宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェの「力への意志」:力の質と量

 9月も3分の1が過ぎようとしています。8月の末から、介護の初任者研修を受け始めました。介護の実践部分に関わりながら、ケア実践を客観視したいと思っています。ケア論を思想の部分を中心にやってきましたが、ケアは実践に関わらないと、思想的にも本当のところは分からないと思っています。

 さて、思想と現実の接点を考えるとき、私はまずニーチェの「力の思想」に思いが至ります。ニーチェが現実的な力をどう考えていたかは難しい部分があります。ニーチェはナポレオンを賛美しています。そして高貴な力程壊れやすい、とも言います。私自身はケアの基本に、人間を含む自然の傷つきやすさ(バルネラビリティ)を据えています。ニーチェの「力への意志」は一見、ケアの立場と相容れないように見えますが、必ずしもそうともいえないと考えています。

 ニーチェは生の質を問題にしました。そして質と量は異なりつつ共存しています。量の差は質として捉えられますが、しかし「質を量へ還元するのは無意味」と言われます。また「力の量がより大きいということは、意識が、感情が、欲望が、遠近法的視点が違うことに相応している」「増加自身が、より多くなろうという欲求なのだ」(Ⅷ2〔157〕)と。これは1885年秋から1886年秋にかけての遺稿に収められている部分です。引用は、現在ニーチェテクストとして最も信頼できるとされている、コリとモンティナーリ編集の通称グロイター版の白水社からの翻訳版からとっています。

 量の差異が質と受け止められるが、その質を量へ還元するのは無意味というのはどういうことでしょうか。質が感じ取られるところに必ず量があります。例えば子どもと大人。子どもと大人は量的に異なっていて、それを私たちは質の違いとして感知します。ではその質の違いを量に還元できるのか。量の違い(身長とか体重とか能力)が質の違いにつながっても、質の違いは単純に量の違いには還元できない。

 アフリカの採集狩猟民ピグミーは大人になっても一般に身長が低い(大人の成人男子で平均144センチ)です。日本人の子どもと身長差があまりなくても、大人であることと子どもであることの違いはあります。この違いを量で表現できるのか、ということでしょうか。

 上の引用部分だけでは、ナチスや暴力的なものがそのまま力の量の増大として認められるように受け止められかねません。しかしニーチェは、生の質を生肯定と生否定に分けています。そしてすべては力への意志なので、力への意志の質に生肯定と生否定があることになります。肯定的な力の質とは、晴朗さ、高貴さとか存在の永遠の輪というような概念とつながります。そして高貴なものほど壊れやすいとも。

 なかなか手ごわいニーチェの力の思想が、第1次世界大戦やトーマス・マンの解釈を介して、政治的権力思想としてドイツでは普及してしまった、というのは思想と現実の接点の難しさを例示しています。

 

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