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宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

看護と教育

 「看護とは何か」という問いと、実際に看護の現場で看護師に要求される知識と技術との関係はどうなっているのか。これは、「教育とは何か」という問いと、学校教育の現場で教師に要求される知識と技術の関係はどうなっているのか、という問いに置き直して考えると分かり易いかもしれません。というのも、ナイチンゲールは次のように言っています。

「教育の仕事は別として、世の中で看護ほどに、その仕事において《自分が何を為しうるか》が、《自分がどのような人間であるか》にかかっている職は、ほかにはないからです」 

 教師とはどのような存在か。教育とはどのような営みか。例えば親は子どもを育てますから、それもまた教育と言えます。学校教育は、教育の中の一分野と言えます。しかし、公教育の普及以来、学校教育は教育の典型になっています。教師は、知識や技能の伝達者であると同時に、生き方においても規範を守る存在として、子ども(被教育者)の手本であると、一般には受け止められていると思います。

 では看護師とはどういう意味で、何を為しうるかが自己のありようと結びついていると言われているのでしょうか。友だちとこんな話をしたことがあります。「人柄がいいけど下手な歯医者と、性格悪くても上手い歯医者でどっちを選ぶ?」。結果、二人とも後者だよね、という話になりました。

 ということは、ナイチンゲールが示した看護師のあり様は、知識や技能を統合する存在のあり様を基本に置いたということになります。何のために?健康のあるべき姿を示すことで、人々に幸福を実現させようとしたから。うーん、でもやはり今一つピンときません。

 そう言えば、ずいぶん前に名古屋市に住んでいたころ、看護学校で、教育学の授業を担当したことがありました。その時は、患者教育という目的のための教育学という括でした。しかし、看護と教育への、ナイチンゲールの言及を読んで、ベースにこれがあったのかもと今は思っています。

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介護と看護

 看護学校で哲学の授業を担当しています。「看護理論と哲学」の章を読んでいると、まるで介護の理論を読んでいるような気になりました。ヘンダーソンの基本的看護の構成要素など、これは介護そのものだと思いました。

1.患者の呼吸を助ける。2.患者の飲食を助ける。3.患者の排泄を助ける。4.歩行時及び座位、仰臥に際して患者が望ましい体位を保持するよう援助する。また患者がひとつの体位からほかの体位へと身体を動かすのを助ける。5.患者の休息と睡眠を助ける。6.患者が衣類を選択し、着たり脱いだりするのを助ける。7.患者が体温を正常範囲に保つのを助ける。8.患者が身体を清潔に保ち、身だしなみよく、また皮膚を保護するのを助ける。9.患者が環境の危険を避けるのを助ける。また感染や暴力など、特定の患者がもたらすかもしれない危険から他の者を守る。10.患者が他者に意思を伝達し、自分の欲求や気持ちを表現するのを助ける。11.患者が自分の信仰を実践する、あるいは自分の善悪の考えに従って行動するのを助ける。12.患者の生産的な活動、あるいは職業を助ける。13.患者のレクリエーション活動を助ける。14.患者が学習するのを助ける。

 そして彼女は看護婦(現在は看護師)の独自な機能は、その人ができるだけ早く自立できるように仕向ける援助だと書いています。

 私たちの看護師のイメージは、医療の現場での医者の補助者であると同時に、患者の代弁者というものではないでしょうか。病院やクリニックと密接に結びついています。医療に関する幅広い知識と実践力を持つが、医者ほどではない。その意味で、医者の補助者という面が、クローズアップされるのだと思います。

 しかし、看護をどう学問として自立させていくかは、ナイチンゲール以来の試みであり、科学的実践としてどう位置付けてゆくのかが、問われてきました。看護の知識と医学の知識は別であるというのが、ナイチンゲールの基本的考え方でした。ではその看護の知識とは、あるいは科学的実践とはどのようなものなのか。介護の考え方は、看護理論からきているといえるでしょう。では介護と看護の違いは、人体や医療についての知識と実践技術の違いなのでしょうか。

 看護を医療現場でどう自立させてゆくかは、今も問われ続けていますが、介護もまたその専門性をどこに置くかを問われています。認知症対応にこそ介護の専門性があるという人もいます。しかし、この認知症自体がまだまだ分からない。介護とは何か。それはケアとは何か、という問いでもあります。

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人間の業

 宮部みゆき『三鬼 三島屋変調百物語四之続』を読み終えました。面白かったです。第4話の「おくらさま」の評価が高いようですが、私は表題の第3話の「三鬼」に胸をつかれました。人間の業が鬼と化し、それに自らを重ねる話し手の心の深淵から響いてくるような言葉に。「彼は私だ。私が彼だ」と。

 もう25年くらい前になりますが、大学2年生の時の恩師の言葉が蘇ってきます。般若心経を読むゼミで発表が当たりました。内容を理解し、納得したのですが、でも私自身の生活は変わりませんでした。そのことを研究室まで押しかけ、担当教官にどうしてでしょうかと尋ねたときのことです。私の疑問に、目を閉じてじっと耳を傾けてくれていた(故岩本泰波)先生が、「でも私の生活は変わりません」と言った途端、パッと目を開いて、ご自分の膝を叩かれ、おっしゃいました。「宮内さん、それが業だよ」と。

 小説の内容ほどでなくとも、日常の過ぎ越しの中には、「どうして」と思い、「どうやったら変わるのか」と思うことは多々あります。特に対人関係の中ではあると思います。アサーションの考え方の中に、「他人と過去は変えられない」というのがあります。そうだよなあと思いつつ、どうしてもそこで思考がぐるぐる回ってしまう。でも、ある瞬間に、「それは私だ」と思ったとき、閉ざされた回路の中で堂々巡りをすることから解放される、そういう経験はあると思います。これを、河合隼雄は共感と言ったと思います。ただ、私はそうかな、と思っています。「業」への啓けの瞬間ではないでしょうか。ただしそれは、垣間見るような、そういうものなのでしょう。すぐに元の自分に戻ってしまう。戻るのもまた、人間の業なのかもしれません。

 ソクラテスの問答法は、エレンコス(吟味、論駁)と言われます。何を吟味しているのかといえば、対話相手の生き方そのもの、魂の在り方そのものです。古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』の「第4章 非知の技法ーソクラテス」では、ソクラテスの問答法が人知のゼロポイントまで人知を追い詰める作業だったと述べられています。偽りの倫理的信念を持っているものは誰であれ、常に、それが偽りであることを必然的に導き出すようないくつかの真なる信念を、同時に持っている、とソクラテスは想定していた。プラトン学者ヴラストスのソクラテス解釈を引きつつ、古東さんは主知主義者と言われるソクラテスの、知を追い詰める技法は、逆説的に知に沈黙させる技法だと言っています。内証するしかない次元(非知)が問題だったのだ、と。黙ってそこに浸され充たされるしかない場所。人知がとぎれた<たましい>のなかで、得心するしかないことこそが問題だったのだ、と。

 人間の業とは、そういうものなのかもしれません。「それは私だ。私がそれだ」と。

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静かな時間

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                      名平洞公園

 小雨降る一日。何となく一日が過ぎました。こういう日もいい。でも、人気のなさが静かさと感じられるか、寂しさと感じられるか、は私自身の心持なのでしょうか。それとも場所が醸し出すものなのでしょうか。

 先日の名平洞公園は静かと感じられました。今日、大洗に行く用事があり、帰りにアウトレットに寄りました。ここは閉店しているお店も多く、お客も少なく、物悲しかったです。土日には違う街の風景があるのでしょうか。

 「自然」の中に、あるいは、石庭のような場所に人がいないのは心地よいのに、街に人がいないと寂しさを感じます。街は本来人が集まる場所だからでしょう。コンクリートは、人がいないと殺風景さと侘しさを感じさせます。4月29日に、銀座の歩行者天国を歩いた時にも、寂しさを感じました。活気がなかったからだと思います。静かさは、ただ人がいないことから生まれるものではないようです。

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     銀座の歩行者天国                  笠間 春風萬里荘の庭園

 

 

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憲法ドキュメンタリー番組

 久しぶりに名平洞公園を散歩しました。そして四つ葉のクローバーを2本見付けました。去年は、9本見付けたので、今年はあまり散歩してないなあ。

 昨日のNHKスペシャル「憲法・70年の潮流」は録画しながら、最後まで見てしまいました。日本会議の出発点が、1970年の三島由紀夫の割腹自殺に触発された右派の青年たちによる日本青年協議会結成だったことに納得。2015年の憲法改正に関する調査で、改憲を必要とするが43%、必要ないが34%。しかし9条に関しては改正の必要ありは25%、必要なしが57%でした。かつて護憲・改憲論争は、9条に焦点が当てられていました。これを主導したのは当時の社会党でした。

 現在、改憲必要ありと考える国民は、むしろ自分たちの生活を守るための改憲と考えるようです。護憲派も、自分たちの生活を守ることを起点に、逆に、今ある憲法を実現して欲しいと訴えます。報道ステーションの中で語られていたと思うのですが、かつて改憲派だった元自衛官が、現在は護憲派の立場になったと。彼は、現憲法の精神を知るにつれ、作られたときの理想に燃えた創造性を今の改憲派は持っているのかと疑問に思うようになったそうです。ただ昔に戻そうとしているだけなのではないかと。そして賛成している人たちは、強い国を実現することで自分も強くなると錯覚している。しかし、国が武力で強くなるとき、個人の自由は抑圧されて行くと語っていました。これはその通りだなあ、と思いました。

 4月30日のNHKスペシャル「憲法誕生への道」も見ごたえがありました。上の元自衛官だった人が語っていたように、現憲法に創造的に結実した当時の(日本人だけでない、世界の)人びとの平和への思い。「平和国家の確立」を掲げて、敗戦の中から立ち上がった日本人の渾身の思いが伝わってきました。そしてこの「平和国家の確立」という理念は、敗戦直後の昭和天皇勅語の中で語られていたこと。それを受けた現憲法の平和主義は、安倍首相の言う「積極的平和主義」とは明らかに異なっています。

 両ドキュメンタリーは、『不思議なクニの憲法』と合わせて、何人かで学習会をやりたいような内容でした。

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    四つ葉のクローバー                    名平洞公園

認知症とノーマライゼーション

 認知症とは何なのだろう、認知症状を抱えてもできるだけ普通に暮らせないのだろうかと考えています。

 認知症状を呈する代表的なものが、アルツハイマー認知症です。以前に読んだ『100歳の美しい脳 アルツハイマー病の解明に手を差し伸べた修道女たち』(D.スノウドン、2004年)を読み返しています。最初に読んだときに印象に残っていたのが、脳には広範囲にわたって損傷が見られるのに、アルツハイマー病の症状がまったく出なかった修道女がいたこと。その逆に脳の損傷は軽かったのに、症状が顕著だった修道女もいる、ということでした。

 クリスティーン・ブライデンさんは、『私はわたしになっていく 痴呆とダンスを』(現在は痴呆症と言わず、認知症。しかし翻訳の言葉を使うことにします)の中で、自分の脳のスキャン画像を見せて講演することを書いています。なぜなら、彼女の話を聴く人が、彼女が前頭側頭型痴呆症を抱えていることを、どうしても信じられないことがよくあるからだと。医師たちも彼女の脳の画像だけを見ていると、中程度の前頭側頭型痴呆症で、すぐにも施設入所が必要な人の脳と感じるようです。脳の状態と認知症状は、単純にイコールではなさそうです。人生経験やその人の個性・能力とも、症状の出方は結び付いている。

 D・スノウドンさんは、脳の基礎体力の違いが、症状に影響するのではと書いていました。クリスティーンさんも、彼女の主治医の分析によると、発病以前の能力がかなり高かったこと、進行が例外的に遅いこと、そして夫の素晴らしいサポートがあることが大きいようです。そしてクリスティーンさんの主治医は、先入観や一般論を投影しないで、彼女の感じ方を受け入れてくれて希望を与えてくれる、と彼女は言っています。

 認知症になると何もできなくなる、という見方は少しずつ変わって来ていると思います。それでも、認知症になりたくない、ならないための脳トレや運動や食事などが盛んに語られています。それはそうだろうなあと思います。でも、認知症になっても困らない生活環境があったら。

 クリスティーンさんが、意識的に使う言葉PWiD(ピーウィッド=パーソン/ピープル・ウィズ・ディメンティア)は、痴呆症(認知症)という病気を抱えているが、それと向き合って生きているという意味合いがあるそうです。この言葉は、痴呆症(認知症)を持つ人たち自身によるネット上の自助グループが、自称として使い始めた言葉です。クリスティーンさんが認知症を抱えていることは事実ですが、彼女はそれを自分の人生の課題として主体的に向き合っています。それを支えているのが、医師であり、サポートグループであり、家族であり、そしてケア・パートナーとしてのポールさんです。

 認知症になったらこうなってしまう、仕方ないではなく、その人らしく、社会の中で普通に生活を継続するやり方はないのでしょうか。

憲法のつどい

 今日の憲法のつどいで、ドキュメンタリー映画『不思議なクニの憲法』(監督 松井久子)の上映会を実施しました。見ごたえのある映画でした。若者や女性(主婦、弁護士、フリーター・デモ発起人、アイドル、障がい者で人権活動家)の活動や発言と、識者の発言がバランス良く収録。トータル2時間半(間休憩15分)でしたが、全然眠くならず(ある参加者の感想)いろいろ考えさせられました。最後は「さあ、考え始めましょう」だったと思います。その呼びかけはそのまま、私の私への呼びかけの言葉として残りました。

 本日、安倍首相が、自民党総裁の立場で改憲を明言しました。2020年までに実現したいと。映画の最後で、ただ護憲を言っているだけでは、自民党改憲勢力に対抗できないと言った井上達夫さん(彼は非常に明晰な法哲学者)。彼の『共生の作法』(1986年)は相対主義の問題を考えていた私に、衝撃を与えた本です。彼は、現憲法基本的人権の問題はきっちり守られなければならない、しかし安全保障体制(九条)についてはこのままでは逆に危ない、シビリアン・コントロールの問題などをきちんと憲法に入れていかないと、と述べていました。

 その一方で、憲法学者長谷部恭男さんの「今の安倍政権の下での改憲は危険だ」という見解にも納得します。弁護士伊藤真さんの「憲法には理想が掲げられている。それが現実に合っていないから、改憲というのは違う。理想に向かって私たちは努力してきたし、努力すべき」という見解にも納得します。九条は、カントの『永遠平和のために』の精神の結実したものだと思います。

 どこに落としどころを持ってゆくのか。「さあ、考え始めなければ」。

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h-miya@concerto.plala.or.jp