宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

こころの座

 授業で、機械論的自然観の成立の話をしたとき、デカルト心身二元論から始めました。デカルトは、人間は「こころ」を持つので「機械」ではないと考えていたことも話しました。授業が終わってから、ある学生から「こころはどこにあると考えてますか」と質問されました。その学生は、脳の働きが「こころ」を生むと考えていると言っていました。

 デカルトに倣えば、「こころ」は考えること、感じることなどの特性の主体のことです。作用に作用者がいるという考え方は、文法の罠に嵌っているのだというのがニーチェの考え方です。ニーチェは遺稿集の中で「すべての出来事は何らかの行為であり、すべての行為には行為者がいると考えるのは‥‥(中略)‥‥「主体〔主語〕」に対する信仰である」と言っています。行為と行為者を分ける思考を批判するとき、ニーチェはよく稲妻の例を挙げます。

 「わたしが『稲妻が光る』と言うとすれば、その時にわたしは、『光る』を行為としてみる一方で、『主体』としても設定している。つまりこの出来事の奥に一個の存在を前提しており、その存在は、出来事と同一ではなく、むしろそのままであり続けるもの(bleiben)、存在するもの(sein)であって、『変化するもの(werden)』ではないと見ているのである」(『道徳の系譜』第1論文)

 このような思考は主語述語概念が発達したインドゲルマン語系の人間の示す傾向と言われていますが、現代の私たち日本人もこういう思考形態を共有している気がします。ニーチェはウラル・アルタイ語圏の哲学者たちは別ように世界を見るだろうと言っていますが。

 こころの働きにはどこかに座があると考えたい。でも、認知の作用が大きく脳の機能に依存しているとしても、こころは脳の機能にだけ依存する働きなのでしょうか。身体機能を損傷せずに脳死状態に陥った存在が、長期に亘り心臓が生き続けている例が、「長期にわたる脳死」(1998年)という論文でシューモンによって紹介されました。2003年時点でも19年に亘って、自宅で人工呼吸器をつけたまま心臓は生き続けていました。お母さんは、自分が出懸けたり帰ってきたりすると、彼は分かる、血圧が変動するからと言っていました。

 日本語には「身に付ける」「身のほど知らず」「身から出た錆」「身に覚えがある」「身も蓋もない」「わが身を振り返る」など、身という言葉に単なる肉体以上の意味を込めて使う使い方が沢山あります。ここでの「身」には、たましいやこころを含んだ意味合いがあると思います。生きられる身体はたましいやこころがそこで動く「場」なのかもしれません。

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