宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

老いの哲学:「いる」ということ

 介護士として、高齢者と触れ合う中で「老いの哲学」について考えています。これはエリクソンいうところの第8段階の「のちの在り方」です。第8段階「老年期」(60代半ば以降)が「英知」を課題とする段階であるなら、そこで終わらないのが人の世過ぎ、と日々痛感しています。80代、90代というのは、また違った生の在り方に突入する感じがします。

 軽度認知症を発症している方たちが、穏やかな時間を過ごしながらも、「早くお迎えが来ないか」とか、症状が進行していく仲間たちを見ながら「前はああじゃなかった、ああはなりたくない」という言葉を時に発するのを聴きます。人はいずれ死んでいきますし、生まれたときから死に向かっている存在だ、とはよく言われる言葉ですが、今まさに「人としての時間」を終えつつある人たちと共にいることで、そういう終わりのときを存在することの意味を考えています。つまり「いる」ことの意味と言ったらいいでしょうか。物は「ある」のですが、人は「いる」と言います。この日本語の意味合いの違いは何を意味しているのでしょうか。

 椿は最盛の時にぽたりと落ちます。人はそうではなく、萎れて枯れていきます。こういう在り方に対処する諺はいろいろありますが、どうもあまり希望を感じさせるものではありません。

 「老いの繰り言」、「老婆心」、「年寄りの冷や水」、「老い木は曲がらぬ」、「老骨に鞭打つ」、「老いては当に益々壮んなるべし」、「老いたる馬は道を忘れず」、「亀の甲より年の劫」

 最後の三つは少し前向き評価ではあります。まあ諺は処世訓であり、注意を喚起する意味合いがあるので、仕方ないのかもしれませんが。でもこういう言葉を聞いていたら、「早くお迎えに来てほしい」と思ってしまうのも納得します。

 存在すること自体の意味、そして社会の(老人、障がい者、女性、犯罪者、少数民族などへの)負の価値評価から見えてくるものの共通性、「発達」という概念の問題性など、「老い」というパースペクティブは様々なことを考えさせてくれます。

f:id:miyauchi135:20180412133715j:plain  f:id:miyauchi135:20180412133816j:plain

                  4月10日の護国神社の桜

 

h-miya@concerto.plala.or.jp