宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

作品と作者

 今年の桜は早かったです。お花見もまだゆっくり行けないまま、今週末には散り始めるだろうと言われ、ちょっと焦りますが、今年の花は仕方ないかな。やたら忙しかった3月が終わり、4月ももう4日です。

 さてこういうときは、少し日常を離れるに限ります。芸術作品には作家と作品と鑑賞者が必要ですが、私はもっぱら鑑賞者。DVDで映画を観て気分転換、が多いのですが、音楽会や絵画の展覧会もリフレッシュします。DVDで『アマデウス』を観たとき、作品と作者の関係を考えてしまいました。

 ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト(1756-1791)の死因はなぞが多いと言われます。死後まもなく宮廷作曲家アントニオ・サリエリ(1750-1825)による毒殺説がささやかれたことは事実であり、また、モーツァルトが猥談を好んだというのも事実のようです。映画は、この毒殺説をフィクションと知りつつ取り上げ、下品なモーツァルトを描き、彼の音楽と同じく高貴なモーツァルト、というイメージを大きく変えるものでした。映画の中で、正確ではありませんが、モーツァルトが「僕は下品な人間だが、僕の音楽は違う」と言い放つ場面がありました。なぜかこの部分に、胸を突かれました。天才の矜持と悲哀のようなものを感じたからでしょうか。

 石坂洋次郎に関して、自己評価だったか他己評価だったか忘れましたが、「作品は面白いが、作家自身はつまらない」というようなものを思い出しました。作者ではありませんが演奏家に関して、著名な若手女性ヴァイオリニストが「自分はヴァイオリンのサーバント。自分のことは後回しになります」と、肌の手入れに関して聞かれて答えていたことも思い出しました。逆に前橋汀子さんは、ヨゼフ・シゲティから学んだこととして、音楽だけでなく美術や文学への素養、社会的問題への広い視野を身に付ける必要性を上げていました。

 モーツァルトに戻って、彼は1781年、ウィーン定住を決意し、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てます。ウィーンでのモーツァルトはピアニストとして人気がありましたが、晩年までの数年間は借金を求める手紙を数多く残しています。彼自身の品行が悪く、浪費癖に加えて仕事にも恵まれなかったためと思われますが、映画では、1823年11月のある夜、ウィーンの街で自殺を図った老人アントニオ・サリエリが精神病院に運ばれ、「許してくれ、モーツァルト! 君を殺したのは私だ」言い続けていた場面から始まります。冒頭で使われている曲は、モーツァルト17歳の時の曲で、『交響曲第25番ト短調 K183』の第1楽章です。

 この映画のテーマは、常識人サリエリの天才モーツァルトへの嫉妬であり、クライマックスは彼がモーツァルトに「レクイエム」を注文した上で毒殺し、その葬儀でレクイエムを「サリエリ作のレクイエム」として演奏する計画を立てた、というものです。もちろん史実とは異なっていて、レクイエムの注文者は、フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵(田舎の貴族)であり、彼は自分の夫人を若くして亡くし、彼女を追悼するために「レクイエム」をモーツァルトに頼んだそうです。伯爵はそのレクイエムを、自分の作曲として演奏するつもりでした。ちょっと驚きですが、こういうことが行われていたのですね。

 作品と作者の関係は、考えているといろいろ面白い部分が見えてきます。伝承文学は作者不明だったり、伝承されていく間に変化しつつ完成して行きます。読者参加型と言ったらいいのでしょうか。これに対し、天才による作品は、それに手を加えることは許されません。個人の天才に待つ作品があるのは事実でしょうが、それゆえに生じる嫉妬や自分の才能と向き合ってのスランプがあります。

 芸術作品とは楽しくつき合いたいなあと思うのは、私にはそういう才能がないからなのかもしれません。

h-miya@concerto.plala.or.jp