宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

自他一体化した身体からの他者論

 小学生が昨日はカバンを背負って歩いていました。「松が明けた」のですが、この辺りは、15日の小正月まで「松の内」でした。この頃は、どうなのかな。お正月のお飾りをいつ外すか、いつも迷います。

 さて、外の世界や他者はどのように妥当とされるのか、という問題に戻ります。デカルトでは、私は私の意識の外には出られないので、神さまが媒介しました。現象学は、すべてを意識の中から解明しようとします。フッサールは、「私」を触覚的身体から位置付けました。そしてこの「私」は超越論的主観として、感覚が受け取る諸現出を突破して現出者を志向的に構成する。他者はこの「私」に属する外部の構成を拡張していく方向でした。

 どういうことかと言えば、私と私の身体の間には直接的・根源的提示関係があります。これの直接的類比として、他我は得られます。これは身体を介して行われますが、まず私の身体が、自然の一部として確証されます。この身体は意識の自由な志向力に応じて変化する特質を持ちます。他の身体は、自分のものとは異なっていますが類似性を持つものとして推理されます。ここでは私は私の身体と他の身体との間に一つの共属性を前提として直感しています。それゆえ他の実在(石ころや家など)とは異なった実在として認知されるわけです。その後、この身体同士の共属性の直感から、物的対象が私と他我との同一物として受け取られ、客観的世界を志向的に構成すると言うのです。

  「わたしは、他我の身体によって他我を意識するのである。他我の身体は、他我自身には、絶対的ここという現われ方において与えられているのである。

 しかしながら、わたしは、わたしの第一次領域のうちにおいてそこという様態で現われるものと、他我の第一次領域のうちにおいて彼に対してここという様態で現われるものとが、同一の物体であるといったいどうしていえるのであろうか」(フッサールデカルト省察』第55節)

  他人を自分と同じ構造を持つものと直感するというとき、まず、自分の身体と自分の関係から、私の意志では動かせないが、その存在自身の意志で身体をコントロールする別の自分と同じ存在を直感する。これは分かる気がします。ただこれはやはり独我論の世界から抜けてはいない気がします。そういう批判は、フッサールが他我論を提示したときに当然起こりました。

 ところで、意識の志向的構成から考えると、狼に育てられた狼少女アマラとカマラは、自分と狼を同じ仲間と認識していたことになります。人間の中で育つ人間は、他の動物と自分を混同はしないようですが、標準的体験が狼からくる場合、自分を同種のものと認知すると言っていいのでしょう。これも一種の刷り込みなのでしょうか。カモが最初に見た動くものを親と認知して行動するのと同じように。ただ人間の場合は、かなり可塑性をもつようです。刷り込みは一度だけではない。

 閑話休題、他者を自己移入して構成し、その他者と「私」にとって同じ世界を志向的に構成するという拡大された独我論の世界はどうやって乗り越えらるでしょうか。谷徹さんは、自我が成立していない原受動的・先志向的な次元では、自他の身体ヒュレーが「原身体」として癒合しあうことが起こるのではないかと書いています(『これが現象学だ』講談社現代新書)。これは晩年にフッサールが発掘した状態であると考えるとも。

 要するに、自分の身体の意味が構成されたのちに、それを他者に移入して他者の身体の意味が構成されるのではない、ということです。自他一体化した身体ヒュレーが根源なのではないかというのです。この癒合した状態はキネステーゼ意識の発動によって「私」の身体構成を進めていきます。

 キネステーゼ意識とは、「私が動く」という感覚と対象の現出が一体になっているもののことです。動いて外の世界が変化していく中で、自分の身体が分化されて捉えられて行くと言ったらいいでしょうか。根源にあるのは癒合した身体ヒュレー。メルロ=ポンティが着目したのはこの位相だったのでしょう。この癒合性は完全に失われることはなく、成人的な自我に至っても残存する。フッサールの自己移入論は、このようにこそ理解されるべきだというのが、谷徹さんの見解です。

 間主観性とか相互主観性といわれる事態も、このような身体における癒合性をベースに考えると、独我論の拡大という難点を乗り越えられるのかもしれません。

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