宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ひな飾り

 今日は、東海村のテラパークで開催されている「つるし雛」展に行ってきました。4年くらい前に、伊豆の稲取温泉に「つるし飾り」を見に行ったことがあります。ひたちなか周辺では、つるし雛という言い方をしていますが、稲取で「お雛様をつるしているわけじゃないでしょ」と言われました。言われてみれば、その通りですが、「つるし雛」という言い方にはどういう意味合いがあるのでしょうか。

 稲取のつるし飾り展では、何組ものひな壇の周りに、それぞれにつるし飾りが何十本という数でつるされていて、見事でした。日本3大つるし飾りの一つです。静岡県では「雛のつるし飾り」と言われます。福岡県では「さげもん」、山形県では「傘福」と呼ばれます。どれも江戸時代後期に始まったようです。稲取の「つるし飾り」は、お雛様を買えない庶民の家庭で、女の子の健やかな成長を願って始まったと言われます。端切れで小さなお人形さんを作って、つるして飾ったようです。お雛様の代わりの人形の意味で、つるし雛なのでしょうか。

 もちろんお人形だけでなく、羽子板とか桃とか草履、枕などもつるされました。それぞれに意味があります。羽子板は、厄を飛ばす。草履は、足が丈夫になるように。桃は女性の象徴で、女の子の厄払い、多産と薬用効果、延命長寿を願ったそうです。枕は寝る子は育つから来ています。巾着はお金がたまり、お金に困らないように。雀は五穀豊穣を表し、食に恵まれるように、大根は毒消し等々。この「もの」に託された願いのなんと素朴で豊かなことか。

 「うれしいひなまつり」の歌はよく知らていますが、ちょっと物悲しいメロディーです。ホ短調で、歌詞も優雅です。私は3番の最初の2連が好きです。「金の屏風に うつる火を かすかにゆする 春の風」。ひな祭りの宵の情景が浮かんでくるような詩です。2番の後ろ2連も何となく物悲しいです。「およめにいらした ねえさまに よくにた 官女の 白い顔」。

 つるし飾りにつるされる「もの」のある種の逞しさや健やかさと、少し趣が異なっています。どちらも女の子の健やかな成長や幸せを願ってのものですが、ひな壇に雛を飾るというのは、贅沢なものだったんだと思います。そしてその贅沢さは、どこか寂しさを漂わせ、ある種の怖さ(夜のひな壇のイメージ)を感じさせます。人形は美しければ美しいほど、ちょっと不気味です。これって何なのでしょう。

社会福祉は「われわれ」の範囲の拡張

 先週の9日(木)は天気予報通り、雪でした。車のタイヤを雪対応にしていなかったので、ゆっくりゆっくり、大通りを選んで運転しました。午後には雨に変わって、帰る頃には、道路の雪はほとんど溶けていました。やれやれ😥。

 今日も晴れていますが、やはり風は冷たいです。昨日、4歳くらいの女の子がリュックを背負っているのを見ました。その中からぬいぐるみの犬が顔を出していました。思わずほっこりする光景です。高齢者とほぼ毎日関わっていますが、(学齢期前の)子どもと高齢者は親近性が高いと言われます。繰り返しが好きとか、可愛いものが好きとか。高齢者や子ども、そして障がいを持った人など、社会的弱者を支援する社会福祉の底にあるのは何なのでしょうか。

 意味ある目的を達成することを重視するのが現実の社会です。行動は成果を問われる、と言っていいと思います。子どもや高齢者はそういう成果主義的目的達成を問われることはありません。成果を問われるというのは、評価されることですが、その基準はお金、名誉、権力と言っていいでしょう。

 これに対し、子どもや高齢者は自分の欲求に従って行動することが、奨励されます。子どもはその行動を通して、自発性を促進し、社会的約束事を学習します。では高齢者は?「元気で長生きすること」でしょうか。子どもにとっても高齢者にとっても、それぞれの行動の意味は、主観的には快の達成ということでしょう。

 どちらも「最大多数の最大幸福」の達成とは言えるかもしれません。これは功利主義の尺度です。これに対して、動機主義・心情主義の立場がよく対比されます。行動は結果で評価されるのでなく、その動機が重要だという立場です。誰かを助けたいと思って取った行動(溺れかけている人を助けようとして一緒に溺れてしまった)は、結果が悪くても評価されます。功利主義帰結主義の立場に立つと、これは厳密にはマイナス評価です。なぜなら、一人の人が溺れるより悪い結果を招きましたから。

 私たちは通常、両方をバランスをとって、使っていると思います。溺れかかっている人を助けようとして一緒に溺れてしまった場合、それを非難したりはしません。しかし、自分が助けられないと分かって、助けなかった人を非難したりもしません。動機主義の代表者と捉えられているイマニュエル・カントも、不完全義務と完全義務という言い方をしています。人が溺れそうになっているとき、通報の義務は不完全義務としてはあると思います。

 完全義務というのは、やらなければ非難される行為、やっても褒められるわけではない行為のことです。例えば、「自分が得をするために嘘をついてはいけない」は守られなければ非難されるし、場合によっては罰せられますが、そういう嘘をつかないからと言って、褒められる訳でもありません。不完全義務とは、やらなくても非難されないが、やれば褒められる行為です。慈善的行為はこれにあたります。カントはこの二つの義務を区別し、さらにそれを自分に対するものと他人に対するものに分けています。自分に対する完全義務には、例えば、自殺の禁止があります。自分に対する不完全義務には、例えば、自分の能力を育てることがあります。

 では、社会福祉の考え方は、何に基づくのでしょうか。人間一人ひとりの人権と幸福(福祉)の増大には、社会が責任を持たなければならない。これは社会全体の幸福の増大のためでしょうか。それでは不十分でしょう。なぜなら、「最大多数の最大幸福」では少数者の切り捨てを防げませんから。ストレートに「人間は一人ひとりが目的そのものである」という立場で、人間の尊厳を語るのは、動機主義の立場です。

 さらに言えば、リチャード・ローティが、民主主義とは残酷さを減らすことだと言っているような、他者の痛みへの想像力や感受性に基づく「われわれ」の範囲の拡張と捉えたいと思います。ヨーロッパの「福祉はアートなり」という定義にもつながると思います。そう言えば、教育はアートである、というのはシュタイナーの教育観でした。

『サヨナラの代わりに』:人は人と関わることで変わってゆく

 気になっていた映画『サヨナラの代わりに』(2014年)をビデオで見ました。主演はヒラリー・スワンク。裕福な生活をしていたケイトは、35歳でALS(筋委縮性側索硬化症)を発症します。1年半後、車いす生活になったケイトは、介護者から病人扱いされることに辟易して、夫の反対を押し切って、女子大生ベックを雇います。ベックは、何をやっても上手くゆかず、歌手になるという道にも今一歩踏み出せずにいます。この二人がそれまでの生き方(セレブなケイトvs.中途半端な生活をするベック)や性格(完璧主義のケイトvs.自由奔放なベック)の違いを乗り越えて、ぶつかりながらも信じ合い、支え合ってゆく姿が描かれていました。難病を抱えて生きることが、決してきれいごとではなく描かれていました。

 ALSは脊髄にある運動ニューロン神経細胞)が侵される病気です。運動ニューロンは身体を思い通りに動かす随意筋を支配しています。知覚神経や自律神経は侵されないので、感覚や知性は最後まで保たれています。ALSになると痛みの感覚はあっても、それに反応して自分の身体を動かせない状態になります。心臓や消化器は自律神経に支配されていますが、呼吸は自律神経と随意筋である呼吸筋の両方が関係します。最後は呼吸筋が弱くなって呼吸困難に陥って、死に至ります。

 この病気を発見したのは、フランスの神経科医J・M・シャルコー(1825-86)ですが、フロイトは1885年から86年にかけて、彼に師事して、ヒステリーに関心を持ちました。フロイトの主著の一つ『ヒステリー研究』は、1895年にブロイアーとの共著として書かれています。

 ALSは、通常発症から5年くらいで死に至りますが、英国の物理学者スティーブン・W・ホーキング博士(1943-)は、途中で進行がきわめて遅くなって、発症から50年以上生存しています。彼は一般相対性理論量子力学を結びつけた量子重力論を提示しています。サイエンスライターとしての才能も持っている人で、その著作は各国で翻訳されています。現代宇宙論に大きな影響を与え続けている人です。アメリカでは大リーグのルー・ゲーリック(1903-41)がこの病気で亡くなっていて、ルー・ゲ―リック病とも言われます。

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 映画に戻ると、死にゆくケイトがベックに、そのままのあなたを見つめてくれる人を見つけてと伝える部分、ベックがケイトに私を信じてくれてありがとうと伝える部分、そしてベックが歌い手として「雀が空に飛び立つ」と歌う最後の場面、感動的でした。人が変わるには、人と人が深く出あうことが必要なんだと感じさせられるドラマの一つです。

 アサーションの基本の考え方に、「他人と過去は変えられない」と言うのがあります。確かに「他人を変えること」はできないと思います。ただ人は良くも悪くも変わります。その人の命を輝かすような変わり方は、真摯に人と人が向き合うときに起こることも、事実だと思います。

 ヒラリー・スワンクの『フリーダム・ライターズ』もそういう映画でした。彼女が演じたエリン・グルーウェルは実在の教師で、その教育実践が注目された人です。ヒラリーは、底辺に生きる生徒たちの現実に向き合って、絶望的状況を少しでも希望へと歩みだせる状況へ変えようと苦闘する教師を演じていました。ヒラリー自身が苦労した人のようで、ヒューマン・ドラマを単に正論ドラマにしない力を持った女優だと思います。

介護ケアをシュタイナーの人間観から考える

 もうじき立春ですが、まだまだ風が冷たい毎日です。2、3日前に春の陽気が訪れました。ちょっと狂った季節という感じから、3月兎を思い出し、『不思議の国のアリス』にイメージが飛びました。

 ところで、芥川龍之介の短編に『河童』という作品があります。出だしは、どこか『不思議の国のアリス』を思わせます。主人公は気を失って、気づいたら河童の世界にいた。河童の世界は、人間の世界といろいろなことが逆さまです。例えば生まれてくる前に、胎児河童は「生まれてきたいか」と尋ねられます。生まれたくないと答えると、胎児は消えます。作品の中では、胎児河童は「河童的存在を悪いと信じているから」と生まれ出て来ることを拒否します。「生まれても結局死ぬ訳ですから、わざわざ生まれたくありません」なんて答えも想像できますね。

 人間は生まれたときから死に向かっているとも言われます。まあ、今のところ、死なない人間は見つかっていないので、いずれ寿命が尽きます。生まれてきた以上、私たちはみな死にゆく存在です。私たちは生まれてすぐにケアを受けて育ち、そして障がいを持ったり、高齢になるとケアを受けます。ここでは高齢者のケアの目標を考えてみたいと思います。

 まず育児や教育のケアは、「成長」を目標にしています。当然そこには、人間存在の意味や人生の意味が踏まえられています。ルドルフ・シュタイナー(1861-1925年)により創設されたシュタイナー教育は、その背景的なものに人智学を持っています。シュタイナー教育とは何かと言えば、身体と心の調和的発達によって「自我」を自由にしてゆく教育実践、と言っていいと思います。頭から入ったものは身体へ、身体から入ったものは頭へと言われるような教育実践をしています。それは自由な教育ではなく、「自由への教育」と言われます。高橋巌さんの『シュタイナー教育の方法』(角川選書)には、「シュタイナー教育とは何か」についてこう言われています。

「発達期に応じた身体と心の調和化によって社会における個人の自己実現を可能にしようとする教育思想、あるいは教育運動」(14頁)

 シュタイナー教育については、また別の時に触れることもあると思います。私自身は「自由への教育」という理念とそのユニークな教育実践に関心がありました。フォルメンとオイリュトミーは、20代の頃、講習会や勉強会で少しやってみましたが、踏み込んで向き合うところまでは行きませんでした。

 さてシュタイナーの人智学の中で老年期は、どう扱われているのか。シュタイナーは現代人は自分の魂の内的な発展の道を失ってしまった、と捉えます。かつては魂と肉体が深く結びついた状態の中で、それぞれの年代らしく発達出来た。ところが現代の私たちは、20歳くらいで、その関係が切り離されてしまう。20歳くらいですべて人生を学んだ気になってしまう。後は、肉体の衰えをただ悲観的に受け取るようになると言うのです。

 シュタイナーは自我、肉体、アストラル体、生命体(エーテル体)の4つを人間の本質部分と捉えます。そして、肉体は衰えても、他の3つは老化する一方ではなく、若返ることもできると言います。本来、人間の50歳以後は、見霊能力を発達させる時期だと言われますが、現代社会ではここが失われているし、この考え方自体も否定されていると思います。

 古代人は肉体の衰えと共に、魂は肉体の拘束から離れ始め、意識はますます明るくなっていく状態の中で老年期を迎えると言われます。ところが現代人は、10代後半には魂は肉体の拘束から離れ、肉体と共に年をとることができません。外側から老人になりつつあることを納得させられても、魂そのものは若い時と変わらない。以前なら、60代の人は60代にならなければ持てなかった成熟した魂を持っていました。

「老人特有の感性が発達してきて、死者との出会いがあったりしました。自分の魂が非常に軽やかになり、お祈りの仕方が深まり、欲がなくなるので、利己的にものを考えずに、客観的にものを考えることもできました」(高橋巌、同上書、204頁)

 現代において、心の若さということが、20代くらいの感性を持っている、と捉えられています。心あるいは魂が、身体から早くに切り離されることで、成熟することができなくなったからですが、では、その状況の中で逆に感受性をみずみずしいままに保つにはどうすればいいのか。介護ケアはここに関わっている気がします。

 私は死の瞬間に魂は身体から解放されると思っています。魂の不死をどう考えるかは哲学ではずっと問われてきました。魂の不死自体に関しては、私は不可知論ですが、ただ死の瞬間とは、魂だけになる瞬間だと考えています。身体の衰えのケアは、この魂だけになる瞬間を見届けるケアでもある、そういう風に考え始めました。

 

政治的抵抗

 抵抗と団結という言葉をよく聞きます。ここでの抵抗は、政治的抵抗と捉えて良いと思います。団結はその流れで読めばよく分かります。ローティは連帯という言葉を使います。連帯は、政治的場面でも使われますが、ドイツの生命倫理答申の報告書にもありました。

「連帯は隣人愛と同胞精神の思想,すなわち困窮する他者を救済し支援せよという訴えと密接に結びついている」(『ドイツ連邦議会審議会答申 人間の尊厳と遺伝子情報』46頁)

そして、連帯は労働運動の中で、連帯主義社会とか連帯主義的世界秩序という目標へと拡張されたと言われています。

 ローティの連帯の思想は、残酷さを減らしたいというリベラルな立場に基づきます。民主主義社会の成熟へ向けての、ローティのリベラル・アイロニストの思想は、理性的必然としてではなく、幸運なる歴史的偶然として展開されています。これについてはまた、改めて考えたいと思います。

 まず政治的抵抗とはどのようなものか。ジーン・シャープによると、非暴力闘争(抗議、非協力、そして介入)が挑戦的に、また活発に政治的目的に使われたものと言われます。独裁政権から政治機関を奪い返す目的で、政治的環境において非暴力闘争を繰り広げることを意味しています。単に非暴力闘争とか非暴力抵抗という場合は、もっと広い目的、社会・経済的目的とか心理的目的にも関連します。

 また政治的抵抗の思想は、調停・妥協・交渉を否定します。それは不可能であると。交渉は、妥協があってもよい場面では有効ですが、根源的問題が対象になる場面では、交渉は解決をもたらさないと言われます。宗教的原理とか、人間の自由、あるいは未来永劫における社会発展などが争点になるとき、これらをまともに擁護できるのは、民主化勢力側に力関係がシフトしたときだけです。この実現には闘争が必要であって、交渉は現実的ではないと言われています。もちろん非暴力闘争ですが。

 私たちの政治的状況は、独裁政権とは関係ない、そこまで酷くないように思えますが、本当のところはどうなのでしょうか。ウィンウィンの関係は好ましいですが、政治的権力が関わる場面では、市民と政治権力とのウィンウィンの関係はまずあり得ません。

 例えば、昨年末、地方自治を軽視するような最高裁決定が続きました。東京都国立市のマンション訴訟で、12月13日、上原公子元市長の上告が退けられ、3100万円の支払いが命じられました。この金額は遅延損害金(利子)が加わって、4500万円近くになります。辺野古移設問題でも、最高裁は弁論を開かず、上告審判決が12月20日に言い渡され、沖縄県の全面敗訴が確定しました。憲法第92条の地方自治の本旨最高裁はどう判断しているのでしょうか。

 地方の時代とは何なのか。私たちは自分たちの生存環境をどうやって整えていったらいいのでしょうか。出来る所から始めるしかありません。そしてそれはやはり、政治的抵抗の問題に、行き着く気がします。

認知行動療法

 認知行動療法について知り合いから聞かれました。以前に講師をしたアサーションに関するセミナー(女性プラザ男女共同参画支援室にて)で、少し触れたことがあります。セミナー出席者で、認知行動療法に関心をもっている方がいて、セミナーが終わってから、その話になりました。私の専門ではありませんが、少し考えてみたいと思います。

 認知行動療法というのは、神経症やノイローゼの人たちが感じる不安の治療技法として展開したものです。不安を生じさせる「感情の癖」を改め、解除する別の習慣へと再学習して訓練します。これらは最初行動療法で行なわれていました。それらはアルベルティとエモンズによって、アサーティブネス・トレーニングとして発展させられ、さらに万人の能力開発に展開しました。この行動療法は健康な人がより健康になるための教育的アプローチになり、それが認知の領域にまで拡がっていきました。これを最初に提言したのが、アルバート・エリスです。

 エリスは、論理療法の創始者です。論理療法とは簡単に言うと、刺激があって反応が生じるのでなく、刺激はそれを受けた人の考え方・信念を通過して反応を生み出す、ということです。例えば、誰かに嫌われたとします。嫌われるのは嬉しくはありませんが、そういうこともあると淡々と受け止めるか、ひどく落ち込んでしまうか、分かれます。これはその人の信念が影響しているからだということです。誰からも好かれなければならない、誰からも好かれたい、という信念を持つ人は、「あなたのこと嫌い」と言われれば、世界が終わったような気になるかもしれません。

 しかし、誰からも好かれたいという願望が、適うことはまずありません。自分のことを考えてみても、好きな人と苦手な人がいます。そう考えれば、お互い様です。苦手な人を無理に好きになる必要はないし、そういうものとして対応すればいいだけです。同じように、自分を好きになってくれる人もいれば、嫌いだと感じる人もいます。まあ、はっきり嫌いだ言われればショックですが。よく言うな、と思うしかないし、それで良いのではないでしょうか。他人は変えられませんから。自分に無理する必要もないし。

 というようなことが、論理療法です。単純化しすぎているかもしれませんが。エリスは、ビリーフ(信念)を合理的なラショナルビリーフと非合理的なイラショナルビリーフに分けます。ラショナルビリーフは、事実に即した、飛躍の無い、論理性の在る考え方で、自分や他人を支援する考え方です。これに対して、イラショナルビリーフは、反対の傾向を持ちます。妄想に近い考え方、事実を見ていない思いこみ、飛躍のある論理性のない考え方、自分や他人を否定するような考え方です。

 難しいのは、理想を掲げる場合です。でも、それが自分の生き方や他人の生き方、現実の社会を全面否定する場合は、イラショナルビリーフになっていると考えていいと思います。何のための理想なのかと言えば、今を少しでも良くするためであり、全面否定するためではないと思います。ただこの考え方は、非人間的な独裁体制への政治的抵抗の問題を考えるときには、当てはまらないので、注意が必要ですが。

急いではいけない

 認知症と明らかに分かる人と、一見分からない人といます。認知症と分かる人の場合、その反応のし方の、ある意味理不尽さにも、病気なんだからと了解できます。ただそうでない場合、おそらく本人には理由がある反応のし方に、こちらが傷つくことがあります。突然表情が変わって、ぷいっと席を立たれたりすると、驚きと同時にずしんと響くものがあります。

 その前の一連の流れを思い返すと、本人が納得いかないまま、分からないまま何かをさせられているという苛立ちなのかもしれないと思い当たりました。他の人に画面が見えるように、もう少し席を移動してほしいというこちら側の依頼も、なぜそれをさせられるのかが自分でははっきり分からないうちに、椅子を移動させられて、ということから来ていたのかもしれません。ゆっくり説明して、移動を納得してもらって、自分で動いてもらう、という手順が上手く行かなかった。急きたてられている感じがして、苛立ったのでしょう。

 映像が始まっていたので、こちらも急いでしまいました。でも、認知症状が出ているというのは、周りの状況を見て判断するというようなことが困難になっているわけですから、スケジュールを組むとき、目いっぱい時間を使う形にならないよう、よくよく考える必要があると感じました。

 訳の分からない反応への驚きは、こうして書きながら振り返ってみると、見えてくるものがありました。

h-miya@concerto.plala.or.jp