものが最もよくとらえられる場所。ここで実現されているのが「特権的知覚」です。美術館で絵を観るときの動き方を考えると、分かりやすいかもしれません。ですから現象学的記述にとっては、現にあるもの(実在)とは、すでにあるものではなく、(記述によって)生み出されるものです。

 人間的な事柄をとらえる最適点と、コモン・センス(常識)は大きく関わっていると思います。常識には二つの側面があります。①固定化して物事を狭めて捉え、惰性化する捉え方と、②偉大なる常識人と言われるような人が体現する、豊かな現実に対応した実際的で健全な捉え方と。後者の常識が、人間的事柄の最適点といえると思います。

 趣味というと現代では、主観的な世界に関わり、ほかの人があれこれ言うべきでないという感じで捉えられています。しかし、趣味は、もともとは道徳上の概念だったと、ガダマーは指摘しています。趣味のいい人とは、「人生や社会のあらゆる事物に対して自由に適切な距離をとることによって、意識的にしかも超然と区別し選択できるひと」のことでした。今もそういう意味合い、残ってますよね。ですから趣味とは私的なものではなく社会現象です。そして論証できるようなものではなく、また誰もそんなことを求めない「感覚のようなもの」だったと。

 趣味の概念が、美的感覚的世界に限定されたのは、カントの『判断力批判』以降だろうと言われています。カントは判断力の根底に、趣味としての共通感覚(コモン・センス)を置きます。そして共通感覚は、概念化しえないものとして道徳領域から切り離されます。カントの道徳論は、「いつでもどこでも誰にでも」当てはまるような(自分で立てた)規則に従え、という普遍化要請を第1に置きます。

 そして、趣味概念は主観的なものとされ、しかしその徹底によって「美的趣味の主観的普遍性」が言われ、「天才」に集約されてゆきます。ですがこうして、精神科学は方法上の独自性を正当化する根拠を失い、自然科学的認識以外の理論的認識は凋落していったと。

 コモン・センスは共通感覚と常識と二つの意味を持ちます。人間的事柄の最適点は、このコモン・センスと関わっていると思います。そしてこれを捉えるのは、良い感覚なのでしょう。記述は、ただ書くこと、現にあるものを書くことです。現にあるものを最もよくとらえる視点を探りながら書き続けること。これを通して、人間的事柄の「特権的視点」、コモン・センスが熟成するのかどうか、やりながら考え続けたいと思います。

  

謝る力、許す力

 師岡カリーマさんが、東京新聞の「ホンネのコラム」で「慰安婦像と誠意」(12月31日)と題して、許しの問題を書いていました。ソウル日本大使館前に設置された慰安婦像撤去問題です。相手方の怒りが収まらないときどうするか。

「選択肢は二つに一つ。もう謝ったんだからいいじゃないか、と開き直るか、もういいよと言われるまで謝り続けるかだ。後者の方がエレガントだろう」。いっそのこと非公式で大使館員が毎朝像に花を手向け、手を合わせてはどうか。パフォーマンスと揶揄されようが、罵声を浴びようが、碑文の内容がフェアか否かを別にして、ただ慰安婦本人のためにだけ粛々と祈れば、いつかはかたくなな心もほぐれるかもしれない、と。

 5年くらい前にDVDで観た『ファイターズ・ブルース』(2001年公開)という映画を思い出しました。アンディ・ラウ常盤貴子が共演して話題になった香港映画です。香港人ボクサーのマン・フーは、八百長試合をしようとして、タイのチャンピョン、チェチェンをリング外で殺してしまいます。彼は14年間刑務所で罪を償い、出所後、亡き恋人との間に出来た娘を孤児院に訪ねて、シスターの澪子と出会います。彼女の力添えもあって、娘と暮らすようになりますが、彼は、現在のチャンピョンとの闘いに再生をかけます。回り中みんなが止めるのを振り切って。

 リングでボロボロになりながらも闘い続けるマン・フーに、最初ブーイングで迎えたタイ人の観衆も、あっけに取られ、対戦相手のチャンピョンも最後は、止めろというように手加減するようになりますが、それでもフーは挑んでいって、リングに倒れます。最後はみんなが立ち上がって拍手の嵐。「会いたいよ、マン・フー」という澪子の言葉でエンディング。

 謝ること、許すことの重さを感じた映画でした。人は過ちを犯します。生きているということは間違うということでもありますから。だからこそ、その過ちにどう向き合うかは大きな問題です。誠心誠意謝るという言葉がありますが、誠心誠意はどうやったら伝わるのか。それはまた本当に謝るとは何か、を突き付けています。相手のあることなので、相手が許してくれない限り、終わらないとも言えます。相手方の怒り、悲しみ、恨みを分かるとはどういうことなのか。

 そして、許しはどうやったら出てくるのか。怒っている側、恨んでいる側も、そういう気持ちにけりをつけたいはずです。謝ることと許すことは、文化の中でその作法が作られてきたと思います。どういう言葉で謝るか、どういう態度をどのくらいの期間どういう形で示すかなど。それを受けて、許しの心が発動する。このような「型」は、長い時間をかけて身体化するまで熟成させられてきたのではないでしょうか。

 現代の戦争(内戦も含め)の残酷さ、職場環境の非人間性、原発事故の被災者への対応、子どもの貧困問題などに対して、まだ政治は対応しきれていません。文化的作法もできていないと思います。作法ができていないとは、その残酷さに向き合いきれていない、想像力が追い付かない状態とも言えるでしょう。

 唯一「話し合う」というツールを私たちは利用できると思います。「話し合う」ことは単に理屈のやり取りではなく、そこに絡んでいる情もやり取りしています。理屈も多様なら、情も多様。それらひっくるめて、互いに向き合う力が必要なのかもしれません。まさに熟慮するだけでなく、熟議することが要求されている時代だと思います。

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                   元旦の平磯海岸

h-miya@concerto.plala.or.jp