宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「心の理論」

 今日は暖かな一日でした。夜遅くになって雨が降ってきましたが、いかにも3月初春の一日でした。

 さて、他人の心を読み取る能力は共感する能力に起因するのでしょうか。共感する能力は人間だけでなく、広く他の動物にも見られます。一頭のシマウマが捕食者に怯えて走り出すと、群れの他のシマウマも一緒に走り出します。しかし他者の気持ちを読み取る能力である「心の理論」は、人間だけが持つと言われています。大体、3歳~4歳くらいで獲得されますが、この「心の理論」を検証するために使われるのが、誤信念課題です。

 誤信念課題とは、例えばこういうものです。①春子ちゃんが人形で遊んでいて、その人形をおもちゃ箱にしまって部屋を出ます。②秋子ちゃんが入ってきて、おもちゃ箱から人形を取りだして遊び、その人形をクローゼットに隠して部屋を出ます。③春子ちゃんが戻ってきて人形で遊ぼうとします。④この一部始終を見ていた子どもたちに、春子ちゃんはどこを探しますかと質問します。

 正しい答えは、おもちゃ箱の中。春子ちゃんは、人形がクローゼットに隠されたことを知りませんから、おもちゃ箱の中にあるという誤信念を持っています。当然、おもちゃ箱の中を探します。劇を観ていた子どもたちは、現実には人形がクローゼットの中にあることを知っています。でも、春子ちゃんは知りませんから、おもちゃ箱の中にあるという間違った信念を持っているはずです。これを、子どもたちが理解できるかどうかをテストするのが、誤信念課題なのです。通常4歳程度で、正しく答えられるようになりますが、改めて考えてみると、すごいことです。

 4歳くらいで、人が現実と異なった内的心理状態(心の世界)を持つことを理解するようです。この誤信念課題にチンパンジーは正解できません。自閉症児も正解できないようです。自閉症には様々なタイプがあり、アスペルガー症候群と呼ばれる比較的軽度の自閉症のタイプは、社会的コミュニケーションなどに問題を持ちますが、知能指数は平均かそれ以上と言われます。誤信念課題で問われているのは、目に見えない相手の心の状態を「表象化」して取りだす能力です。自閉症の人に欠けているのは、表象化能力ではなく、相手の心的状態に感応する無意識のプロセスのようです。

 つまり、誤信念課題でテストされている能力は、一つは相手の心の状態に共感する無意識の働きであり、もう一つはそのような共感の働きを明確に表象化する能力です。これらは外界から入ってくる感覚的クオリアに、様々な解釈を貼り付ける志向性の働きですが、共感を支える志向性と表象化を支える志向性の働きに分けられます。この両者が結び付くことで「心の理論」が可能になる、と茂木健一郎さんは言います。

 「チンパンジーが『心の理論』の存在を検証する誤信念課題に合格できないのは、人間の言語に象徴されるような高度の表象化を支える志向性の働きが欠けているからであり、また自閉症の子供が合格できないのは、共感を支える志向性の働きが欠けているからである」(茂木健一郎『心を生み出す脳のシステム』NHKブックス、2001年、189頁

 しかしまた、他者の心を読み取る「心の理論」の能力は、様々な要素の微妙なバランスの上に成り立っていると考えられます。人間の持つ、言語に象徴される高度の表象化能力と感情的な共感における扁桃核を中心とする大脳辺縁系の役割。自閉症のタイプによっては、天才的能力を示すサヴァン症候群があります。このサヴァン症候群のような能力は私たちの中にも潜在的にあるようですが、脳が全体のバランスをとるために抑制しているようです。

 前頭側頭型認知症の患者さんの中には、認知症の症状が現れるとともに、サヴァンに見られるような「本物そっくり」の絵をかく才能を発揮するようになった例があるそうです。認知症によって脳の一部が壊れることで、抑制が外されて出てくる人間の可能性。認知症とは何なのでしょう。脳のバランス失効なのでしょうか。

車を変えました

 車を軽自動車に変えました。まだ、車幅の感覚がつかみきれていませんが、駐車のときに、かなり小回りが利くというのは感じます。前の車だったら切り返しなしでは、前に駐車している車とぶつかって回りきれなかったところが、切り返しなしで一回で入れることができました。車高は前の車より高いので、運転しやすくなりました。問題は、加速のときのエンジン音が気になる点です。それと、細かいところにまだ慣れないので、結構肩がガチガチになっています。車の運転がこんなに疲れるものとは、あまり意識していませんでしたが。

 慣れた行動は、身体レベルの動きをいちいち意識していません。身に付けるまでに時間がかかるようになったのかもしれませんが、また身に付いてしまった動きの修正にも時間がかかる。身体の使い方によって、身体の特定部分(腰とか肩とか膝など)に負担がかかっていたりします。歳とともに、身体のゆがみが大きく響くようになってきているのでしょう。100歳を超えた伯母の生きていることのしんどさが、分かるような気になりました。デカルト心身二元論を言えたのは、寿命が短かったからなのでは、なんて思ったりします。

 取りあえず、4日間運転してみて、少しずつ新しい車に馴染んで来ています。

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弘道館裏門脇の道から> 2018年2月28日             2018年3月10日          

「うれしいひな祭り」

 今日はひな祭りです。「うれしいひなまつり」を久しぶりに歌ったら、声が出ませんでした。えー、まずいです、これは。私は3番の最初の2行が好きです。

 「金のびょうぶに うつる火を

  かすかにゆする 春の風」

情景が目に浮かんできます。そして次のように続きます。

 「すこし白ざけ めされたか

  赤いお顔の 右大臣」

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 今まで考えもせずに歌っていましたが、右大臣ってどこにいるのかなぁと探しました。随身(護衛)の位置にいる向かって右側の人形のようですが、まず問題は二つあります。一つは、右大臣というのは、令制太政官の筆頭官職名です。護衛の位置にいるはずはありませんし、弓矢で武装した衣装を着ているはずがありません。ひな壇飾りの2段目に来ないとまずいわけです。4段目の人形に、右大臣の呼称は本当は間違いですが、俗称で使われているようです。

 もう一つは、ひな壇飾りの左右は、お内裏様から見た左右に従って配置されるので、私たちの側から右に位置する人形は、左の呼称を持ちます。そこで、歌の中の右大臣は、正確に言うと「左近衛中将(さこんのちゅうじょう)」のようです。

 いろいろ調べると面白いですが、でも「うれしいひな祭り」はそのまま歌っていて楽しいです。

講座「VRで認知症体験」

 今日は一日☂。その雨の中、水戸市茨城県総合福祉会館で開催された「VRで認知症体験」講座に参加してきました。講師は株式会社シルバーウッドの社員の方で、まずシルバーウッドが経営しているサービス付き高齢者向け住宅「銀木犀」(首都圏に6カ所)について説明がありました。ここの駄菓子屋さんには子どもたちが集まって来て、なるほどと思うアイディアです。その後、ゴーグルを付けて、認知症の人たちの世界の見え方を体験しました。

 シルバーウッドはスチールフレーミング工法の会社だそうです。下河原忠道さんが代表取締役。建築職で高齢者向け住宅を受注する中で、高齢者向け住宅の需要を見込んで福祉の世界に進出を始めたようです。「銀木犀」の理念は「入居者の自主性を重んじる」ということ。今、この「銀木犀」が支持を集めているようです。

 なるほど異業種からの参入の斬新さを感じました。「銀木犀」の開放的でおしゃれな空間や、入居者が店長を務める駄菓子屋、認知症ケアのための斬新な企画など、自立支援と地域連携重視の新しい試みです。

 VR(バーチャル・リアリティ)による認知症体験では、レビー小体型認知症の人の見ている世界を体験できたのは良かったです。その他の視空間失認に関しては、以前から言われていることで、テレビでその見え方を放映していたのを見たことがあります。私自身は、見え方より、その心の在り様に関心があります。どういう心持なのかなぁと思うことが多々あるので。

 介護の世界を開放していく試みは面白いと思いました。

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                  2月26日 弘道館公園

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    鹿島神宮側から弘道館に臨む                 八卦

『君たちはどう生きるか』

 名古屋にいた頃からのお付き合いのご夫婦に、干しイモを送ったら、旦那様の方からお礼状と一緒に哲学カフェでのやり取りメモが送られてきました。Hさんとお呼びしたいと思いますが、彼は元新聞記者さん。メモは分かり易く、面白いものでした。

 哲学カフェで取り上げられたのが『君たちはどう生きるか』です。この漫画本がベストセラーになって、一時期本屋さんに平積みされていたそうです。研究会の帰りにお茶の水の古本屋街で探して見ましたが、ありませんでした。書泉グランデに漫画本と岩波文庫版、ポプラ社版などが置いてありました。

 Hさんは満州事変の年(1931年)に生まれ、旧制中学2年(14歳)のとき、敗戦になりました。本が出版されたのは、1937年(支那事変)です。元々山本有三が書く予定だったのが、眼を悪くして、吉野源三郎に回ってきたと、著者のあとがきに書かれていました。吉野源三郎は東京生まれで、東大の哲学科を卒業し、1937年に岩波書店に入社しています。戦後は『世界』の初代編集長をした人です。

 Hさんの話に戻ります。彼はこの本が出版されたころ、今でいうと小学1年生のころに、すでに軍国少年になっていたそうです。この本は言論統制が厳しくなっていく時代に、山本有三が少年少女たちを時代の偏狭な国粋主義や反動思想から守り、彼らに自由で豊かな文化があることを伝えたいと企画した『日本少国民文庫』全16巻の最後の配本でした。

 当日の哲学カフェの参加者は、彼以外は彼の子どもや孫の年齢だったそうです。漫画本を呼んで来た人から、「ナポレオンの評価」に違和感が出されました。「立派な人」と強調されていることに対してです。原本では、確かに彼の行為に対して「立派なこと、立派だわ」という表現が2か所ありますが、それ以外は「偉い、英雄的」が多用されています。そして上級生からにらまれている北見君への対応で、みんなで一緒に行ってそれでも殴ると上級性が言うなら、一緒に殴られようという浦川君の提案に、水谷君のお姉さんのかつ子さんが「偉いわ!」「それが英雄的精神よ」と応じています。コペル君の叔父さんが書いているコぺル君宛のメッセージノートには、ナポレオンに関して「非凡な」「偉人」「英雄」が多用されています。

 主人公のコペル君には「立派な人間」になって欲しいと叔父さんは願っています。ではその立派な人とはどういう人なのでしょうか。叔父さんは単純に非凡さや英雄性を言ってはいません。この後、コペル君は取り返しのつかないことをして悩みますが、その後悔の、人生に対して持つ意味が複線的に語られます。それは叔父さんのノートでは、パスカルの思索につながっています。

 立派な人とはどういう人なのか。この本の中では、社会的な生産関係の話にも触れられていて、単純な道徳訓ではありません。最後にコペル君は、「いい人間にならなければと思い始めた」と書いています。「立派な人間」と「いい人間」は同じなのでしょうか。これがカフェでは議論になったようです。これは同義語かどうか。結果は別だろうということで落ち着いたようですが、まだまだ議論は尽きないと、手紙のメモに書かれていました。

 本を持ってはいましたが、それも30年近く前に購入していましたが、ちゃんとは読んでいませんでした。読みやすい本で、時代背景を知ると、登場人物の動き方や考え方も納得が行きます。それと同時に、今でももちろん通用することが一杯書かれていて、分かり易い倫理の本だ思いました。そして確かに、哲学カフェで取り上げ易いものだなとも思います。何となく、お説教的な感じの本のように捉えて、敬遠していたかなと反省もしています。 

私たちの「不安感」の底にあるもの

 久しぶりに、研究会に参加しました。発表は二つで、ニーチェキルケゴールに関するものでした。少人数の集まりで、質疑応答の時間にはいろいろ意見交換ができて、楽しかったです。以前は、研究会はある種ノルマ的に捉えていて、新しい観点が発見できる場であり、緊張感や充実感はありましたが、楽しいという感じはありませんでした。

 ニーチェはもともと私の研究活動の出発点で、やはり、原点なのだなぁと、再確認。キルケゴールは、『死に至る病』取りあえず読みました的な門外漢ですが、彼の不安の概念をめぐる発表を聞いた帰り道、高速バスの中で、不安神経症のような病気との差はどこにあるんだろうと気になり始めました。キルケゴールは不安を罪との関係で考察していますが、原罪には、アダムの罪(楽園追放という人類の堕落の原因)、人類が生まれながらに備えている可能的罪(悪への傾向)、個人が生まれて初めて起こした第一の罪の三つがあります。第3のものによって、個々人は無垢から罪人へと変化します。

 森有正は『いかに生きるか』(講談社現代新書)の中で、罪の意識について述べています。明け方が一番良くない。忙しいと忘れているけれど、ちょっとでもゆとりがあり、ことに一晩休んで身体が休まって、疲れが取れたいちばん平衡が回復したときに、このような意識が目覚めてくると言います。だから、「罪というのは神経衰弱とか体が弱るからおこる、一種の神経症みたいなものではないのです」(181頁)と書いています。

 そしてこの罪の意識は、魂の安らぎを妨げているものであり、人間の魂に不安を与えるものだと言います。森有正のいう罪は、他の人格に対して私たちが持っている負い目や傷つけること破ることであり、これが私たちの魂を本当の苦悩に陥れると言います。

 身体や心が疲れすぎて不眠になり不安感が高まるというような状況は、睡眠導入剤精神安定剤抗不安薬(医師に処方してもらうこれらの薬は現在では依存性がかなり抑えられていると言われます)によって、寛解(全治ではないが症状が治まって薬の助けをそれほど必要としなくなっている)状態をもたらすことはできると思います。ただ、森有正が言うように、状態が良くなっているときに現れる罪の意識の不安からは、逃れることはできないのかもしれません。

 私たちの持っている根源的不安はどこから来ているのか。それがあるからこそ、不安神経症のようなものも起こってくるのかもしれません。

「みんなちがって、みんないい」は何を肯定しているのか?

 「放課後等デイサービスみときっず」を見学させてもらいました。午前中だったので学齢前の子どもさんしかいませんでしたが、障がいを持っている子どもたちの居場所の一つなのだと分かりました。 

 少し前から、「みんなちがって、みんないい」をどう捉えたらいいのか、ということを考えています。差異の肯定の言葉としてこのフレーズを受け取る、ということを前提にします。では、これはありのままの現状追認の言葉なのか。間違ったことをしていることも認めるのか。人間の社会は、その維持のためおきてを持っています。おきてには時代遅れになったものや、もともと矛盾したものがあります。おきての縛りがきつくなると、それを壊そう、超えようとする力が働きます。「みんなちがって、みんないい」には、時にそのような思いがかぶさります。画一化の圧力に押しつぶされそうになったとき、思わず出てくるうめき声のようにも聞こえます。

 「われわれ」の境界を絶えず広げていこうとするときにも、この言葉は響いてきます。でも、超越者はすべてを容認するのでしょうか。旧約の神は怒りの神でした。善悪の彼岸ではないのです。ニーチェの遊ぶ子どもとしての超人は、「みんなちがって、みんないい」の世界に生きているのかもしれません。ただし、存在者として劣悪なものは永遠回帰の中には入ってこない、とドゥルーズは解釈しています。存在そのものからふるいにかけられる。残るのは「みんなちがって、みんないい」もの。しかしそれは、人間の小さな理性のふるいにかけられて残ったものではありません。

 肯定される差異とはなんなのかが、問われる必要があります。違うこと自体がいいことなのかどうか、という問いです。他者性と差異性は同じものでないと、ハンナ・アレントは言っています。他者性のみの存在の最もわかりやすい例は結晶だと思います。有機的生命の場合は、他者性からくる多数性と同時に差異性が現れています。多数であること、違っているということは、存在することそのものです。ただし人間においてそれは唯一性となりますが、この唯一性は言論と活動を通して明らかにされ続けるものだと、アレントは言います。

 「みんなちがって、みんないい」は現状追認の言葉ではなく、それぞれが自らの唯一性を実践し表明し続ける中で、獲得され続けるものと言っているのではないでしょうか。違っていること自体がそのままいいことなのではなく、そのことをどのように周りに表明し続けるのか、周りからの承認を引き出すか、その努力の中で差異の真価が問われていくのではないでしょうか。

 

h-miya@concerto.plala.or.jp