宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

言語論的転回4)ノミナリズムの破綻

 昨日の午後は時折雨が激しくなり、風も強かったですが、日付が変わって風も弱まり、雨は止みました。ただゴ―という海鳴りの音が聞こえてきます。

 さて、言語論的転回はノミナリズムによって推し進められました。最終的に感覚自体、認識においては言語化されています。何かを感覚しているということと、それを事実として認知しているということは異なっています。例えば音を聞いているという段階から、私はそれを「ゴーという海鳴りの音」と判断しています。虫の鳴き声を、外国人は雑音として聞いているという話も思い出しました。同じ色を見ても、それを言語化するとき、文化や時代によって異なります。

 そしてそれら、何かを正しいかどうか判断するときも結局は、言語化された事実認定を通しています。これはババロアなのかムースなのか、という話になったことがあります。ゼラチンを使っているのがババロアで、使わないのがムースじゃない、と一人が言いました。見た感じババロアかな、と別の一人が言いました。結局味見してみようということになりましたが、うーんどっちかなで、終わりました。感覚するものをどう判断するか、各人の知識や経験が関わっています。それらはすべて言語の中でなされていると言えるのでしょうか。観察や実験はどんな役割を持っているのでしょうか。

 光を感じているという状態は人によってさまざまな判断をもたらします。「まぶしい」とか「今日は晴れてる」とか、あるいは夜道に迷っていたら「人家がある」とか。それがいわゆる観察における理論負荷性と言われるものです。判断は一つだけではないということです。ただし、だからと言って、観察や実験が意味をなさないことを意味しません。私たちは光を感じるという状態を勝手に作り出すわけではないので。

 感覚を通して私たちがある信念(言語化される)を持ち、それが判断の原因になっていることは確かです。ただしどういう判断をするかは、コンテクストや判断する人のこれまでの経験などに依存しています。結局、個々の場面で何が正しい、妥当かは一つひとつ対応するしかないわけです。どういう判断が正しいかを、一挙に判定できる基準はない、そういう言葉の定義もない、ということです。どういう風に世界や人間事象を観るのが正しいのか、それを一挙に判定する基準も定義もない。ただ、それは判定する道がないということではありません。

 認識論的転回も言語論的転回も、正しい判断をめぐって観念を調べたり、言語を考察したりして、一挙に答えを出す基準や定義を考えましたが、辿り着いたところは、一つひとつ吟味するしかないということです。そしてその吟味の終わるところは、ヴィトゲンシュタイン言語ゲームの正当化の終焉に「これが端的に私たちがやっていること」という生活の形態を置いたことに通じます。彼は「獅子に話しができるとしても、われわれには獅子を理解することはできないであろう」(『哲学探究』)と述べました。言葉は言葉としてだけでは理解できません。生活・生存の形態から理解するしかない、ということです。

h-miya@concerto.plala.or.jp