宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「存在する」エネルギーのコントロール

 久しぶりに上野公園を歩きました。蒸し暑いにもかかわらず、人の多かったこと。それも子どものなんと多かったことか。夏休み企画が目白押しのせいもありますが、少子化社会ということを忘れます。子どもはエネルギーを感じさせますが、これはエネルギ―がコントロールされていない状態、そのままに近い状態でもあります。

 人間の状態は、「いる」ことから「する」ことへと移り、やがてまた「いる」ことに帰っていく、という人がいます。その通りだなと思うのですが、それをエネルギーのコントロールということから考えるとどうなるのかと思っています。

 年をとっていくと、エネルギー量も落ちますが、その前にエネルギーを放散させないやり方を身に付けて落ち着くことを覚えます。今働いてる場所は高齢者を中心とした施設で、スタッフは若い人が多いですが、子どものいる場所とはエネルギーの溢れ方が違っています。

 子どもが育って行くというのは、その存在自体が持っているエネルギーをコントロールする力を身に付けていくことでもあります。何事かを成し遂げること(すること)へとエネルギーを集中させていくやり方を身に付けていくことが、大人になっていくということでもあります。完全に身に付けることは難しく、残りの部分は理性的に(周りの目を気にしてとか、仕事上の関係に配慮してとか)コントロールしているわけです。

 これが認知症状が出てくると、理性的な部分から崩れていきます。エネルギーが枯れて来ていて、コントロールする必要のない人もいます。しかし中には、まだかなりエネルギーが残っていて、そのコントロールが上手くできない人も出てきます。子どもの状態へ帰っていくとも言えます。子どもと違って、騒がないよう頼んだり、叱ったりが通用しない。まあ、しばらくはそのまま様子を見るしかないのですが、他の人たちが不穏になります。これは「社会的には」困った事態、どう対応していったらいいのか、頭を悩ますことになります。

受精卵診断

 今日は盆の入りです。夕方に迎え火を焚き、16日の夕方に送り火を焚きます。そういえば、まだ父方の祖母が生きていたころ、そういうことやっていました。今は、お墓参りくらいでしょうか。死んだ人が帰ってくる日に、生きていること、健常者であることはどういう意味を持つのだろうと考えています。シュタイナー教育創始者ルドルフ・シュタイナーは、障がい者のほうが霊的には上位にある、というようなことを言っていたと思います。

 生命倫理の授業で、中絶や出生前診断着床前診断受精卵診断)の問題を考えました。柳澤桂子さんが2005年に朝日新聞に連載していた「宇宙の底で」の中から、二つの記事を選んで、学生さんに考えてもらいました。そのうちの一つが「弱いものを守る社会を」(2005年2月8日)です。

 これは受精卵診断の話を扱っています。妊娠中絶でも問題になる、胚はいつから人間なのか、という問いに対し、柳澤さんは卵と精子の核が融合したときから人間だと思うと書いています。ここで取り上げられている受精卵診断は、重いデェシェンヌ型筋ジストロフィーの子どもを出産した夫婦が、第2子の妊娠時に診断を希望し、結果、中絶したというものです。柳澤さんは受精卵診断自体に問題を感じています。受精卵診断をするのは、異常な胚を排斥しようという気持ちがあるからではないか、異常な胚を捨てることは殺人には当たらないのか、と問題を提起しています。

 遺伝子に突然変異はつきもので、人類という集団の中にはかならずある頻度で、障害や病気を持った子どもが生まれてくる。その遺伝子をだれが受け取るのかはわからない。たまたま受け取らなかった健常者は、その幸運に感謝して、病気の遺伝子を受け取った人にできるだけのことをするのが義務であろう、障害を持つものを排除する社会は、人々が自己中心的で住みにくい社会であろう、と結んでいます。

 柳澤さんの主張には納得しつつも、やはり親は健常者を望んで、特に自分たちに重い病気の遺伝子が受け継がれていると分かった場合、受精卵診断を受けるだろうなあ、と思っていました。しかし、理想論ではあっても、やはり受精卵診断による異常児の排除は、踏み込んではいけない領域への越境なのかなと思うようになりました。障害は生まれてからも生じます。丸ごと命を受け入れていく社会が、安心感を与えてくれる社会だと思います。

 今現在生きている人間の基準で、命の在り方に優劣をつけてはいけない。それは多くの人が感じることだと思います。生まれることのできない命は、着床しても自然に流産するとも言われます。生れ出てきた命には、それが短命であっても、受け入れた側ができるかぎりの対応をしなければならないのでしょう。それを感受しながらも、重篤な病気を持った胚の排除もやむを得ないと考えてしまうのは、それだけ社会が厳しい状況にあるということなのでしょうか。

台風13号(サンサン)

 5日日曜日は猛烈に暑かったですが、6日から台風の影響で気温が下がっています。関西は猛暑日を記録し続けているようです。今晩から明日の午前中が大荒れ予想。かなりののろのろ台風です。

 台風は気圧の中心の位置と勢力で決められます。位置は、東経100度線(バンコクから約80キロくらい西側)から180度経線(日付変更線、ミッドウェー諸島の辺り)までの北半球に中心が存在するものです。太平洋の北西部、南シナ海東シナ海フィリピン海日本海などが海域です。勢力は、低気圧域内の中心付近の最大風速(10分間の平均)17.2m/s以上のものです。

 同じ最大風速の熱帯低気圧が、北インド洋と南太平洋にあると「サイクロン」と呼ばれます。北大西洋と北東太平洋の熱帯低気圧のうち最大風速が32.7m/s以上のものは「ハリケーン」と呼ばれますが、それぞれ越境すると名前が変わります。2006年のハリケーン・イケオは、西に動いて経度180度を超えたため、台風12号になりました。こういうものを越境台風と言います。

 台風という表記は、1956年に颱風(明治末頃)を同音の漢字に書き換え制定によって定着。その由来には諸説あるようです。台風の呼び名も、日本では番号で統一していますが、国際的には2000年からアジア名が使われています。「サンサン」はそのアジア名です。日本でも、特に被害の大きかったものには上陸地点などの名前を付けて呼ぶことがあります。伊勢湾台風(昭和34年台風15号)などがそれです。番号制は、1953年の台風2号(ジュディ台風)以降で、毎年元旦を区切りに台風が発生した順に台風番号を気象庁が付けています。

 日本には毎年平均して11個前後の台風が接近し、3個くらいが上陸します。まったく上陸しない年もあります。上陸するのは7月から9月が多く、やはり8月が一番多いようです。この前の12号は今年初めての上陸だったと思います。

 『源氏物語』に「野分」(野分は暴風の意味のようですが)という章があって、台風も風情のある感もありますが、早く通り過ぎて欲しいです。もっともその後はまた、暑さが戻ってくるようですが。

平磯白亜紀層

 台風一過、また暑くなりました。ジョイフル本多へ買い物に行った帰り、阿字ヶ浦海岸から磯崎、平磯海岸を走ってみました。波は荒かったですが、平磯海岸の駐車場に車を止めて、平磯白亜紀層を浜辺に降りてじっくり見てきました。阿字ヶ浦海岸とまるで異なった海辺の景観が展開しています。

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       7月29日 阿字ヶ浦クラブからの浜辺の景観

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 「那珂層群」といわれる中生代白亜紀の地層です。平磯海岸は今から8000万年くらい前の白亜紀(cretaceous period)には、深い海の底でした。白亜紀というのは、中生代を三つに分けた中の最後の時代で、約1億4400万年前に始まり、6500万年前に終わる期間(約7900万年)です。人類の誕生がおよそ700万年前、現在の西暦2018年という歴史的時間もすごく長く感じるのに、気が遠くなりそうな時間です。

 白亜という名前は、西ヨーロッパでこの時代の地層のかなりの部分がチョーク(ラテン語でcreta 白ないし灰白色の石灰質岩石細粒)からできていることからきています。日本語ではチョークを白亜とも言うので、白亜紀と言われるわけです。

 白亜紀に堆積したタービダイトという砂と岩と泥が交互にしましまになった地層が、隆起によって持ちあげられ、波の力で柔らかい部分が削り取られて宮崎県の「鬼の洗濯板」のようになったのが、この「那珂層群」と言われる地層です。この地域からはアンモナイトが発見され、巻貝のような塔形の種類が多く、異常巻きアンモナイトの群生地として知られています。2002年には新種の翼竜の化石が発見されて、2003年に「ヒタチナカリュウ」と命名されました。これは知りませんでした。

 平磯海岸は大切な自然の記念物(茨城県指定天然記念物です)なんですね。認識を新たにしました。

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言語論的転回4)ノミナリズムの破綻

 昨日の午後は時折雨が激しくなり、風も強かったですが、日付が変わって風も弱まり、雨は止みました。ただゴ―という海鳴りの音が聞こえてきます。

 さて、言語論的転回はノミナリズムによって推し進められました。最終的に感覚自体、認識においては言語化されています。何かを感覚しているということと、それを事実として認知しているということは異なっています。例えば音を聞いているという段階から、私はそれを「ゴーという海鳴りの音」と判断しています。虫の鳴き声を、外国人は雑音として聞いているという話も思い出しました。同じ色を見ても、それを言語化するとき、文化や時代によって異なります。

 そしてそれら、何かを正しいかどうか判断するときも結局は、言語化された事実認定を通しています。これはババロアなのかムースなのか、という話になったことがあります。ゼラチンを使っているのがババロアで、使わないのがムースじゃない、と一人が言いました。見た感じババロアかな、と別の一人が言いました。結局味見してみようということになりましたが、うーんどっちかなで、終わりました。感覚するものをどう判断するか、各人の知識や経験が関わっています。それらはすべて言語の中でなされていると言えるのでしょうか。観察や実験はどんな役割を持っているのでしょうか。

 光を感じているという状態は人によってさまざまな判断をもたらします。「まぶしい」とか「今日は晴れてる」とか、あるいは夜道に迷っていたら「人家がある」とか。それがいわゆる観察における理論負荷性と言われるものです。判断は一つだけではないということです。ただし、だからと言って、観察や実験が意味をなさないことを意味しません。私たちは光を感じるという状態を勝手に作り出すわけではないので。

 感覚を通して私たちがある信念(言語化される)を持ち、それが判断の原因になっていることは確かです。ただしどういう判断をするかは、コンテクストや判断する人のこれまでの経験などに依存しています。結局、個々の場面で何が正しい、妥当かは一つひとつ対応するしかないわけです。どういう判断が正しいかを、一挙に判定できる基準はない、そういう言葉の定義もない、ということです。どういう風に世界や人間事象を観るのが正しいのか、それを一挙に判定する基準も定義もない。ただ、それは判定する道がないということではありません。

 認識論的転回も言語論的転回も、正しい判断をめぐって観念を調べたり、言語を考察したりして、一挙に答えを出す基準や定義を考えましたが、辿り着いたところは、一つひとつ吟味するしかないということです。そしてその吟味の終わるところは、ヴィトゲンシュタイン言語ゲームの正当化の終焉に「これが端的に私たちがやっていること」という生活の形態を置いたことに通じます。彼は「獅子に話しができるとしても、われわれには獅子を理解することはできないであろう」(『哲学探究』)と述べました。言葉は言葉としてだけでは理解できません。生活・生存の形態から理解するしかない、ということです。

全人的痛みへのケアとホリスティック看護

 昨日、今日と大分凌ぎ易い日が続いています。台風の影響のようですが、土日はお天気荒れそうです。23日に埼玉県熊谷市で、5年ぶりに国内最高記録を更新して、午後2時16分、41.1度を記録しました。2年後の東京オリンピックでの暑さ対策が急がれます。この暑さ、災害レベルですから、テロ対策も大変ですが、待ったなしです。でも、うんざりしますね。また週明けから暑くなりそうで、いつまで暑いのでしょう。

 さて、ホスピス・緩和ケアの考え方は、痛みを単に身体的なものとは捉えません。痛みには精神的なもの(自分の状況への絶望、治療限界への怒り、死への恐怖感)、社会的なもの(役割り喪失感、家族に迷惑をかけている思い、経済的不安、社会からの孤立感や疎外感)、スピリチュアルなもの(なぜ自分なのか、何の罰なのか、超越的なものへの疑問や怒り、人生の意味への疑問)のようなものが考えられます。これらに対処するのが、全人的痛みへのケアなのです。そしてそこで重要なことは、ケアする人が、ケアされる人と最期まで共にいるということを、伝え続けることだと言われます。

 近代の自立と自律を掲げた個人は、死に対しても自己決定権を主張し、積極的安楽死としての尊厳ある死を主張しました。しかしホスピス・緩和ケアの思想は、死に逝く人を最期まで支え、その看取りの経験の中で、死への過程を観て取り、死に逝く人から教えてもらうというものです。これは、関係性の中に生きる人間の最期の共同作業でもあります。

 看護とはそもそも病人を全人的に観て取ることから始まります。現代においてわざわざ「ホリスティック」看護がいわれる背景には、特定病因論の主流化とそれへの反省があります。ホリスティック看護とは、全人的看護のことで、心身両面からアプローチする看護であり、自然と共存しつつ生きようとする姿勢が基本にあります。

 特定病因論の考え方とは、病気は疾患を持つことであって、疾患は特定の原因に寄って引き起こされる、というものです。近代西洋医学の成功は、この考え方に従って様々な治療が施され、伝染病などに威力を発揮したことにあります。バイオメディスンの普遍性を志向する手法はまさにこの路線の徹底です。

 しかし、寿命の延びにより、慢性疾患患者が増え、生活習慣病にはこのような手法だけでは対応できなくなりました。病気の根治ではなく、病気と付き合ってどう生きるか、が課題となったのです。そこで重要なことは、病気を持ちながらも生活する人として、全人的に患者を観ていく視点なのです。

 ここで人間は心身の総合体として、身体的・精神的・社会的・霊的(スピリチュアル)存在として捉えられます。個人自体が様々な層の関係性のバランスの中で成り立っている。心身二元論の思想では、人間の本質は精神的なものであり、身体は「精神としての私」の所有物になります。近代の個人主義における自由は、この精神的私が主体になっていると言っていいと思います。

 ホスピス・緩和ケアとは、本来の看護の在り様の徹底であり、関係性の中に居る人間として最期まで生き切ることを、全人的にケアすることを目指しています。近現代の自立(自律)した個人という人間観は、安楽死としての死の自己決定権を目指しました。しかし、関係性の中に居る個人という人間観は、全人的ケアの中で生き切ること、看取られることで死への過程を教える残すという在り方を目指しました。

 死という人間の生の極限をどう考えるか、それをケアの視点で考えるとき、人間観の差異としても浮かび上がってきます。

尊厳ある死とホスピスの思想

 授業で安楽死問題を扱いましたが、安楽死問題を考えるとき、尊厳ある死とはどういうことかが問題になります。安楽死運動では、死の自己決定権が重視され、安楽死の法制化が目指されます。しかし、ホスピス・緩和ケア運動では、「死にたい」と思っていた人が最期まで「生きたい」と思えるようなケア体制の確立が目指されます。

  近代ホスピス創始者と言われるのは、シシリー・ソンダース(ロンドン、1918年-2005年)です。彼女は看護師、ソーシャルワーカーとして働いていましたが、30代半ばで医師を志します。1950年代まで、モルヒネなどの鎮痛剤は中毒になり易く危険ということで、癌などの末期患者にも使うことを控える傾向にありました。医師としてソンダースは、モルヒネなどの鎮痛薬の定期的経口投与による、末期患者の身体的痛みのコントロール方法を確立しました。

 1967年、彼女はロンドンの聖クリストファー・ホスピスを開設しました。これが近代ホスピス運動の始まりと言われます。「ホスピス」という言葉自体は、中世ヨーロッパにおいて、主に負傷した旅行者にケアを提供していた宗教的施設のことを指していました。その後、19世紀末になり、フランス、アイルランド、イギリスで、死にゆく人のケアを行う施設を指して、この言葉は使われていたようです。

 聖クリストファー・ホスピスは、ホスピスケアの実践の場であると同時に、研究・教育機関であり、広報機関でもありました。1980年代以降、イギリスとアメリカを中心に、ホスピス・緩和ケアの思想と実践が急速に普及していくきっかけを作ったと言われます。また、聖クリストファー・ホスピスは寄付によって運営されている慈善団体で、入院費用は原則無料のようです。

 日本には1970年代に入って来ています。日本で最初のホスピス・ケアを提供する病床は、大阪の淀川キリスト教病院に設けられました。1973年に実質的ホスピス・ケアが始められましたが、これは柏木哲夫医師(1938年-)の功績によると言われます。独立の病棟としてのホスピスは、浜松市聖霊三方原病院に、1981年に開設されています。1990年には両病院が、日本で初めて緩和ケア病棟として承認されました。緩和ケア病棟という形でホスピス医療保険の中に組み込まれたことで、ホスピス・緩和ケアの社会的認知が進みました。ただ、日本ではこのようにホスピスが病院の一部として制度化されたことで「病院中心、医師中心」という、アメリカやイギリスのホスピスとは異なった特徴を与えたと言われます。

 イギリスの施設ホスピスはナーシング・ホームに分類されます。アメリカでの在宅ケアを中心とするホスピスでも、専門の看護師がケアチームの中心になります。日本では病院医療の延長として捉えられていて、「末期がん患者のための入院施設」という側面がクローズアップされ、どうしても緩和ケア病棟建設運動のような、ハードを重視した形をとらざるを得なかったと言われます。

 ホスピス・緩和ケアにおいては、最初にも書いたように、尊厳ある死を、安楽死運動の目標である死の自己決定権重視という形で考えることに反対します。ホスピスの思想では、尊厳ある死を生の完成と捉え、生き切ることでより人間らしい死に方を実現することを目指していると言えます。

 ここで重視されてくるのが生活の質(QOL)なのです。そのためにはまず身体の痛みがないことは、とても重要なことです。さらに一人で身の回りのことができること、周囲の人との人間関係が良好であること、経済的な不安がないことなども大切です。ここでは全人的痛みという概念が重要になります。この全人的痛みへの全人的ケアが問題になってくるわけで、これはホリスティック看護の実践でもあります。またこの問題は、自立・自律重視の人間観に対し、関係性重視の人間観の対比の中で考えることもできます。これに関しては、また別に考えてみたいと思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp