宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

介護施設と学校:近代施設における「管理」から

 デイ・サービスがいろいろな形で行われるようになっています。施設でのデイ・サービスは職員と利用者の織りなすサービス実践です。しかし、純粋に営利によるサービスではなく、介護保険制度が絡んでいます。利用者は端的にお客様、とは言いきれません。

 近代にたくさん作られた施設、工場や監獄、学校、病院などは、空間・時間そして身体の管理という原理によって貫かれています。空間の管理は分かり易いです。場所が区切られていますから。時間による管理に関しては、「遅刻」という概念の成立で理解できます。交通網の発達は、バラバラだった各都市間の時間の統一を意味します。鉄道の時間とは、大きな全国時計とも言えます。時間が統一されないと、鉄道は成り立ちません。近・現代は「時計化」する社会と言われています。「時間厳守」は近代人の規範となりました。

 工場が登場する前の資本主義社会以前(ほぼ農耕社会)では、時間は反復的に循環するものでした。反復するものなら、当然、経験の長い高齢者は尊敬の対象になります。しかし、資本主義社会では評価のベクトルは逆向きになります。なぜなら、資本主義社会は「投企」する、未来を企画する社会だからです。農耕社会におけるように、未来は循環して戻ってくるものではなく、「可能性」へ向けての挑戦になります。高齢者は出番を失います。

 ところで、そもそも学校の目的は何なのでしょうか。教育の場、とまずは言えます。かつては有用な国民の形成のためだったと思います。現代では、一人ひとりが社会に有用な存在となることで、各人が幸福になるための場、でしょうか。確かに、学校は、可能性に向けての準備期ではあります。しかし現状はどうか。「今の学校は、子どもの一時預かり所だ」と言った校長先生がいたそうです。

 介護施設は当然介護の場と言えます。介護とは何か。現在、介護は自立支援と言われています。本人の自己決定権を重視しなければならないと。しかし、自己決定権を言うのは、大変なことだと思います。本当に自己決定権を重視するなら、利用者本人や家族が、自分たちの望む施設や集まりを、話し合って作る必要があるのではないでしょうか。ただ、それが難しいのは分かります。

 問題の根っこに、学校も介護施設も、「地域社会で生きる」切実さから切り離されている、ということがある気がしてなりません。学校はまだ社会に出ていない準備期を、介護施設は社会から引退した時期を過ごす場所。今の社会は、これらの時期を社会のコアに組み込んでいません。社会のコアに組み込まれている時期とは、稼いでいる時期と言えるのではないでしょうか。市場経済社会に生きるとは、稼げること、稼げる時期をメインにしたライフスタイルを構成することになります。

 ところで、人間が生きているとは、社会的存在であるということだと思います。社会的存在である人間にとっての居場所とは、必要とされている場所でもあります。出来れば実践的に必要とされている場所、そういう居場所を人間は生きているかぎり探し続けるのではないでしょうか。

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