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宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

立場にもとづく客観性の乗り越え方

 立場を変えることが、隠れている別のものを見ることになるというテーマは、昔から語られてきました。立場が違うと、まるで異なる風景が見えることは事実です。立場に囚われない見方は、より成熟した見方とも言えます。しかし、立場による客観性があるのも事実であり、それに対してはどう考え、どう対処していったらいいのでしょうか。

 客観性・客観的というと、トマス・ネーゲルが『どこでもないところからの眺め』で書いているように、立場からの独立と捉える方が一般的だと思います。

「ある見方や考え方は、個人の特徴や立場や、特定のタイプの生物である特徴に依存する程度が少ないほど、より客観的である」(5頁)

 ところでこれとは対照的に、立場による客観性とは、特定の立場から観察されるものに関する客観性です。「近くにある家の模型と離れた距離にある実際の家が同じ大きさに見える」というのは事実です。それは誰がそのポジションに立っても同じに見えるでしょう。と同時に、家の模型を現実の家のところへ持ってゆけば、やはり誰が見ても大きさは明らかに異なります。見るときの位置(立場)は、見え方に影響し、それは誰が見ても同じという意味で、客観的です。 

 このように、立場による客観性は事実であり、それが立場に基づく理解の不当な応用に至ることがあります。例えば、日本でもまだまだ女性科学者は少ない。そういう立場に基づく観察から導かれる、成功した女性科学者が少ないという事実(数値にも示されている)は、女性は科学が不得意だという結論に結び付きやすいです。しかし、もしかしたら先達がいないことで、女性たち自身が科学を勉強する気にならないのかもしれません。さらに立場に基づく観察の結果、他の社会や他の時代の事例を詳細に検討しないまま、女性が科学を学ぶ機会や設備、科学に興味を持つ工夫がなされない。その結果、女性の科学に関する能力が発揮されないのかもしれない、ということが理解され難くなっています。つまり、立場に基づく理解が不当に応用されています。

 しかし、現実にどこにも立たない視点、理性的普遍的視点(虚焦点)を設定するだけでは問題は解決しません。というのも、「立場に基づく視点から『どこからでもない視点』に順当に進むという期待が十分に成功することは望めない」(アマルティア・セン『正義のアイデア』254頁)からです。ニーチェはそれを「あだな好奇心」「片隅から指令するような笑止な傲慢」と言いきりました。人間は「片隅からの遠近法だけ」を持つことが許されるのだ、と。その超克を、ニーチェは超人への没落という方向性で示唆しました。

 この立場に基づく限界をどうやって克服するのか、へのセンの示唆は「相対的良さを合理的に追求する」(同上書、255頁)というものです。それが開放的不偏性の追求と言われます。自分の立ち位置から始まって、視野を広げ、隣人との相互関係の強さによって正義の境界を広げていく。ここでは合理性でなく理に適うという考え方を取ります。

「自分自身の精査に耐えられることが合理性の概念にとって中心的であるのに対し、他者の視点からの批判的精査を真剣に考慮することが、合理性を、他者との関係で理に適った行動に高める上で重要な役割を果たすことになる」(セン、同上書、294頁)

 私たちはどこまで行っても自分自身の遠近法から逃れることはできません。しかしそこから一足飛びに、超越的立場(絶対に正しい立場)を模索するのでなく、開放的不偏性の追求という道があります。人が「理に適った形で拒否できない根拠に基づいて考える」こと、「われわれ」の境界線を広げていくこと、というような。

h-miya@concerto.plala.or.jp