宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

リベラル・アイロニストとケア 1.問題はなにか

 リチャード・ローティが『偶然性・アイロニー・連帯』で描いた連帯は、ケアの根拠にできるのでしょうか。連帯の思想は、政治的なものです。これに対して、ケアは私的な関係性から始まるものです。これに、連帯の思想を適応させることができるでしょうか。

 ローティのリベラル・アイロニストは、思想としてはアイロニストの立場に立ち、社会活動としてはリベラルの立場に立ちます。ローティは社会組織の目指すものと、それぞれの存在の持つ、異なった終極的語彙が緊張関係にあることを認めています。彼は社会的組織は平等を目指すと言います。それに対し各自の持つ終極的語彙「キリスト」「神道」「進歩的」「従順な」「革命」「優しさ」「豪胆さ」などの用語は、ローカルで柔軟さに欠けていると言います。

 そして彼は、私たちの苦痛を感じる能力を最も重要なものとし、それに対する語彙の違いはほとんど重要でないと言います。このリベラルでありながら、形而上学(他者の痛みに応えようとすることに論拠を求める)に陥ることなくアイロニストでもあり続けるのは、生における総合としてのみ実現すると語ります。つまり理論の上では、リベラルとアイロニストは総合されえないというのです。

 リベラル・アイロニストにとってケアはどう捉えられるのか。連帯とケアの問題に先立って、まずアイロニスト、リベラルを捉え直しすことから始め、連帯とケアを考えてみたいと思います。

                    

              今日の青空

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