宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

2017年にやりたいこと:現場での記録と所感

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①介護の現場に慣れたら、秋ぐらいから社会福祉士の受験資格を取るため、通信教育を受け始める。②ワーカーズ・コレクティブの可能性を探る。③稲葉峯雄さんの「記録なくして処遇なし」と向き合う。利用者の言葉を書き留め、それへの所感を書く。④現象学の記述という手法への理解を深める。

 どこまでやれるかわかりませんが。③と④はやろうと思っています。森を見る方法と木を見る方法があります。いわゆる理論は森を見るとき、とりあえずの見取り図をくれます。ただそれに引き摺られて、木を見誤る、見落とすことがあります。

 社会福祉士の資格を取るための学習は、福祉という森を見る時に役に立つのではと思います。ただし利用者一人ひとりは、それでは見えてこないでしょう。経験の意味とはそういうことなのだと思います。ただ経験は、そのままだと流れてしまいます。それをどう、「客観視」するのか。対象化してゆくやり方として、記録・記述があるのだと思います。

 メルロ=ポンティが知覚の最適点を言っています。そのものが最もよくとらえられる場所。ここで実現されているのが「特権的知覚」です。美術館で絵を観るときの動き方を考えると、分かりやすいかもしれません。ですから現象学的記述にとっては、現にあるもの(実在)とは、すでにあるものではなく、(記述によって)生み出されるものです。

 人間的な事柄をとらえる最適点と、コモン・センス(常識)は大きく関わっていると思います。常識には二つの側面があります。①固定化して物事を狭めて捉え、惰性化する捉え方と、②偉大なる常識人と言われるような人が体現する、豊かな現実に対応した実際的で健全な捉え方と。後者の常識が、人間的事柄の最適点といえると思います。

 趣味というと現代では、主観的な世界に関わり、ほかの人があれこれ言うべきでないという感じで捉えられています。しかし、趣味は、もともとは道徳上の概念だったと、ガダマーは指摘しています。趣味のいい人とは、「人生や社会のあらゆる事物に対して自由に適切な距離をとることによって、意識的にしかも超然と区別し選択できるひと」のことでした。今もそういう意味合い、残ってますよね。ですから趣味とは私的なものではなく社会現象です。そして論証できるようなものではなく、また誰もそんなことを求めない「感覚のようなもの」だったと。

 趣味の概念が、美的感覚的世界に限定されたのは、カントの『判断力批判』以降だろうと言われています。カントは判断力の根底に、趣味としての共通感覚(コモン・センス)を置きます。そして共通感覚は、概念化しえないものとして道徳領域から切り離されます。カントの道徳論は、「いつでもどこでも誰にでも」当てはまるような(自分で立てた)規則に従え、という普遍化要請を第1に置きます。

 そして、趣味概念は主観的なものとされ、しかしその徹底によって「美的趣味の主観的普遍性」が言われ、「天才」に集約されてゆきます。ですがこうして、精神科学は方法上の独自性を正当化する根拠を失い、自然科学的認識以外の理論的認識は凋落していったと。

 コモン・センスは共通感覚と常識と二つの意味を持ちます。人間的事柄の最適点は、このコモン・センスと関わっていると思います。そしてこれを捉えるのは、良い感覚なのでしょう。記述は、ただ書くこと、現にあるものを書くことです。現にあるものを最もよくとらえる視点を探りながら書き続けること。これを通して、人間的事柄の「特権的視点」、コモン・センスが熟成するのかどうか、やりながら考え続けたいと思います。

  

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