宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

マインドフルネスと現象学

 マインドフルネスが言われるようになりました。マインドフルは注意を配るというような意味ですが、マインドフルネスは今、ここに100%注意を集中すること、判断評価しないであるがままの現在を受け入れることと、言われます。現象学のエポケー(判断停止)も同じような作業とも言えます。ただ現象学では、(他者が存在し、共有する時間空間が広がっていて、外界は私たちの働きかけによって変化するという)自然的見方を検討するために、判断を停止します。

 私たちはさまざまに認識し、判断しています。「意識とは何かについての意識である」ということを根本に据えたのは、フッサールです。つまり意識は常に認識し、判断しているということです。そしてその認識・判断は、多様です。ニーチェは、そういう事態を生の遠近法と言いました。生存の状態の多様性が、認識・判断の多様性を生む。そして、それぞれの遠近法の「正さ」を評価・判断する唯一の規準はない、とも言いました。それが遠近法主義ということです。しかし認識・判断の質を、生を肯定するか否定するかで、判断・評価することはできるとも言っています。

 現象学の考え方で言うと、認識・判断の多様性は、ある判断を正しいとみなす「確信」の多様性といえます。ではなぜ自分の判断を疑い得ないと確信するのか。この確信は、単なる思いこみとは言えません。なぜなら、様々な理由から自分の判断を正しいと信じているからです。では、この確信はどういう構造を持っているのか。

 まず、判断を直接判断と間接判断に分けて考えます。間接判断とは、自分が直接に経験したことから生じているのではなく、人から聞いたり、映像で見たり、本で読んだりして、自分の直接判断と照らし合わせて、類推してできている判断です。これは疑うことができる判断です。

 これに対して直接判断は、直接経験から出来ています。疑うことが意味をなさない確信の底板のようなものがあります。これを生み出すものにフッサールは、知覚直観と本質直観をあてました。知覚は、私たちの意識が自由に出来ないものです。錯覚することはありますが、それが間違いだったと気付くのも、知覚を通してです。本質直観とは、言葉の定義と捉えておいていいと思います。

 私たちが例えば目の前のりんごを知覚するとき、それを鳥として見ることはできません。知覚対象は私たちの勝手な改ざんを許しません。そしてあるものをみて「りんご」と知覚するには、同時にそこに本質直観(それは何か)が働いています。私たちはあるものの一面しか見ていないにもかかわらず、そのものが何かを把握しているからです。

 そしてこの意識の外の世界は、他我と共に構成しているものです。これが間主観性と言われます。他人の身体(私の意識が動かせない身体)を通して他我を「私」の意識が構成し、私の意識に現れているものはまた、他者の意識にも表れていると拡張され、「同じ対象」、「同じ世界」が構成されます。かくして外の世界の存在への確信が構成されています。この直接経験の構造が、確信の底板であり、疑うことが意味をなさないものです。

 マインドフルネスは意識をリセットするために、この直接経験への意識の集中を試みているのではないでしょうか。

 アメリカではブームを超えて、批判的な観点も出て来ているようです。 

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