宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

桜に想う

 ほとんどの小学校、中学校の校庭には桜が植えられています。私たちにとって桜はごくありふれた花ですが、同時に特別な花です。奈良時代には梅に人気がありましたが、平安時代以降、花といえば桜を指すようになりました。桜を詠んだ歌としてよく知られている二首。私も大好きな短歌です。 

 世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平朝臣

 ねがはくは花の下にて春死なむそのきさらぎのもち月のころ    西行

 私ももう少し若い頃は、桜を美しいと思っても、それだけでした。夜桜に不気味なほどの美しさを感じても、やはりそれだけでした。ただ、西行法師の「花の下にて春死なむ」の句は、深く心に染み込んだ歌でした。

 お世話になった故高木きよ子先生(宗教学)も、桜に憑かれた方でした。『桜百首』のあとがきで、いつのころよりか桜の季節になると落ち着かず、「毎日桜を求めては東京中を歩き廻るのが常になった」と書かれています。紫がお好きで、おしゃれな方でした。先生を通じて、短歌の世界に触れることができましたが、私には歌心がなかったようで、残念ながら続きませんでした。それでも、私も年とともに、短歌にまた関心を持つようになり、桜の季節になると、桜を求めて車を走らせるようになりました。

 さくら花はよ散れよかし咲ける間は心すずろにせんすべをなみ  高木きよ子

 まだここまでは思いませんが、桜への思い入れは、日本人には強いようです。どこから来ているのでしょうか。

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那珂市阿弥陀寺の枝垂れ桜(樹齢300年)(4月10日)   水戸市六地蔵寺の枝垂れ桜(4月13日)

『ニュー・シネマ・パラダイス』:痛みの中で、今を「肯定」する

 『ニュー・シネマ・パラダイス』の完全版(ディレクターズカット版)を観ました。1988年に公開されたイタリア映画です。監督はジュゼッペ・トルナトーレ。劇場公開の短縮版は123分、ディレクターズカット版は173分です。劇場公開版は内外で高い評価を受け、イタリア映画の復活を印象付けたと言われています。エンニオ・モリコーネの音楽もよく知られています。

 50分違うというのは大分違うと思いますが、映画の主題が大きく変わっていると言われます。私は劇場公開版(短縮版)を見ていないので何とも言えませんが、短縮版では映画館「パラダイス座」が物語の中心になっているそうです。ディレクターズカット版では、主人公の人生に焦点が当てられています。是非劇場公開版も見てみたいです。

 ディレクターズカット版は、確かに主人公トトの成長物語でした。映画への愛情とエレナへの愛情が両方描かれていましたが、どちらかというとエレナへの思い入れの方が強く印象付けられました。ずっと引きずっていたエレナへの愛。なぜ突然いなくなったのか、それに深く傷ついたままの人生。最後の場面で、教会の司祭によって削除されたラブシーンをアルフレードが編集したものを見つめるトト、その目に涙が浮かんでいました。

 劇場版を見た人たちが感動し涙した場面が、そのせいか、私にはなるほどなあ、で終わりました。もちろんアルフレードの映画への愛とそれをトトに託した思いも伝わってきました。ただ、私は、「人生で、すべては手に入れられない」という思いで観ました。でも、それゆえの、今の自分を「肯定」する深みも生まれると。

 いい映画というのは、単純に「見て良かった、面白かった」では終わりません。そこにやはり人生の一瞬があり、それを観ている側も体験します。劇場公開版を観たら、何を体験するのか、興味があります。

ケアにおける客観性4)ーー生の「展開」から評価する

 ケアにおける客観性をニーチェの系譜学の手法から考えてきました。取りあえずまとめておきたいと思います。

 ニーチェの系譜学的解釈は、解釈の良し悪しを、複眼的に解釈する技術です。生の遠近法の創造性と解釈している力の質を、生肯定か生否定かという基準から、解釈の価値を判断評価します。ケアにおいて相手に寄り添うというとき、この複眼的解釈と解釈の意味を精査する基準点は重要になってきます。

 例えば、『道徳の系譜』の第3論文では、「禁欲主義的理想は何を意味するか」が問題にされています。禁欲主義的理想は、哲学者や学者にとっては、「至高の精神性の有益な諸条件の一つ」ですが、生理的に変調をきたしている者にとっては、自分たちは「この世に適応するには<善良でありすぎる>と見せかけようとする一つの試み」だと言われます。

 ニーチェは、一見同じように見える解釈が、解釈する生の必要性から切り離せないことを指摘しています。解釈はこのように、生理的状態の「徴候」として多様です。系譜学的解釈は、解釈の系譜(価値の発生)を問うという形で、価値解釈を価値を占有する力の位置と関係に解体します。

 価値解釈を生存の中で記述する。例えば、自己犠牲の徳を、生存の必要性の中に位置付け直すことで、ある意味自分を縛ることや自分に酔うことから解放すると言うことです。自己犠牲の徳の意義をすべて否定するつもりはありません。それが何を意味するかを問うと言うことです。それは道徳的価値解釈を、道徳的価値体系の中の一部としての位置づけから解放します。このような批判は、現存の秩序を基礎づけるための吟味ではなく、新たな創造(解釈)へと向けられたものです。

 そしてもちろん、このような系譜学的評価もまた、遠近法的であり、相対的なものになります。

「『私の判断は私の判断だ。他人がこれをあっさり自分のものにする権利などありはしない』――おそらくこう未来の哲学者は言うであろう」(『善悪の彼岸』43)

 系譜学的評価は、それゆえ結果責任を引き受ける判断でもあります。系譜学的解釈はルールを立てません。それは多様な価値解釈に個別的に加えられる系譜(価値発生)の検討なのです。一般的解釈を生み出すルールに帰着するなら、普遍的原理主義の立場になってしまいます。

 しかしニーチェの系譜学の立場は、何でもありの否定も肯定もしない懐疑の立場ではありません。それは評価判断する立場です。多くの遠近法を自在に駆使し、かつテキストに忠実な文献学的慎重さによって注意深い客観性の立場を保ちつつ、生肯定か生否定かの規準から、それぞれの価値解釈に評価判断を下します。そうすることで、判断を下してその結果を引き受ける勇気と、自らの責任によってそれをなすという自立自存の能力も生み出されます。

  ケアにおいて相手に寄り添って解釈判断すると言うことは、相手の判断を自分の判断として鵜呑みにすることではありません。その意味で、多数の遠近法を自在に操る能力と原典をゆっくり深く読む、「よく読む」技術としての文献学的能力は、重要になってきます。問題なのは、そこで何を基準にそれぞれの解釈を、評価判断するかということです。ニーチェでは生に無垢を取り戻し、創造性を取り戻すために、解釈をしている生の質が「生を肯定しているか否定しているか」が基準でした。

 では、ケアを必要とする一人ひとりが持っている解釈の意味を、ケアする側はどこから評価判断し、どのように応答してゆくか。それは介護を必要とする人たちが、介護する側に示している「(人間が)生きるということそのもの」とつながっていると思います。生の可能性としての、生の(直線的発展・進歩ではない)「展開」という視点が出てくるのではないでしょうか。

東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展

 最終日に滑り込みで、見てきました。やはり圧倒されました。68面の襖絵すべて展示されていました。鑑真上座厨子のある松の間は、「揚州薫風」と題された26面の襖絵が描かれています。これは和上の故郷を描いた水墨画です。東山魁夷水墨画は、始めて観ました。観ているうちに、それを描いている画伯の息づかいのようなものを感じて、身が引き締まりました。

 宸殿の間の濤声16面、青の世界。本来あるべき場所に収まった映像も流されていて、やはり展示も素晴らしいですが、襖絵として収まっている様子は圧巻でした。いつか観れる機会があったらぜひ観てみたいです。

 一人のモーツァルトの陰には100人のなりそこなったモーツァルトがいる、というようなことを以前読んだ記憶があります。なりそこなったモーツァルトはそれでも幸せなのかな、とふと思いました。なりそこなった100人の東山魁夷がいるからこそ、私たちはこの成果を目にすることが出来ている。でもなりそこなった東山魁夷は、やはり幸せなのかも。作品制作に集中できる時間を持てるということは、たとえそれで生活できなくても、意味のあることなのでしょうね。むしろ東山魁夷自身の道程の方が、キリキリと自分を追いこんでゆくような厳しいものなのだろうと感じました。

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    茨城県近代美術館                 美術館の前からの風景

 

今生きること

 明日から4月です。でも明日はまた寒いという予報。

 25日の春合宿の参加者の方からの感想をメーリスで読ませていただきながら、いろいろ考えています。私は認知症初期の方の介護の現場にいるので、作業療法士の川口淳一さんの活動について知ることができたのは、大きな収穫でした。

 認知症状を持つ方たちは、記憶に混乱が起きています。今がいつなのか、かなりあいまいになって来ている方も多いのですが、デイでは皆さんそのことにそれほどショックを示されません。他の方もそうだ、と分かるからでしょうか。自分のしたことや言ったことを忘れてしまえる。されたことも忘れてしまえる。皆さんは今「に」生きていると感じます。そのことに救われる思いがします。毎回、私は皆さんと新しく「出あって」います。それは皆さんが、そういう態度で私に向き合ってくれるから。対他関係で、相手に対する自分の印象記憶を忘れることができると言うのは、すごいことだと思います。

 認知症状を持つ方たちは、主体的に今「を」生きることには困難を持っています。そこを周りにいる私たちがフォローできれば、皆さんは穏やかに笑顔で生活してゆけるのではないでしょうか。生活のリズムを作ることや健康を維持するやり方を、具体的に一緒にやってゆくことで、今「に」立ち竦まないようにする。そうできれば、思いもかけない楽しい応答をしてくれます。

 5年先の自分をイメージして、とか10年先の成りたい自分から「今」の自分の課題が分かります、というようなことがよく言われます。成程なのですが、それに囚われすぎると、今・ここがおろそかになる気がします。社会システムの構築の場合は、確かに10年先を見越したプログラム作成が必要だと思います。ただ、一人ひとりの生き方や生活では、「今」に集中する(今「を」生きる)ことは心を解放することでもあると思います。

千葉・茨城教授学研究の会

 25日の土曜日、千葉・茨城教授学研究の会の春合宿に参加させていただきました。毎回、参加者の先生方の授業にかける熱意とそのレベルの高さに、刺激を受けます。

 教授学研究の会は、故斎藤喜博氏が1973年に結成したものです。教授学研究は、授業の学、子どもの可能性を引き出す授業の原理・原則の体系化を目指したものと言われます。「教師は授業で勝負する」という斎藤喜博さんの志を継いだ教授学研究の会は、他地域でもいくつか活動しているそうです。

 教授学研究というものを、研究会に参加するまで知りませんでした。千葉・茨城教授学研究の会に参加されている先生方の、授業を作る力量を実際に見せていただくと、正解は一つではなくとも、良しあしがあるということがどういうことか、実感としてわかります。実践は実践者と結びついていますから、人が異なると当然表現形態も内容も異なってきます。それでも、そこにやはり質の差異はあって、厳然とそれが表出されます。それは「客観的」にとらえることができます。この質の差異とは何なのか。どう表現したらいいのか、まだうまく言えませんが。

 教材研究は自分一人の追及でも、無限の可能性を持っていますが、模擬授業を通して、何人かの視点(複数の遠近法)で教材解釈をする豊かさと面白さに、時間のたつのを忘れます。

 ニーチェは、客観性とは「知性の向背を意のままに左右し、これを自在に懸けたり外したりできる能力」(『道徳の系譜』Ⅲ-12)と言いました。それによってこそ様々な遠近法や情念的解釈の差異を認識のために役立てることができる。一つの事物についてより多くの情念に発言させるほど、同じ事物に多くの目を向けることができるほど、その事物についての私たちの客観性はより完璧になる、と言っています。

 研究会に参加して、ニーチェが言っている客観性の意味が実体化した気がします。半日だけ(といっても夜の10時過ぎまで)の参加でしたが、正座のほうが楽で正座している時間が長かったようです。次の日膝に痛みが出ました。その時は、集中していて、気が付かなかったのですが、年には勝てないなあ。

ケアにおける客観性3)―系譜学の客観性概念

 私たちの毎日の生活の中で、いろいろなものの見方や価値観に出あうのはごくごく当たり前のことです。「カラス、なぜ鳴くの?」「カラスの勝手でしょう」というのは、ドリフターズが流行らせたフレーズでしたが、小阪修平さんが恣意性としての相対主義の時代の到来の例として挙げていました。ニーチェの遠近法主義も、恣意性の主張と受け取られかねません。

 「生は遠近法的解釈なしには存在し得ない」とニーチェは主張しました。そして、その解釈に普遍的基準から真理性を問うことは不可能だと言いました。なぜなら普遍的「事実」などないからです。解釈を照らし合わせる「基準」など存在しないとニーチェは言います。これは真理の対応説の否定です。真理の対応説とは「真理とはあるものをあると言い、ないものをないと言うこと」、つまり、真理は事実との対応関係によって決まる、という考え方です。ニーチェは、その解釈を照らし合わせる「事実」など存在しないと言います。しかし、解釈の「良し悪し」はあると言うのです。正しいか、正しくないかではなく。

 ニーチェは原典(生、身体、現実)を否定した訳ではなく、それらは解釈と切り離せないと言いました。原典は言葉を通してしか捉えることはできないし、それぞれの遠近法を通してしかとらえられません。ですから多様に解釈可能であり、原典と言葉は繰り返し統合されなければならないのです。ヴィトゲンシュタインが、言語ゲームの正当化は「これが端的に私たちがやっていること」で終わると言ったことも、言語と生の形態の循環を言っています。

 ただ、過度に熱狂的な解釈は避けられなければいけないとニーチェは主張します。そこで要求されているのが、原典への誠実さと正義の感覚です。このとき文献学的解釈が要求されます。この文献学的解釈は、1885年頃に捉え直されたものです。いわゆる「歴史的・批判的方法」としての文献学ではありません。「よく読む」技術としての文献学です。

 そして客観性とは、様々な遠近法の差異を認識に役立てられるような知性の自在さ、と捉え直されます。「関心なき直観」なんかじゃない、と言うのです。主観的なものを出来るだけ排除して認識するという客観性、鏡としての客観性は否定されます。

 系譜学の客観性とは、この多くの遠近法を自在に駆使できる能力のことです。そして系譜学的解釈とは、事物の発見的説明としての認識ではありません。ではそこで読み取られているものは何なのでしょうか。何を規準にして「よい解釈」と「悪しき解釈」が言われ得るのでしょうか。これは、ケアにおいて他者に寄り添うというとき、問題になってくるものです。まずは相手の解釈を受け入れること(生における解釈は多様である)が重要。しかし、それは客観的判断評価を捨てると言うことではない、恣意性の容認ではない、という時に問題になることでもあります。

h-miya@concerto.plala.or.jp