宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

言葉によるセクハラ

 福田淳一財務次官のセクシュアル・ハラスメント疑惑をめぐって、新聞もテレビも熱を帯びて取り上げていました。18日、福田次官は辞任表明し、ただしセクハラ疑惑は否定しました。19日、テレビ朝日が急きょ、セクハラ被害を受けた女性社員の存在を公表しました。

 セクシャル・ハラスメントとは、「相手の意に反した性的言動」のことですが、環境型と対価型が言われます。対価型とは、職場上の地位を利用して、性的要求に応じない場合不利な状況に陥れるなど、代償を介在させたハラスメントです。環境型は、不快な性的質問をすることやほかの社員が不快に感じるポルノ写真を貼ったりして、労働環境を悪化させるようなハラスメントのことです。

 1997年改正、1999年施行の改正男女雇用機会均等法には、セクシャル・ハラスメントに関する事業主の責任が盛り込まれました。これは、事業主の責任として、性労働を対象とする雇用管理上の配慮義務でしたが、再度改正された2007年施行の均等法では男女労働者を対象とするものとなり、また事業主の雇用管理上の措置義務(防止のために、雇用管理上必要な措置をしなければ成らない)に強化されています。ただしこれらは、雇用管理上の事業主の責任になっています。被雇用者の労働環境を守る義務という形をとっています。

 これに対して、1999年施行の男女共同参画社会基本法の第3条には、「男女の人権の尊重=性別に起因する人権侵害の排除」が言われていますが、ここにはセクシャアル・ハラスメントの禁止が当然含まれています。

 言葉によるハラスメントの深刻さに、今回もそうですが加害者は鈍感だと感じます。言われた側には、それらの言葉がベタッと張り付いてくる気持ち悪さがありますが、言っている側はそういう言葉を吐き散らしていることに無自覚なようです。これは男性だけでなく、女性が加害者になることもあります。言葉の力にもっと敏感である必要があるし、自分の気持ちを言葉にするとき、気持ちとも距離をとることが必要だと思います。それが素っ気なさにならないようにしつつも。

 日本語の「人さま」という言葉を、改めて受け取りなおしたいと思っています。

老いの哲学:「いる」ということ

 介護士として、高齢者と触れ合う中で「老いの哲学」について考えています。これはエリクソンいうところの第8段階の「のちの在り方」です。第8段階「老年期」(60代半ば以降)が「英知」を課題とする段階であるなら、そこで終わらないのが人の世過ぎ、と日々痛感しています。80代、90代というのは、また違った生の在り方に突入する感じがします。

 軽度認知症を発症している方たちが、穏やかな時間を過ごしながらも、「早くお迎えが来ないか」とか、症状が進行していく仲間たちを見ながら「前はああじゃなかった、ああはなりたくない」という言葉を時に発するのを聴きます。人はいずれ死んでいきますし、生まれたときから死に向かっている存在だ、とはよく言われる言葉ですが、今まさに「人としての時間」を終えつつある人たちと共にいることで、そういう終わりのときを存在することの意味を考えています。つまり「いる」ことの意味と言ったらいいでしょうか。物は「ある」のですが、人は「いる」と言います。この日本語の意味合いの違いは何を意味しているのでしょうか。

 椿は最盛の時にぽたりと落ちます。人はそうではなく、萎れて枯れていきます。こういう在り方に対処する諺はいろいろありますが、どうもあまり希望を感じさせるものではありません。

 「老いの繰り言」、「老婆心」、「年寄りの冷や水」、「老い木は曲がらぬ」、「老骨に鞭打つ」、「老いては当に益々壮んなるべし」、「老いたる馬は道を忘れず」、「亀の甲より年の劫」

 最後の三つは少し前向き評価ではあります。まあ諺は処世訓であり、注意を喚起する意味合いがあるので、仕方ないのかもしれませんが。でもこういう言葉を聞いていたら、「早くお迎えに来てほしい」と思ってしまうのも納得します。

 存在すること自体の意味、そして社会の(老人、障がい者、女性、犯罪者、少数民族などへの)負の価値評価から見えてくるものの共通性、「発達」という概念の問題性など、「老い」というパースペクティブは様々なことを考えさせてくれます。

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                  4月10日の護国神社の桜

 

言語論的転回2)日常言語の使用と間違った考え

 母の入院で、まとまってものを考える時間がありませんでした。母はショートステイに移動してかなり落ち着いてきたので、私もまた、以前考えていたことに少しずつ戻ることにします。

 認識論的転回から言語論的転回への変化があって、「何を人間は知り得るか」という認識論的転回の課題は、言語論的転回へと引き継がれたことについて以前に書きました。その続きを考えていきたいと思います。まず少し振り返って、観念は自分の心に直接浮かんだものです。それを考えたり、人に伝えるとき、言葉を使いますが、認識論的転回では観念そのものを吟味しました。しかし何かを心に受け取っている状態と、それが観念になる状態は別ものです。観念というのは「赤」、「青」、「人間」というように言語抜きには扱えません。そして知識(真理)の問題は、言語を用いた判断の形をとります。ということで、言語論的転回では、この言語に焦点を当てないで観念を扱うことはできない、という方向になるわけです。つまり、私たちが何を知り得るのかを、言語論的転回では、文の有意味性を問うことで解決できると考えました。

 言語論的転回に基づく哲学を言語論的哲学と言いますが、例えばバートランド・ラッセル(1872-1970)は、日常使っている言語が見かけの構造に引きずられておかしな考えにいたる、と主張しました。彼は、「現フランス王は禿頭である」(肯定文)と「現フランス王は禿頭ではない」(否定文)が両方偽(現フランス王は存在しないので)になってしまう困難をどう解決するかを提示しました。伝統的に主語ー述語の肯定形、否定形はどちらかが真でどちらかが偽と考えられてきたからです。

 ラッセルの解は、「あるものは現フランス王であり、かつ、そのあるものは禿頭であり、かつそれ以外に現フランス王なるものはいない」という3つの小さい文を「かつ」で繋いでできた長い文を縮めたものだから、というものです。「かつ」でつないだ文章は、全部が真でなければ全体は真になりません。

 私たちの日常使っている言語が、その本当の構造を示さないことで、私たちの思考が間違うことがあると、ラッセルは主張したのです。また、ドイツ生まれの哲学者で、後にアメリカに帰化(1941)したルドルフ・カルナップ(1891-1970)は、無意味な言葉やおかしな言葉使いを含む文は無意味な文章だとします。例えば、「無」についての論考について、「無」の概念をストレートに問題にするのでなく、「無」という言葉の用法を分析して、批判しました。

 この方向性は、やがて理想言語を考えるようになっていきます。同時に、日常言語を厳密に調べようという方向も出てきます。言語論的哲学者は、言語抜きの観念や表象を役に立たないものと考えるようになるわけです。こういう立場が、ノミナリズムと言われますが、これはまた別に書きたいと思います。 

作品と作者

 今年の桜は早かったです。お花見もまだゆっくり行けないまま、今週末には散り始めるだろうと言われ、ちょっと焦りますが、今年の花は仕方ないかな。やたら忙しかった3月が終わり、4月ももう4日です。

 さてこういうときは、少し日常を離れるに限ります。芸術作品には作家と作品と鑑賞者が必要ですが、私はもっぱら鑑賞者。DVDで映画を観て気分転換、が多いのですが、音楽会や絵画の展覧会もリフレッシュします。DVDで『アマデウス』を観たとき、作品と作者の関係を考えてしまいました。

 ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト(1756-1791)の死因はなぞが多いと言われます。死後まもなく宮廷作曲家アントニオ・サリエリ(1750-1825)による毒殺説がささやかれたことは事実であり、また、モーツァルトが猥談を好んだというのも事実のようです。映画は、この毒殺説をフィクションと知りつつ取り上げ、下品なモーツァルトを描き、彼の音楽と同じく高貴なモーツァルト、というイメージを大きく変えるものでした。映画の中で、正確ではありませんが、モーツァルトが「僕は下品な人間だが、僕の音楽は違う」と言い放つ場面がありました。なぜかこの部分に、胸を突かれました。天才の矜持と悲哀のようなものを感じたからでしょうか。

 石坂洋次郎に関して、自己評価だったか他己評価だったか忘れましたが、「作品は面白いが、作家自身はつまらない」というようなものを思い出しました。作者ではありませんが演奏家に関して、著名な若手女性ヴァイオリニストが「自分はヴァイオリンのサーバント。自分のことは後回しになります」と、肌の手入れに関して聞かれて答えていたことも思い出しました。逆に前橋汀子さんは、ヨゼフ・シゲティから学んだこととして、音楽だけでなく美術や文学への素養、社会的問題への広い視野を身に付ける必要性を上げていました。

 モーツァルトに戻って、彼は1781年、ウィーン定住を決意し、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てます。ウィーンでのモーツァルトはピアニストとして人気がありましたが、晩年までの数年間は借金を求める手紙を数多く残しています。彼自身の品行が悪く、浪費癖に加えて仕事にも恵まれなかったためと思われますが、映画では、1823年11月のある夜、ウィーンの街で自殺を図った老人アントニオ・サリエリが精神病院に運ばれ、「許してくれ、モーツァルト! 君を殺したのは私だ」言い続けていた場面から始まります。冒頭で使われている曲は、モーツァルト17歳の時の曲で、『交響曲第25番ト短調 K183』の第1楽章です。

 この映画のテーマは、常識人サリエリの天才モーツァルトへの嫉妬であり、クライマックスは彼がモーツァルトに「レクイエム」を注文した上で毒殺し、その葬儀でレクイエムを「サリエリ作のレクイエム」として演奏する計画を立てた、というものです。もちろん史実とは異なっていて、レクイエムの注文者は、フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵(田舎の貴族)であり、彼は自分の夫人を若くして亡くし、彼女を追悼するために「レクイエム」をモーツァルトに頼んだそうです。伯爵はそのレクイエムを、自分の作曲として演奏するつもりでした。ちょっと驚きですが、こういうことが行われていたのですね。

 作品と作者の関係は、考えているといろいろ面白い部分が見えてきます。伝承文学は作者不明だったり、伝承されていく間に変化しつつ完成して行きます。読者参加型と言ったらいいのでしょうか。これに対し、天才による作品は、それに手を加えることは許されません。個人の天才に待つ作品があるのは事実でしょうが、それゆえに生じる嫉妬や自分の才能と向き合ってのスランプがあります。

 芸術作品とは楽しくつき合いたいなあと思うのは、私にはそういう才能がないからなのかもしれません。

「のちのおもいに」

 24日参加した「千葉・茨城教授学研究の会」で、立原道造の詩「のちのおもいに」(立原道造第一詩集『萱草に寄す』)が取り上げられました。抒情的で美しいこの詩は、細かく読んでいくとよく分かりませんでした。ただ「のちのおもいに」はどんな思いかという問いかけと共に、百人一首第43番の「逢い見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」(権中納言 敦忠)に言及されたとき、ああこの「のちの心に くらぶれば 」はよく分かるなあと思いました。

 参加していた人たちは、それぞれにこの「のちの心に くらぶれば 」を経験されていると思います。本当の経験をする前に、それについて思っていたことのなんと軽かったことか、という。私は「自己決定権」のことを思い出します。自己決定権についてはいろいろ考え、その難しさや問題点も分かっていると思っていました。でも、父に代わって、手術の是非を考え、その代理意思決定を行った後、本当にいろいろなことを思い考え続けました。

 今は「のちの心に くらぶれば 」に満ちているのが、生きるということなのだろうと思っています。

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            3月28日 旧県庁の桜

「何とかなる」は「人事を尽して天命を待つ」こと

 お彼岸の中日は雨で、22日、漸く墓参りして来ました。お寺の境内の枝垂れ桜が大分咲いていました。

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 23日は、利用者さんと一緒に牡丹餅をおやつに作りました。もち米を炊いて小ぶりのお団子を一人3つずつ作ってもらい、粒あんときな粉とゴマの3種類の味を楽しんでもらいました。後で残りの牡丹餅の味見をしたら、美味しかったです。

 22日の新聞で、「9条改憲 自民条文案評価は」という記事が目に付きました。長谷部恭男・早大教授に聞く、という企画でした。そうなんだと思ったのは、条文を追加すると戦力不保持を定めた二項が死文化する恐れがある、なぜなら「後からできた法が前の法に優越するのは法学の一般原則だから」という部分です。知りませんでした。

 国民投票で否決される可能性もあるのでは、という問いに対しての回答にも、なるほどそうなるのかと思いました。

曰く、「安倍首相の考えに沿った改憲案の否決は、主権者たる国民が(集団的自衛権を限定的に行使できるとした)自衛隊の現状を否定したことを意味する。現状に戻れないのに、どんな組織なら(憲法上)いいのかわからず、大混乱に陥る」(東京新聞、3月22日)。

 改憲論争、知らなければまずいことが山積みなんだな、と感じました。大切なことについて、本当に知らないことがいっぱいあります。高齢の母が入院中で、人工呼吸器の話が、一瞬、出ました。人工呼吸器について、現実的に真剣に考えたのは初めてです。実際にどういう処置をするかは、ケース・バイ・ケースですが、基本的に終わりのときをどうするか、どう見送るか、そのために知らなければならないこと、家族で話し合わなければならないこと、本人の意思をどこでどう確認するかなど、本当に現実的に考えました。

 何とかなる、は私の好きな言葉です。そう、現実は何とかなる、と思っています。ただし、「人事を尽して天命を待つ」の意味で。特に、命にかかわることは、どう決断しても「こうしたほうが良かったのでは」が残るのでしょう。その意味で、腹を括るしかない。将来の後悔を引き受ける覚悟で、今出来ることを後悔の残らないようやるしかない、そう思うようになりました。これは社会的問題に関しても、そうなのだと思います。

ワイドショーから

 ここ何日か、新聞およびテレビのワイドショーは、森友問題で沸いています。学校法人「森友学園」問題をめぐり、財務省の決裁文書が書き替えられた疑いがあるという報道は、朝日新聞の2日付朝刊で始まりました。

 契約当時の文書にあった「特例的な内容となる」「本件の特殊性」「価格提示を行う」などが、国会議員への開示文書には記載されていなかったというのです。財務省理財局長だった佐川宣寿氏は、2017年2月から4月にかけて国会で、森友関連文書に関して「廃棄した」「処分している」「復元できない」等の発言をしていました。しかし廃棄されたはずの文書は残っていて、佐川氏は9日、国税庁長官を辞任。

 麻生太郎財務相がこの決済文書改ざんを公表したのは、12日。計14の決済文書(ワイドショーではさらに14文書300か所と言っていたと記憶してます)に改ざんがあったということですが、最終責任者は「佐川」と強調していました。うーん、それは言ってしまっていいの、ですね。どうも国会での矛盾答弁のたびに書き換えが行われていたようです。ここまで根が深かったとは。

 2月20日の頃のワイドショーでは、裁量労働制のデータ不備の問題が盛んに取り上げられていました。丁度このすぐ後に、生け花の会で集まったとき、この問題も話題に出て、なんだかよく分からないけど騒いでるわね、と話になりました。何が問題なのかちょっと聞いているだけでは分かりにくいですよね。

 これは、厚労省が2015年3月の民主党会合で示したデータの不備から始まっています。厚労省の「2013年度労働時間等総合実態調査」で、裁量労働制の労働者は一般労働者よりも労働時間が、1日21分短くなっていました。ただし根拠データは示されなかったようです。「一般労働者より裁量労働制の方が労働時間が短いデータ」として数字だけが省内で定着していたもの。2015年4月に、裁量労働制拡大を盛り込んだ労基法改正案が閣議決定されました。これには「過労死促進」「定額働かせ放題」と労働界や野党が強く反発していました。これらの批判への反論として使われていたのが、このデータです。

 今年の1月29日に、安倍晋三首相が衆院予算委員会でこのデータに触れて、実労働時間に関して「裁量労働制が一般労働者より短いというデータもある」と答弁、2月7日に厚労省が政府答弁の根拠データを野党に開示し、データの不自然さが明るみに出ました。14日に首相は答弁を撤回し、謝罪しています。

 どういうことかというと、一般労働者には1か月のうちの最長残業時間を聞き取り、それが1時間37分でした。それが平均残業時間として扱われて、法定8時間との合計で一般労働者の1日の労働時間が9時間37分になりました。これに対し、裁量労働者への調査では実労働時間を聞いています。こちらは9時間16分になりました。ということで裁量労働制で働く人の方が、21分労働時間が短いという答弁がなされました。それが後に撤回、謝罪という道筋を取ります。

 その他にも1日の残業時間45時間が2件、24時間45分が1件見つかるなど、あまりにもデータの精査がずさんです。ねつ造、忖度が指摘された問題でした。他の機関が実施した調査結果では、裁量労働制で働く人の労働時間が、一般労働者より長くなるという傾向が出ています。また、裁量労働制の適用対象外の業務の人にも適用されていて、不適切な運用も相次いでいます。「働き方」関連法案に裁量労働制の対象拡大が盛り込まれていましたが、3月1日に、裁量労働制に関する部分は全面削除する指示が首相より出されました。

 「森友」「加計」と似た構図と当時も言われましたが、今回の公文書書き換え問題と照らしあわせると、役所がどこを向いているのか、不安になる事例が次から次へと出てきます。信頼できると思われている機関の出す数値は、まずあまり疑いの対象とはなりません。でも数値と実態にずれが感じられるとき、数値を精査するのは基本中の基本と改めて確認しています。

 ニーチェが『反時代的考察』第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」の冒頭で述べている、文脈は異なりますが、「怠惰への性癖」という言葉を思い出させます。曰く、

「人間は臆病であるよりももっと怠惰であり、無制約な正直と赤裸々な態度が自分に負わせるかもしれない重荷をまさに最も多く怖れる」

 これは、どの人間もただ一度の、ユニークなものとして、この世に存在しているという稀有の偶然を、なぜ良心の呵責のように隠しているかの解釈を述べている部分です。道徳教育が教科化されましたが、怠惰であることを奨励し、時の政権に従順な「人間育成」を目指すものでないことを、注意深く見守らなければならないと、これも改めて心に刻んでいます。

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 3月10日の弘道館公園の梅。桜の開花予想では今年は早いとか。次は桜、春は楽しみです。

h-miya@concerto.plala.or.jp