宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ひたちなか市民大学2回目:電子メールの安全性

 今日は、メールの仕組み(2)で「差出人と宛先」「フィルタリング」「安全なメールの送受信」についての話でした。特に面白かったのは、「安全なメールの送受信」の話でした。メールは第3者も見ることができます。「共謀罪」の趣旨を含む組織犯罪処罰法が11日に施行されましたが、アメリカから提供された可能性のあるエクスキースコアの話を思い出しました。これは電子メールの暗号化は、ちゃんと考えておかなければならない話だな、と改めて思いました。

 暗号化には共通鍵暗号方式と公開鍵暗号方式があります。送信者が平文を送るとき、鍵を使って暗号化して暗号文にします。それをまた鍵を使って復号(符号化された情報を原情報に戻すこと)して平文に戻します。共通鍵方式は暗号化・復号ともに同じ鍵を使います。このやり方は処理が高速ですが、共通鍵を他人に知られないように送るのが困難です。公開鍵暗号方式では、公開鍵と秘密鍵をセットで使います。受信者の公開鍵を送信者がダウンロードして、その鍵で送る文章を暗号化して送信します。その暗号文を受信者が受信者の秘密鍵で複合するのです。この公開鍵暗号方式をRSAと呼びます。

 RSA暗号は、素数を使いますが、二つの素数を選びその素数の積を鍵として使います。これは素数の持つ特性に注目したやり方です。素数の桁が小さいとすぐ見破られますが、桁を1000桁にすれば、おそらくその解読に数百年かかると言われます。これは素数が無限であることと、素数の現れ方に規則性が見つかっていないからです。コンピュータは組み合わせ処理(しらみつぶしに調べる処理)が苦手です。素数に規則性はあるのか? これは数学者たちが取り組んできた問題ですが、いまだに解明されていません。こういう話、私は大好きです。

 もし素数に規則性があることが見つけ出されたら、インターネットで現在使われている暗号化方式が通用しなくなり、銀行のATM、クレジットカード決済、電子マネー決済などが使えなくなります。RSA暗号の数学的原理はもう少し複雑です。

 ともあれ、インターネットでは2つの暗号化方式が使われています。共通鍵を公開鍵暗号方式で送って、それ以降平文を共通鍵で暗号化し、受信者もその共通鍵で復号するというやり方です。これがプロトコルSSL(Secure Sockets Layer)です。そして電子メールの暗号にもSSLが利用されています。

 うーん、でもまだ消化不良です。メールの設定画面が表示できないし、SSLがオンになってるかどうかも分かりません。もしオンにした場合、対応していないアプリを使っているあるいは相手方がオンにしていない場合、メールのやり取りができなくなる? 質問したかったのですが、講座がぎりぎり時間で終了し、個人的な質問者がかなり並んでいて、明日のことも考え、並ぶことをあきらめて帰ってきました。

観ること:知覚の客観性2)

 「客観性」という言葉に終始批判的だったメルロ=ポンティは、それが自然科学における固定的なものの見方をあらわす言葉としての使用に反対していました。しかし『知覚の現象学』の中で、知覚の客観性という点について、「最適性」と「特権性」を語ります。私たちが何かを見るとき、一番対象を捉えるのに適したところから見る。それが最適性であり、そのとき実現されているのが特権的知覚です。その定点が「成熟点」と言われます。このような瞬間を、メルロ=ポンティは「規範の誕生」と呼びました。これは知覚主体との緊張関係の中に実現されていますが、私たちが絵を観るときの状態を思い出すと、分かり易いのではないでしょうか。

 ゲシュタルトとは、私たちの脳内にあるのでもなければ、要素的刺戟から構成するものでもありません。メルロ=ポンティは「形態とは世界の出現そのもののことであって‥‥‥それは一つの規範の誕生そのものであって、〔あらかじめある〕一つの規範に従って実現されてゆくというものではない」(『知覚の現象学 1』116頁)と言います。ゲシュタルトとは、それ以上遡れない根源的形式のことであって、内面的なものを外へと投影することではありません。内面的なものと外面的なものの同一性だと言われます。科学の出発点になる客観的知覚は、このような特権的知覚と言われるものです。

 また私たちが遠近法を持って生きているにしろ、その遠近法は全く恣意的なものではなく、それは「そのようにしか見えない」知覚の構造の中にあります。遠近法的変形を私たちが理解するのは、「私が身体をもち、そしてこの身体によって私が世界に対する手がかりをもっている」(『知覚の現象学 2』147頁)からです。そうでなければ例えば1メートル先のあるものと、100メートル先の同じものをどうやって同じと見分けることができるか、理解できなくなってしまいます。この身体を軸に位置、距離、現われを同定する特権的知覚。これは「三つの規範を同時に満足させる成熟点」(同上書、146頁)に収斂し、この特権的知覚によって私の知覚過程は統一性を保証されて(安定して)います。そして知覚の基準点のために私の身体が世界に対しての手がかりになるのです。

 ジェームズ・J・ギブソンは認知における対象の不変項という概念を提示しました。メルロ=ポンティは知覚から出発し、知覚の創造的側面にさらに歩みを進めました。すなわち、解釈が重要性を持つ世界と知覚の関わりを描き出したわけです。

 メルロ=ポンティギブソンも知覚現象に対する物理的実在の優位性や先行性に否定的でした。そして二人とも物理的世界にたいして、知覚世界の直接性、先行性を主張しました。ケアを通して見えてくるものは、やはり知覚世界の直接性であり、先行性だと思います。それと同時に、ケア関係の中にある創造性は、単に知覚を生態学的世界の不変項を把握する、と考えると行き詰まります。各自の、それぞれの身体性を含めた規範の誕生としての特権的知覚、それによって出現した世界との関わりが重要であり、その世界は知覚する主体との緊張関係の中に保たれています。

オペラ歌手の小演奏会の夕べ

 昨晩、急に個人宅のホールでの、オペラ歌手ご夫妻(ウィーンのテノール歌手と日本人で奥様のソプラノ歌手)の演奏会を聴くことができました。あまりオペラは聴かないのですが、プロの方の磨き抜かれた「声」に圧倒されました。

 幼稚園でのオペレッタの実演の映像を観て感激したことがありますが、オペラとオペレッタの違いは、まだ感覚的に良く分かりません。私は、オペラよりも軽めの音楽ドラマという感じで捉えています。よくオペレッタは、軽喜劇と訳されたりするようですが、必ずしも喜劇である必要はないようです。

 昨晩の小演奏会では、お二人がそれぞれ数曲、デュエットで3曲(だったと思います)歌い、軽妙な解説をつけながら司会してくださった現役テノール歌手の方が2曲(?)歌いました。中盤でグノーの『ロミオとジュリエット』(シェークスピア作)の中から、第2幕の「私は自由に生きたい」とロミオとジュリエットの愛の2重奏が披露されました。声によって感情を表現するところにオペラの特性があるのかな、と思いながら聴きました。これがアリアと言われる部分です。

 司会の方が、ソプラノはお姫様や若い娘を、アルトは年をとった女性や魔女や意地悪な女性を歌うと言われてました。バスは父親や王様、魔法使い、テノールはイケメンの男性役に充てられるとも。声楽家の声域と演じる役柄がパラレルになっているようです。まあ、言われてみればなるほどです。昔は照明が暗かったので、声で演じ分けられたようです。ラジオ劇を思い出してください、と言われました。なるほどです。でも、扮装して台詞も動きもあるわけで、視覚型人間としては、今ひとつ納得がいきません。歌唱力を楽しむということなのでしょう。

 「ロミオとジュリエット」に戻りますが、あの物語の切なさは、オリビア・ハッセ―が演じることでツーンと感じた気がします。演劇というのは、そういうものじゃないよと言われそうですが。演劇やオペラは、観客側も楽しむまでには訓練が要求されると思います。そして「声」の問題にも、改めて注意を引かれました。

観ること:知覚の客観性 1)

 ケアは観ること・観察から始まると思います。観察は看護においてナイチンゲールが重視したものでもあります。現象学も観察記述から始まります。では観察情報の客観性(人による偏りのなさ・安定性)をどう考えるか。観察情報の客観性は知覚の客観性に集約できませんが、知覚の客観性の問題としてまず考えてみたいと思います。

 知覚の中では、視覚が最も客観的なものだと思うので、視覚に絞って考えます。ものを見るとき、同じ場所に立つと、視力に問題がない場合は、ほぼ同じに見えていると言えます。ではどうしてそういうことが起きるのでしょうか。単純に考えれば、外のものを人間の知覚が捉えるから、と言えます。しかし、こういう「鏡としての」客観性は20世紀になると、問題視されるようになりました。

 意識が外界を厳密に移すという、「鏡としての」客観性が問題視されるようになったのは、ヴントを中心とした要素主義心理学に対するゲシュタルト心理学からの批判に始まります。要素主義心理学の恒常仮説とは、一定の局所的刺戟に対して常に一定の感覚が対応するというものですが、この恒常仮説への批判は、ヴェルトハイマーの「運動視に関する実験的研究」(1912年)によって始まりました。これは、光の刺激が連続的に与えられると、設定の仕方によって、点滅運動が一つのまとまった運動として知覚されるというものです。もし要素主義心理学の考え方が正しければ、点滅する光は点滅するものとして知覚されなければならないはずです。ゲシュタルト心理学における知覚の考え方は、その結果、「意識作用―意識内容―客体自体」という「三項図式」で捉えられるような意味での認識論的有効性を脅かすことになりました。

 認識論は一般に、要素的意識内容が主観の働きによって統覚され(まとめられ)、意識与件(意識データ)を形成するという統覚心理学的な発想に立脚してきました。すなわち、ゲシュタルト心理学によってこの3項図式が成立しなくなり、認識論の土台が切り崩されたわけです。

 では科学的認識に土台を提供できる知覚経験の安定性(客観性)をどう考えたらいいのでしょうか。生態心理学の領野を切り開いたジェームズ・ギブソンは、知覚的客観性の問題を不変項の実在によって解決できるとします。木の枝にとまっている鳥を私たちが鳥と認識するのは、鳥が独特の動き方をするからです。動き変化する鳥の形象の中に変わらないものを私たちは捉えることで、鳥の認知が可能になります。この変化の中で変わらないものを、不変項とギブソンは名づけ、それは環境世界に外在しているとしました。不変項とは、ケーラーが脳内に実在化したゲシュタルトを、外界に実在化させたものと言うこともできます。つまり、知覚の能動性は構成にあるのでなく、不変項を探索するところにある。知覚のレベルで客観性を考えるとき、この不変項の考え方は有力な見方を提示しています。ギブソンは私たちが変化の中に不変項を抽出することで、知覚がある安定性に達すると考えました。

 この不変項の考え方を取るなら、知覚の客観性は確保されると言えます。しかし、知覚が生態学的世界に限定され、そこにある不変項を抽出するだけで創造的側面を欠くなら、物理学的世界(物理学や数学の記述する世界)としての科学的世界はいかにして成立するのか。知覚の客観性は担保されても、知覚の客観性をベースに組み立てられる科学的世界という道は、成立しないことになります。

 生態学的実在レベルを知覚が越えてゆくことをどう捉えるか。その点では、メルロ=ポンティゲシュタルトをどう捉えているかを考察することが助けとなると思います。次回で、このメルロ=ポンティの知覚の客観性の考え方を捉えたいと思います。

 

ひたちなか市民大学:ネットワーク技術

 

 昨晩は、ひたちなか市民大学の開設講座「ネットワーク技術 中級・上級」の初日でした。テーマは「メールの仕組み(1)【電子メール】メールはどうやって届くのか」です。50名募集に89名が応募し、茨城工業高等専門学校側が大教室を提供してくれて、全員受け入れてもらえました。女性の受講者も多かったです。私より年配の女性が、最前列に座っていました。担当者は小飼敬先生。小飼さんは、高専助教で、ソフトウェア工学が専門です。自分のやっていることが好きだということが、説明や質問への応答によく出ていました。とても丁寧に応答してくれていました。

 初回の話では、電子メールの仕組みをメール送信とメール受信に分けて、わかりやすく解説してくれました。初めに、電子メールの画面が表示され、Cc(カーボンコピー)やBccブラインドカーボンコピー)欄の扱い方に質問が出ました。Bccで一斉配信したいとき宛先をどうするか? 自分のメル・アドを入れればいいそうです。Bccで受け取った人の画面はどうなっているのか? Bccで受け取った人の画面からもBcc欄は消えています。私も全員返信で返すと、Bccの人に届くかどうか疑問でしたが、それは届かないとのことでした。受信者のメールからは、Bcc欄のアドレスは消えています。Bccの人の場合も同様。自分のメル・アドが表示されていないことで、Bccであると了解するということです。届くのにメル・アドが消去されるというのは、どういう仕組みなのかなと思います。

 電子メールのやり取りで、全世界共通の取り決め(プロトコル)がTCP/IPです。このTCP/IPは、役割ごとにプロトコルが層に分かれています。今回の話にかかわるのは、アプリケーション層で、メールの送信にはSMTP(Simple Mail Transfer Protocol)というプロトコルが使われています。このプロトコルに従って、メールはメールサーバ間を転送されて、メールボックスに届きます。

 このSMTPでのやり取りの流れは、5つのコマンドを使います。私は、1985年頃にパソコンを使い始めましたが、その当時はMS-DOSでコマンドを書いていました。なんか思い出してしまいました。SMTPの部分は、TELNETをOnにすると見えるようです。小飼さんが実際に、コマンドを使ったメール送信のデモンストレーションをしてくれました。メールデータはヘッダと本文に分かれますが、ヘッダ部分が長いです。ただし、内容自体は簡単で、要は面倒くさい。

 パソコンのOSが現在使っているような簡単に起動できる形になる以前、パソコンは普及しないだろうと言われていました。それが今や、スマホを小学生も操れる時代になっています。その分、問題も出て来ています。原理を知らないままに、簡単にネットを使えることで、思わぬ犯罪に巻き込まれてしまいます。SMTPは簡単なので、悪意のメールを送り続けることもできますが、ただそれはReceivedの部分を覗くと、発信元コンピュータを特定できます。知っていれば対策を練れる訳です。

 メール受信に関してはPOPIMAPというプロトコルを使います。POPによる受信では、メールクライアント(メーラ)がメールを取得すると、メールサーバのメールボックスからメールは削除されます。IMAPによるメール受信では、サーバのメールボックスに保管されているメールが、メーラに同期されるので、メールはサーバのメールボックスに保管されます。

 受信したメールデータに注目してみると、いろいろな制約を解決するのにMIME(Multipurpose Internet Mail Extension)という規格を使っています。その制約とは、電子メールでは英数字といくつかの記号(ASCII文字)のみを扱うということです。日本語とか写真、バイナリデータ(パソコンが理解できる形のデータ。人間には文字として読めないデータ)を送るときに、ASCII文字との相互変換に使われるのが、MIMEです。これも写真を送るデモを見せてくれて、そのメールのソースをのぞかせてくれました。写真のMIMEによる変換部分には、厖大な訳の分からない文字がダ~と出てきました。

 メールの本文を私たちは読んでいますが、メールには見えないヘッダ部分があって、このヘッダに転送情報やMIMEなど普段表示されない情報がいっぱい書かれているということです。初回は、何とかクリアかな。次回は、「【フィルタリング】メールが届かないのはなぜ?」です。最終回まで、何とかついて行きたいなあ。

外の世界と内なるテーマと

 今日は台風3号が九州に上陸し、速いスピードで東進し、23時現在は関東の南海上を東に進んでいるようです。

 職場では1日に利用者さんの有志でじゃが芋ほりをしました。梅雨の晴れ間、少し暑かったのですが、今日のような台風がらみの天気でなくてよかったです。そして2日は東京都議選挙と藤井聡太4段の対局がありました。都議選は自民党の歴史的大敗。藤井4段は29連勝でストップしました。

 私自身は、ケアの倫理をめぐる論文を見直しています。ケアリングの危険性をどこから照射するか。ケアは同心円的に遂行されます。そこに判断が恣意的になる要因があるし、その自己投入がバーンナウトにつながる自己犠牲的関わり方を引き起こすとも言えます。俯瞰する目の欠如、等身大のみで判断・行為が遂行されること、およびそれが超越へのまなざしの欠如をも引き起こすとも言えます。この超越は永遠vs.不死という視点からも考えられます。

 ここ数日、外の世界はめまぐるしく動いていますが、その一方で私自身が問い続けているテーマがあり、それは繰り返しらせん状に離れては戻ってくる、と感じています。ケアリングの持つ陥穽に関しては、以前から考えていたことがまとまる軸が見えてきている感じですが、上からの目と水平の目と下からの目をどう表現していくか。ケア責任との向き合い方へのつながりの展開し方が、まだ弱い。自分の中で整理しきれていないです。

黄金のアデーレ 名画の帰還

 これは、ナチスに奪われたグスタフ・クリムトの名画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」を取り戻すために、オーストリア政府を相手に返還訴訟を起こした女性の実話をもとに作られた映画(2015年)です。アデーレの姪で、現在はアメリカに住む82歳のマリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)が、亡くなった姉の意思を継いで新米弁護士のランディ・シェーンベルクライアン・レイノルズ)と組んで、法廷闘争を繰り広げ、2006年に絵を取り戻すまでの話です。そこに、マリアが両親を残してウィーンから、夫と命からがらアメリカへ亡命した20代の記憶が織り込まれ、ユダヤ人の辿った過酷な時代の痛みが蘇ってくる構成になっていました。

 ヘレン・ミレンが素晴らしかったです。こういう風に年をとりたいなあと思う女性を演じていました。ランディを巻き込んでゆくマリアの強引でかつチャーミングな性格と、最後まで闘うならランディとともに、という揺るがない信念。もちろん彼女は、途中でもう止めるとランディに宣言したりしますが、それでも最後はランディのためにと、ウィーンに行き、オーストリア政府と渡り合います。ナイス・バディムービーです。

 最初は名画の金銭的価値の高さに惹かれて法廷闘争に加わったランディでしたが、ウィーンに同行することで、マリアが過去の幸せな時代の家族の記憶とそれがナチスによって無残に打ち砕かれて行ったことに、そして両親をウィーンに置き去りにしてしまったことに、深く傷ついたままであることに気づかされます。

 そして、ランディの祖父にあたるアルノルト・シェーンベルクは、オーストリア生まれの作曲家で12音技法を創始したことで知られています。シェーンベルクは1934年にアメリカに帰化していますが、ランディの曾祖父母は強制収容所で亡くなっています。強制収容所記念碑に曾祖父母の名前を見付け、その名前を指でなぞっていたランディは、トイレの中で一人で壁を叩きながら、うなるように涙を流していました。ランディの中で何かが変わり、彼は金銭的価値からでなく、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」を取り戻すことで家族の思い出を取り戻したいというマリアのために動き始めます。

 マリア・アルトマンは最期までお店を続け、2011年に94歳で亡くなりました。絵を売却したお金は自分のためには大して使わなかったようです。

 実話の持つ力とヘレン・ミレンの魅力が光った映画でした。どういう関連か『フリーダム・ライターズ』を思い出しました。あの映画でも女性教師エリン・グルーウェル(ヒラリー・スワンク)が素敵でしたが、信念を持ち若い世代を育てる女性にある種の共通性を感じたのかもしれません。二人ともおしゃれで暖かく、そして男前です。

h-miya@concerto.plala.or.jp