宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

2019年冒頭に

 明けましておめでとうございます。平成最後の新年になりました。3が日が終わり、仕事を少し休むことにしたことで、かなりのんびりしています。気を付けないとだらけるなぁ。

 年末から年始にかけて、昨年のテレビドラマの再放送があり、見逃していた『義母と娘のブルース』の後半を見ました。結構面白かったです。放映中も見ていた『アンナチュラル』の後半もまた見てしまいました。『アンナチュラル』の主題歌「Lemon」(米津玄師)、やはり印象に残る曲ですね。米津さんは紅白出場でツイッターが盛り上がったようです。紅白での生演奏、実際、素晴らしい歌唱力だなぁと聞き惚れました。

 年の初めに、気になっている論文を少し整理するつもりです。読もうと思っている本や読まなければと思っている本も、できるだけ読みたいと思います。それと同時に、体力に合わせた形での介護の現場への戻り方を考えています。ケアの問題は、現場にいてこそひしひしと感じ取れます。ただ、それをまとめて考える時間が取れないことが、消化不良の感じになっています。そこをどうしていくか。2019年の課題です。

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2018年12月28日 松・シンビジュウム・オンシジュウム・梅・千両・柳

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            2019年1月2日 磯崎海岸

日常生活の中に溢れる知らないこと

 今年の12月は、例年になく暖かく過ぎてきました。今日、漸くリビングにこたつを作りました。いつもは遅くとも、11月の初めにはこたつを作っていたので、今年は例外的に遅かったです。12月にあった職場の研修会を欠席したので、レポートを書いていました。医療介護における安全推進研究大会、という研修会でしたが、資料だけではやはり分かりにくかったです。ただ与薬エラーの問題に関するレポートを書いて、薬の問題をもっときちんと理解しないとまずいなぁ、と改めて思いました。

 介護の現場で与薬というのはありませんが、服薬介助はあります。基本デイの場合、利用者さんが持参した薬を、昼食前か昼食後に出して飲んでもらいます。薬情書は月毎に出してもらっていて、昼食時の服用がない人でも、朝晩の薬の情報はもらっています。持ってくるのを忘れることは時たまありますが、そのときはご家族に確認して、飲まなくても大丈夫な場合はそのままにします。

 利用者さんが飲まれている薬は整理しておく必要があるなぁ。やはり薬剤師さんに何回か、薬の基本を教えてもらいたいと思っています。特に服薬、貼付や塗布することの多い薬についてと、そのとき気をつけるべきことを。

 私が今一番分からないのは、入浴後の塗り薬です。肌がかさつく人が多いので、保湿クリームなどを持ってくる人にはもちろんそれを塗ります。医者に処方されている塗り薬に何種類かある場合、塗る場所、塗り方や塗る順序がありますが、それらがいちいちメモされているわけではないので、知っている介護士や看護師に聞きながらやっています。これも基本的な症状(赤くなっているのが斑点状か広がっているかなど)にどれを使うかを理解することと、薬の強さも理解しておく必要を感じています。

 介護の仕事を通して、日常生活の中にある技能や情報の多さに今更ながらに気づかされています。あまりきちんと知らなくても、通常の生活は何となく回っています。小さい頃からやってきたことや大人たちから言われてきたことなどに従いながら。こういうのも暗黙の知なのでしょうね。一つひとつに目をやると、なんとまあ知らないことが多いことか。ふと、「神は細部に宿りたもう」という言葉を思い出しました。

 美術史家のワールブルクが残したといわれる言葉ですが、彼がこの言葉の創始者かどうかは、分かりません。通常は、良い作品は細部にまで神経が行き届かなければならない、というような意味だったと思います。細部とは末端ではないと言われます。真実への道を知らせるある種の通路のようなもの。これも考え始めると、分からなくなりますが。

 日常生活というものは、慣れないと回らない世界ですが、慣れてしまうとありきたりになってしまいます。でも、そこにはいろいろな謎が満ち溢れています。

触覚的身体から「私」が成立

 年末の時間はなんとなく忙しないです。買い物に行くと、クリスマス商品と正月の商品が混在していて、それも慌ただしさを感じさせられるのかもしれません。こういう時に、考えてることではないかもしれないのですが、忘れないうちに書いて置くことにします。

 「私」はどういう風にして成立するのか、の続きです。え、「私」という感覚は、そんなの当たり前じゃない、と思うのが通常の感覚でしょう。記憶でしょうか? では、認知症状を呈している人は、「私」の感覚を無くしているのか、というとそうではないと思います。とすると、この「私」のまとまり、継続性を支えているものは何なのでしょうか。身体性の問題が大きい気がします。

 感覚・知覚を通して外界が与えられますが、視覚や聴覚においては対象と距離があります。ところが、触覚において対象は身体に局所化されています。知覚において物と感覚が共在しているのが触覚なのです。私たちが通常、自分を絶対的な「ここ」(あらゆる方位付のゼロ点)として、その周りにさまざまの事物を配置しながら作り上げる空間は、身体を媒介するとしか考え得ないのです。

 そしてここにこそ「自我の所与性」の根拠があります。自分の眼や手足を自分の身体の特定部位に位置づけ、物の様々な性質を感じ、その感覚を自分の身体に局在化させるのは触覚の働きによります。これを通して私たちは、事物を上下左右、遠近に配置できるようになり、「私」を位置付けることができるようになるのです。このような触覚的身体があって、初めて主観が主観自身を振り返り、主観が現実の「私」「自我」になります。

 メルロ=ポンティは後期フッサールの思想をいち早く吸収し、そのデカルト主義を払拭し、人間の存在を身体的実存としてとらえ、「われ思う」に先立つ「われなし能う」として、世界に内属する人間の在り方を捉えています。そして身体に定位される知覚能力の分析を通して、他人の実存がまず感覚的位相においてとらえられるべきことを論じました。では、この他人と共に私たちは世界を共有しているという感覚(センス)はどのようにして確信されているのか。 

立ち止まることの意味

 今日は青空が広がって、気持ちいい一日でした。テレビをつけたまま障子貼りをやりました。「ゴゴスマ」で札幌の爆発事故を扱っていましたが、コメンテーター武田邦彦さんの、「スプレー缶は使い残しがある場合、そのまま回収すべき」はとてもよく分かりました。そうか、スプレー缶ってそんなに危険だったんだ、と納得。私も使い残しのものの中身を外で一生懸命捨てましたが、確かにプロパンガスをシューと外で捨てたりしないです。司会者はただ番組の流れを気にするような発言をしてましたが、内容をきちんと理解する立ち止まりがなかったなぁ。

 テレビだけでなく、どうも私たちの日常は立ち止まりを拒否する傾向があります。仕事も慣れてくると、流れを阻害する要因を作る人にイラついたり。本当はそこに発見があるかもしれないのですが。つい上手く行っていればいいと思ってしまう。危ないですね。

 三好春樹さんが提唱している「遊びリテーション」。確かにレクの中で利用者さんが楽しむ姿は、介護する側にもうれしい発見があります。ただこれは授業についても言えることですが、そこで起こっていることを評価判断できないと、ただ楽しかった、で終わってしまうと思います。そして、利用者さんが「楽しかった」と盛り上がってくれると、良かった良かった、で終わってしまう。

 立ち止まるきっかけは至るところにあります。ただ、それをリスク管理における「ヒヤリハットは大事故を防ぐ」的な発想で考えると、ついできるだけ避けたくなります。ヒヤリハットを見逃さないことが大事であることは分かっていても、それが大事故を防ぐためというのは、やはり負の評価になっています。立ち止まることそのことの意味、というのがあると思います。ヒヤリハットはそのきっかけの一つです。

 空の青さに「ハッと」魅せられて立ち止まる。そのとき、私たちは心が解き放たれます。問題を抱えているとき、あるいは自分の発想と異なるものを突き付けられたとき、「ハッと」立ち止まる。それらはすべて、別の視座の流入だと思います。そのときの心の状態は必ずしも心が解き放たれる、というものではないかもしれませんが、囚われへの気づきの瞬間だと思います。惰性化する動き(心も含め)を修正するには、まずは立ち止まること。一息つくことで、少し視点をずらすことで、別のものが見えてくる。それは、決して嫌なことでも、しんどいことでもなく、人生の味わいのようなものにつながる。

 「ハッと」立ち止まることは、しまったと思う負の側面だけではなく、面白いと心躍る、心の底から歓びが吹き上がるような、そういう経験でもあるのではないでしょうか。立ち止まることの豊穣さをもっと受け止められる社会であって欲しい。そういう気がします。 

現実と空想をどう区別しているのか

 昨日は晴れていましたが、風が冷たく、洗濯物は乾いても冷たいので、室内で二度干ししました。師走の寒さを感じる一日でした。夕方近く、眼科へ行って薬をもらって来ましたが、私が行ったとき、珍しく患者さんは一人もいませんでした。秋の日ではなく、冬の日はつるべ落とし。あっという間に暗くなりました。今日も、晴れてはいましたが、寒かったです。

 さて、「私」という主観性の構造はどう捉えることが出来るのか。「私」という感覚はどこから来ているのか。外の世界や他者と「私」はどういう関係にあるのか。まず外界に意味付与するという超越論的意識(主観性)。私たちは自分の意識の外に出ることはできません。その意識を通して外部を捉えています。この外部の捉え方をとことん反省したときに、直接的経験としての感覚がもっとも根源的なものになります。この直接的経験の世界、主観性こそが客観性の前提になります。

 この直接経験の領域である超越論的主観性の分析を通して、フッサールは自我や外界、他者を根拠づけようとしました。ちょっとここで、この超越とか超越論的、という言葉に触れておきます。超越とは意識の外を意味します。外に何かが存在することを、超越と言っています。意識の表象の外に何かが存在するとは、存在が表象を超越しているということです。超越論的は、超越を学問的に扱うときの言葉です。ただしこの超越(意識の外)は、意識の内部で「構成」されます。私たちは、常識的にはこのことを忘れています。外部は私たちの意識からの働きかけと無関係に成立していると、ふつうは考えています。

 私たちが客観的外界を「構成」されたものと考えないのは、私たちの空想の世界と区別したいからです。しかし私たちは、自分の意識・主観から外に出ることはできない。いわゆる客観的外部・対象は、主観の「構成」したものなのです。この「構成」の構造を明らかにしていくのが現象学と言えます。私たちがものを捉える構造を谷徹さんは次のように表現します。

 「『現出』の感覚・体験を突破して、その向こうに『現出者』を知覚・経験している」(『これが現象学だ』講談社現代新書、58頁

 私たちの主観的な心的体験を、茂木健一郎さんはクオリア(質感)という立場からとらえます。そしてこのクオリアには、大きく分けて二つあると言います。感覚的クオリアと志向的クオリアです。感覚的クオリアとは色や香りや音色、肌触り、甘さや辛さなどが属します。言語化される以前の原始的質感で、末端から中枢に向かうニューロンの活動に対応しています。

 たとえば林檎の感覚的クオリアを「これは林檎だ」と認識するときに心の中に立ち上がっている質感が、志向的クオリアです。火の鳥とか来年の元旦は晴れるだろう、というような空想とか信念も志向的クオリアです。志向的クオリアとは、中枢から末端に向かうニューロンの活動に対応します。感覚的クオリアは必ず志向的クオリアと対をなしますが、志向的クオリアは単独でも立ち上がります。それが後者の例です。

 私たちは外界は存在しないかもしれない、夢かもしれないと考える自由を持っています。でも、だからと言ってそれを確かめるために、例えば走っている車の前に飛び出したりはしません。これはなぜなのか。茂木さんは次のように言います。

 「私たちは、今、目の前に実際にあるものを見る時にのみ、それを『赤い色』や『つやつやした光沢』といった感覚的クオリアとともに表象するのである。それ以外は、志向的クオリアが単独で立ち上がっているということになる。別の言い方をすれば、脳は『現在』『自分の外』にあるもののみが、感覚的クオリアを伴って表象されるような、そのようなニューロンのネットワークのメカニズムを持っているということになる」(『心を生み出す脳のシステム』NHKブックス、55頁

 志向的クオリアは、感覚を知覚という客観的現象に変えるものと言っていいのかもしれません。ピエール・フルキエは「感覚印象は主観的現象」であるが、「知覚は、それがある対象に到達するという意味で、客観的現象である」(『哲学講義Ⅰ』)と言っています。

 茂木さんは、感じる主体としての「私」を志向的クオリアとの関係で捉えていますが、触覚を通して身体を媒体に捉えるとどうなるか、次はこれを考えてみます。 

「私」は自明か?

 ケアにおける自立支援を考えるとき、他者の自己決定をどう引き出し援助するかという問題と向き合わざるを得ないことになります。共に考えるという行為は、単純に相手の立場に立つということではありません。相手の立場に立って考えるは、カントの常識の三要件の一つでした。

 1)自分自身で考えること、2)自分自身を他者の立場に置いて考えること、3)常に自分自身と一致して〔自己矛盾のないように〕考えること(『判断力批判(上)』岩波文庫、233頁)

 ただしこれは、あくまでも「私」が主体になってよりよく考える考え方ということです。ここで言っている「共に考える」主体は「私」ではなく、「私たち」と言ったらいいでしょうか。「私」と「私たち」とはどういう関係になっているのでしょう。まずは「私」の自明性の問題から考えてみます。

 さて、「私」の自明性は、本当に自明なのだろうか、という疑義は、デカルトの「われ思う」以来、繰り返し提示されてきました。20世紀に入り、ヴィトゲンシュタインは、『論考』の中で、「思考し表象する主体は存在しない」(5・631)と書きます。「主体は世界には属さない。それは世界の限界である」(5・632)、そして「世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか」(5・633)と畳みかけ、よく知られている眼と視野の図を書いて見せます。私たちは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれ有り」を、世界を対象化する特権的眼差しとしてイメージしますが、ヴィトゲンシュタインはそれを拒否します。視野にはどこを探しても眼は属していない、と。視野の側からは眼の存在は推論されないのです。

 フッサールは、デカルトの方法的懐疑と相同のやり方とも言える自然的見方からエポケーを介して、超越論的主観を取り出しました。私たちは、例えば、外界にパソコンがあると普通に思っています。このような素朴実在論は私たちの常識的捉え方ですが、フッサールはこのような捉え方にストップをかけます。そしてそれを意識の作用としてとらえ直します。これが、フッサールの言う「超越論的還元」であり、そこで取り出されたのが、外界に意味付与している「超越論的意識」なのです。現象学はこの世界を構成する意識の働きを捉え直す試みです。フッサールはこの意識作用の極に「自我点」を想定しますが、しかしこれは「純粋自我」と呼ばれるようなもので、現実には検証できません。経験を可能にする条件として考えられているだけです。

 フッサールは『イデーン』第2巻の中で、身体の役割について考察しています。

 「われわれの見ているすべての物は、触りうるものであり、そのようなものとして身体への直接的関係を示しているが、ただしそれは物の可視性によってではない。単に眼だけをもった主観(ein bloβ augenhaftes Subjekt)は、決して現出する身体をもつことはできないだろう。……人は、単に見るだけの人(der nur Sehende)が自分の身体を見る、とは言わないであろう」

 ここではヴィトゲンシュタインの視野と眼に関する考察と同じような考察がなされています。見るという行為だけからは、それが自分のものという結びつけは生じない。自分の身体という捉え方は、触覚から生じると言われます。他のものとの距離感も、身体を介し、特にその触覚の働きを通して捉えられのです。

 ヴィトゲンシュタインフッサールも「思う」ことの存在からは「自我」の存在を導き出せないと結論しました。そこからヴィトゲンシュタインはそれゆえ「自我」など存在しないと主張し、フッサールはどうやって「自我」の存在を根拠づけるか思索します。 

リハビリテーション

 午前中は晴れ間も見えていましたが、2時過ぎたら雲が厚くなり、あっという間に曇天に変わりました。天気予報では、今夜は関東の山間部で雪も降るとか。

 午後、左肩のリハビリをして、診察も受けてきました。診察のとき、若いドクターで話し易く、こちらもつい気安く、「リハビリで治るとは思っていませんでしたが、大分良くなりました」と言ったら、「治りはしません」とすかさず訂正されました。その通りで、治るわけではないのですが、楽になってきて、治ったような気になります。

 人間の身体のリダンダンシー(冗長性、過剰性)を実感しました。ドラマなどで、アスリートが大怪我をして、リハビリで日常生活には支障はなくなったが、アスリートとしては無理なので引退という設定があります。なるほどなぁ、です。

 身体の使い方や筋力の鍛え方によって、例えば筋肉の一部が切れていても、それを補うことができる。単純に「老化だから仕方ない」でなく、出来るだけ元の生活を維持するための手段があるということを実感しています。

 怪我や病気は、手術や薬を使いながら最終的には自分の自然治癒力で治る、あるいは症状を押さえて現状維持と考えていましたが、リハビリの重要性には気付いていませんでした。自分の身体のことをもっと知る必要があるなぁ。身体の使い方の癖が、身体のゆがみになり、いろいろなところに無理がかかります。生活習慣病という言葉がありますが、これは何というのでしょうね。

h-miya@concerto.plala.or.jp