宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

教えることと学ぶこと

 教科には教えなければならないことがあります。その教えなければならない目標、例えば漢字が書けるようになること、計算ができるようになることなど、ある種今の時代を生きるには必要なものです。ただ、その必要性が生き生きと感受されないと、おそらく学びは辛いものになる。勉強しなければ、になるわけです。

 高等教育では特にその教科の目標設定が難しい部分があります。茂木健一郎さんが『脳の中の人生』(中公新書ラクレ、2005年)の中で、「今までとは違った世界の見方を提供するのが、本当の学問である」と書いています。これはサル学的視点の話の中で出てきたものですが、学問一般に言えると思います。ではなぜ違った世界の見方を提供する必要があるのか。それはそれを受け取る側が存在して、その違った世界の見方に感動するからです。そういう受け取る側、学ぶ側が存在しなければ、教えることは成り立ちません。

 教えることを学ぶことから照射するとどういう景色が見えてくるのでしょうか。学び合いというのも、その結果の一つでしょう。ただこのとき、教える側が、学び合いを主宰することを放棄すると、真の学びは成立しないでしょう。教える側にかなりの力量が要求されます。共に学び合いながら教える側は、教授の場を客観視する目が要求されます。教えかつ学び合っている自らの在り様へのメタ認知

 教えることが学びの喜びを引き出せないと、私たちは学ぶことを放棄してしまうのかもしれません。教えることの奥の深さを感じます。

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           サフランが咲きました。

オレンジカフェ

 2日土曜日の午後、結城市公民館で開催されたオレンジカフェにお邪魔してきました。これは認知症カフェのことですが、認知症のシンボルカラーがオレンジであることから来ていると言われています。認知症カフェは、2012年に発表された厚生労働省認知症施策推進5か年計画で定義された取り組みです。曰く「認知症の人と家族、地域住民、専門職などの誰もが参加でき、集う場」と。

 認知症カフェは、1997年、オランダのアルツハイマー協会と臨床老年心理学者ベレ・ミーセンが協力して始めたものと言われています。本場のアルツハイマーカフェには5つの特徴があります。

 1.自由で対等な人間関係、2.アルツハイマー協会の指導と助成、3.定型的で反復的なプログラム(30分刻み・5部構成のプログラム)、4.生演奏のBGM、5.平日・夜開催

 2日のオレンジカフェは、結城病院の作業療法士川口淳一さんが講師役でした。川口さんは参加者全員に簡単な自己紹介をしてもらった後、沖縄の三線(さんしん)やギターをつま弾きながら、日本全国をご当地ソングで旅をするというプログラムから始めました。歌の旅は東京から始まり西へ行って、突然北海道に飛び、「津軽海峡冬景色」で終わりました。「有楽町で会いましょう」、「北の宿から」、「瀬戸の花嫁」、「長崎は今日も雨だった」、「知床旅情」、「函館の人」などなど。

 歌っているうちに、隣同士が話を始めたりして、どんどん雰囲気が打ち解けていきました。途中で、色カルタ(微妙に異なる色合のもので、100色くらい在ります)をやりましたが、これは「お題」のイメージする色を各自が選んで、それを話すというものです。例えば、「秋」でそれぞれが色を選びます。濃い朱色や黄色、藤色を選んだ人に「その心」を話してもらいます。「紅葉」とか「コスモス」、「ブドウ」等々。紅葉でも黄系の人もいれば、赤系の人もいました。その他のお題は「好きな食べ物」、「故郷」など。皆さんの選んだ色が、とても柔らかな色合いが多かったのが印象的でした。

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 生演奏で歌うのは気持ちがいいし、楽しかったです。歌を歌おうというと、どうしてもカラオケになりがちですが、カラオケでは生演奏でみんなで歌う盛り上がりが出てきません。覚醒させる力が生演奏にはあるそうです。

 日本の認知症カフェは、4つの源流があると言われます。一つ目は「アルツハイマ-カフェ」で、これはオランダ式理念とプログラムを浸透させようとする試みです。まだまだ行き渡ってはいませんが、2018年8月に『認知症カフェ企画・運営マニュアル』という書籍が出版されるところまで漕ぎ着けました。2つ目は「家族会」系のもので、相談やサポートを基本とするもの。3つ目は「ミニデイサービス」系で、行政などが主体になって、レクリエーションや介護予防を行うものです。今回参加したカフェは、この分類に入るかなと思います。4つ目が「コミュニティカフェ」系で、シニアサロンとも呼ばれ、住民主体で行われています。ここでは支援される側も企画・立案に参加するなど、「通いの場」づくりを通して高齢者にとって、交流や活躍の場となっています。

 地域づくり、まちづくりの一環として「コミュニティカフェ」のようなものを作ろうという動きは、これからも進められていくと思います。私たちはやはり人と集うことで、覚醒するし安心します。アルツハイマーカフェの5つの理念は、そのとき参考になると思います。ただ、何のためのカフェなのかは、ある程度理念が構築されている必要があります。もちろん、運営の中でよりよい形を探り続ける必要はあり、それによって変化していくのは当然です。ただ、最初から何となく集まろうでは、続かないと思います。何のために集まりたいのか、住民主体でカフェを作ろうとするとき、情報が欲しいのか、楽しみたいのか、それとも何かコミュニティに貢献したいのか。様々な目的があると思いますが、「認知症カフェ」は喫緊の必要性をもつものであるとは思います。

身体的ワークの指導

 今年は、平成から令和に代替わりがあって、そういう儀式のせいもあるのか、なんとなくせわしなかった気がします。10月末に、ひたちなか市市会議員選挙もありました。でも、意識が選挙に集中しないうちに、選挙は終わり、31日はハロウィンで、そして今日から11月。まだ、11月になったばかりなのに、もう1年を振り返りたくなっています。

 今日はリラックスヨガの日でした。1時間の間に、次から次へとポーズをとっていきますが、指導してくれる方の流れのつくり方が、さすがだなぁと思います。一つひとつのポーズは、本などを見ても分かるようなものですが、ただ、ポーズからポーズに自然に移行していくよう、毎回、プログラムが無理なく組まれているので、あっという間に時間が過ぎます。でも、結構身体には効いていて、翌日、太ももに筋肉痛が出たりします。体側や足の裏側も伸ばしていない部分が沢山あることが分かります。

 明日は結城市へ行って来ます。川口淳一さんの認知症カフェに参加させていただくためです。私は7月から今の施設で働き始め、漸く少し慣れてきたところです。ここはいわゆるサ高住(サービス付き高齢者向け住宅)で、認知症の人と身体に障害を持つ人が一緒に生活しています。入居者さん同士の人間関係も難しいなぁと感じているところです。

 作業療法士川口淳一さんの活動は、いろいろなところで紹介されていますが、今回、どういう展開になるか、楽しみです。以前に映像で見た川口さん主催の中度から重度の認知症の人たちへのワークの中で、『桃太郎』のお話がどんどん変わっていった場面がありました。そのときは、認知症の人たちに対応するやり方として見ていましたが、9月に「インプロ・ゲームと表現」という公開講座に参加して、見方が変わりました。

 インプロという即興演劇の世界では、参加者それぞれのその都度の反応で、話はどんどん変わります。ある意味、一期一会の展開。なるほど、と思いました。『桃太郎』はあれで良かったのです。認知症の人もそうでない人も、インプロ・ゲームでは対等の参加者になると了解しました。今回は、どういう「出会い」があるか、楽しみです。

ハロウィンに花を活ける

 今日はハロウィンです。古代ケルト人の秋の収穫祭であり、悪霊を追い出す行事でもあったようです。古代ケルトの一年は、10月31日で終わり、11月1日は新年の始まりであり冬の季節の始まりでした。日本でも1990年代後半から東京ディズニーランドのイベントとして始まり、近年では幼稚園や保育園の恒例行事になり、大人たちも街中に仮装して繰り出して、お祭り騒ぎをするようになっています。ただし、様々な問題も出ていて、2016年のアンケートでは8割の人が、関心を示さないか、好まないと答えているようです。

 色々楽しい行事はあったほうがいいと思います。クリスマスは各家庭でも恒例行事になっていますが、ハロウィンが定着して、子どもたちが近所の家々をお菓子をもらい歩くまでには、まだ時間がかかりそうな気もします。新しい形の隣近所の関係性のつくり方の一つになっていくのかどうか。

f:id:miyauchi135:20191101001710j:plain 今日活けた花です。バラとツワブキとドラセナとケイトウ。向かって真ん中より左側の提灯のような実のついている植物の名前は、忘れてしまいました。

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 先日友人とランチしたときのデザート。体調がいまいちでしたが、デザートは美味しく食べられました。

人文学の危機

 今日は小雨が降っていて、寒かったです。明日にはお天気は回復するようですが、この寒暖差に、体がついて行けません。昨日から頭痛と吐き気が出ていて、今日は少し良くなりましたが、風邪をひいたかなと思います。

 溜まっていた新聞を整理して、気になる記事を切り抜いて一日が終わってしまいました。国立大学法人総合研究大学院大学」の学長らによるハワイ視察が問題になっています。長谷川真理子学長については、以前から新聞でのコメントなどは面白く読んでいたので、ちょっと残念です。長谷川さんは今回の問題へのコメントで、人件費削減の方針を、戦略的・重点的予算措置という言い方をしていて、考えてしまいました。

 彼女は、9月5日掲載の東京新聞文化欄「成果主義は実行可能か」の中で、「研究開発などは、長く見ないと分からないので、短期間での評価は難しい」と書いています。これは政府が現在始めている、86の国立大学への指標による評価、成果主義への危機感を述べたものです。そもそも成果をどう評価するかの基準設定の困難さが、多くの会社で成果主義を破たんさせたといういきさつが紹介されています。こういう主張を持つ人が、教職員の人件費削減で出た余剰金をハワイ視察(7割が観光地や土産店)に使っていたという矛盾(と私は思います)。これは何なのでしょう。

 24日の文化欄ではマイケル・エメリックさんが「人文学の危機」といわれている問題を論じていました。この問題は実学志向の流れの中で、学問の世界の中で危機感が強まってきているものです。2004年の国立大学の法人化以降、様々な改革がなされてきましたが、やればやるほどおかしくなって来ている感があります。恐らく根本的なところで方向性が間違っているのではないでしょうか。大学組織などの教育や学校は、そもそもプラトンアカデメイアから始まり、2000年以上の歴史の中で醸成されてきた歴史があります。それを産業化以降の発想で出てきた会社組織の考え方で、簡単に組織変革ができると考えて取り組んでいる気がします。

 人文学の研究者の多くが、人文学の存在意義を文化・文明の伝承の必要性以外に主張出来ていなことに問題があると、エメリックさんは述べています。確かに人文学の意義と言われたとき、実学程にはっきりとその効用を述べにくいところがあります。ただ、長谷川さん自身の主張と行為の解離状況を見たりすると、彼女には本当の意味で、人文学的教養が根付いていなかったのではと思ったりします。人文学は、少なくとも、人間の多様性を開示し、人間の尊厳と向き合う心を耕す役割を担っていると思います。

介護と生活をデザインすること

 ひたちなか市議選も選挙期間は残すところ今日一日になりました。でも意外なほど静かです。地域が大きくて、選挙カーが回りきれないということもあるのでしょう。明日は投票日。25名定員に30名が立候補しています。現職は22名ですが、もちろん現職だから当選するとは限らないので、結構厳しい闘いのようです。

 ところで、介護施設に入っている人は投票するのでしょうか。これはなかなか難しいようです。自分で動ける人は、期日前投票に行ったりすることもできますが、それ以外の人の場合、スタッフが連れて行かなければならないし、自分で文字を書けない人もいます。施設で暮らす人の場合、必ずしも市内に在住していた人とは限りません。認知症状を発症していなくても、高齢期になって住む場所を移動した人は、その地になじみがないし、情報も入りにくく、誰に投票するか判断がつかない。投票というそれほど自分の生活に直接的影響が出ないものに関しては、特に理解と判断は難しいです。

 自分の日々の生活に関しても、住む場所を変えることは、高齢期には認知症を加速させると言われます。住む場所を変えるということは、生活の在り様がカオス状態になることを意味します。一見生活に必要な衣食住が確保され、後は好きなことをやればいいだけだから、楽で安心・安全ではないかと思われます。

 しかし、生活というのは単に生理的欲求(Physiological needs)を満たしたり、安全・安心を確保する欲求(Safety needs)だけで成り立っているわけではありません。この安全欲求というのは、安全性・経済的安定性・良い健康状態・良い暮らしの水準・事故の防止や保障の強固さなど、秩序だった状態への欲求です。これら基本的欲求が満たされたら、自分が必要とされる場所や人間関係を求めます。これは社会的欲求/愛と所属欲求(Social needs / Love and belonging)と言われます。ここに問題を抱えると孤独感や社会的不安、鬱状態が出てきたりします。

 更に、承認される場所や関係が必要であり、そういう中で、自分がやりたいこと、自分が充実感を感じることをやることで、生きがいを感じます。後者が自己実現の欲求(Slf-actualization)、前者が承認欲求(Esteem)です。承認欲求には2段階があります。他者からの高い評価や地位・名声・利権・注目を得ることで満たされる低いレベルと、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感などの自己評価が重視される高いレベルです。ここまでの欲求が満たされても、私たちは自分の持つ能力や可能性を最大限発揮して、自分らしく生きたいという欲求があります。社会的欲求や承認欲求を飛び超えて、自己実現を目指すこともあります。その典型的な在り方は、役者や作家やミュージシャンを目指す若者などに見られます。

 マズローは最初の4つの欲求を欠乏欲求(Deficiency-needs)、自己実現欲求を存在欲求(Being-needs)と分けることもあるようです。この自己実現を果たした人は少なく、更に晩年に提示した、自己実現欲求より高次の「自己超越欲求」を実現する者は極めてまれだと言われます。多くの人が階段を踏み外したとも。

 社会的に一線から退いた人は、第1・第2の基本的欲求が満たされていても、関係性や社会的居場所に空白ができます。そこから生まれていた評価もなくなることで、承認欲求も満たされなくなります。一般に、定年後の難しさが言われるのはここの部分から生じます。私たちは、ボランティアへの参加や地域の人間関係の構築、新しい分野への挑戦や趣味の充実などを通じて、この問題と折り合いを付けていきます。

 施設介護の難しさは、おそらくこのマズロー流の第3次以上の欲求充足、社会的関係性の構築に課題を抱えるせいだと思います。これらの欲求は生きることの自発性を生みだすものです。これらの欲求が充足される道を見付け出さないと、生きる意欲が減退していきます。つまり、各自が自分の生活をデザインすること、それを援助すること、ここが施設介護が充実するかどうかのポイントだと思います。人はおそらく幾つになっても、自己実現の疼きを自分の中に抱えているのでしょう。居宅介護においても、この援助・支援はポイントだと思います。

儀式

 今日22日は「即位礼正殿の儀」が行われ、休日になりました。この儀式は天皇が即位を内外に宣明する儀式で、即位の礼の中心になるものです。諸外国の戴冠式にあたります。儀式の様子は、テレビで生放送されていました。厳かな雰囲気の中、粛々と進む儀式の様子を見ていて、儀式の意味を考えていました。

 宗教には儀式がつきものですが、社会生活一般に儀式は付いて回ります。個人的には、お宮参りから始まり、入学式、入社式、成人式、結婚式、葬式。共同体では祭が欠かせません。何か行事をやるときは、開会式と閉会式があります。区切るという意味合いはあるかなと思いますが、何のために?

 親戚の伯父は、自分が死んだらその辺りに放られても構わない、という言い方をします。生きているときどうしてもらうかの方が大切、という意味だと解釈しています。葬式は、現代では段々と簡略化されてきていて、特に高齢でなくなったときは家族葬で済ませる場合も多くなった気がします。

 文化人類学的には、カオスを整理して、自分や何ものかを位置付けるために儀式は存在すると捉えるようです。日本では、成人式は形式的なものになっていますが、人類学的には、子どもと大人という質的に異なる在り様への変容を導き出すための試練として、成人式があると捉えるようです。

 確かに還暦のお祝いという儀式は、自らが社会的にどういう位置にいるかを確認させられるもの、とも言えます。自分ではいつまでも若いつもりでも、そして昨日と今日は地続きなので、いきなり還暦と言われてもピンとは来ません。生きているものはいきなりピンポイントで変わったりはしません。もし変わるとすると、それは緊急事態です。徐々に少しずつ変化して、気が付いたら大きく変わっている。儀式は人間の一生の変容を(経験的な意味で)統計的に捉えて、区切りとしてある時点を指定してくる。

 社会的儀式の場合は、やはりカオスのリセットの意味が強いのかもしれません。例えば天皇の即位とは、前天皇が退位したり崩御してその位置が空位になり、そのために生じたカオスをリセットするとも言えます。

 祭りはどうか。社会生活の疲れから生じてくるカオスを、ごちゃまぜにして騒いで盛り上げ、リセットする、とも言えるかもしれません。開会式や閉会式は?

 儀式に出席していると、肩が凝って来て、ということも多いですが、それでも私たちは儀式を続けています。そこにはやはり何らかの意味があるからなのでしょうね。

h-miya@concerto.plala.or.jp