宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』7:最後の人間の幸福

 幸せ、幸福というのは、何なのでしょうか。『ツァラトゥストラ』の中で、幸福というのはあまり重要視されていません。それは幸福であるとは、どういうことかと結びついています。少なくとも功利主義的な快と苦という視点から言えば、幸福は快を感じている状態のことです。とすると、どういう快を幸福と感じているか。ツァラトゥストラは幸福という言葉で生ぬるい快を表現している気がします。

 茂木健一郎さんの『脳の中の人生』(中公新書ラクレ)では、「人生楽しむが勝ち」というように語られています。

 「人間の脳は、基本的に快楽原理でできている。楽しいこと、うれしいことがあったときに、その結果に至る行動の回路が強化されるのである。もちろん、快楽といってもさまざまなバリエーションがある」

 茂木さんがここで例に出しているのは数学者や科学者の喜びで、カリフォルニア工科大学に行ったときに感じた、高度な快楽の文化がカリフォルニアの楽天主義と結びついて出来上がっているということ。

 功利主義では、幸福の増大が基準になっていますが、それは快楽の増大のことでもあります。快楽にはいろいろあることも、もちろん想定されています。ジェレミーベンサムは、たとえ悪意からなる動機(邪悪、嫉妬、残虐など)であっても、それ自体は善であると言っています。少なくとも、悪い結果が到来するまでは(『道徳および立法の諸原理序説』「第10章動機について」第2節の注)。快を呼び覚ますものは、ともあれ善であるという立場です。

  ニーチェの『ツァラトゥストラ』序文には「最後の人間」が出てきます。「最後の人間」とは小さくなった人間であり、自らのうちにもはやカオスを持たない存在のことです。そして彼らは、自分たちは幸福を考案したと誇らしげに語ります。

 ツァラトゥストラが(人間への大いなる軽蔑から人間は超人へと没落することを意志する、と)超人を語っても民衆が反応しないので、彼らの誇りに訴えかけようと、もっとも軽蔑すべき人間、「最後の人間」について語ります。民衆が自分たちが誇りとするもの、自分たちの「教養」への軽蔑の言葉を聞きたがらないと悟ったからです。

 

 「愛とは何か? 創造とは何か? 憧憬とは何か? 星とは何か?」――最後の人間はそのように問うて、まばたきする。

 そのとき、大地は小さくなっていて、その上を、一切のものを小さくする最後の人間が跳びはねる。

 (中  略)

 「われわれは幸福を考案した」――と最後の人間たちは言って、まばたきする。

 (中  略)

 人はなお隣人を愛し、隣人にわが身をこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。

  (中  略)

 人は賢明であり、起こったことをすべて知っている。そこで、果てしなくあざけるのだ。ひとはなお争うが、しかしすぐに和解する――そうでないと、胃をこわすからである。

 (中  略)

 「われわれは幸福を考案した」――と最後の人間たちは言って、まばたきする。

 

 語り終わったツァラトゥストラに対して、群衆は「われわれにこの最後の人間を与えよ」と叫びます。最後の人間の自己肯定には、畏敬の精神が欠けています。畏敬の精神とは新たな創造への、新たな展開への原動力です。しかし、最後の人間の自己肯定は、他者否定と対を成し、かつ彼らは、自分のうちに新しいものを生み出すカオスを持ちません。「牧人のいない一個の畜群」といわれる最後の人間たち。彼らは、ルサンチマンの創造性からもずり落ちて、小さくまとまっています。

 ニーチェ功利主義を批判しますが、それは、功利主義が価値を生存にとっての表層的なものである「快・苦」という自然的事実へ還元し、そこに固着しているということからでした。ニーチェは快・苦という現象は、人間が真に求める力の増大に伴う随伴現象に過ぎないと言います。

 

  快と不快とはたんなる結果、たんなる随伴現象に過ぎない、――人間が意志するもの、生きている有機体のいかなる最小部分にせよ意志しているもの、それは力の増大(プラス)である。それを求める努力に、快も不快も従ってくる(『遺稿集Ⅷ14〔174〕』

 

 ツァラトゥストラニーチェは、快を否定していません。ただ、何に快を感じるか、その元々の生の在り様に焦点がありました。幸福は生の随伴現象であって、求める対象ではないと考えていたようです。最後の人間の幸福とは、群れてつつがなく暮らすこと、問題なく順調に無事に暮らすこと、と言えるかもしれません。その意味では、私たちは多かれ少なかれ、最後の人間なのでしょう。しかし、それは人生、何が起こるか分からないと思っているからでもあります。平穏無事を願うことと、それに囚われないこと。平穏無事は、動いている生の時間の中では、むしろ幸運な一瞬、と捉えていた方がいいのかもしれません。

h-miya@concerto.plala.or.jp