宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

お雛様を生ける

 28日は風が強かったですが、日差しがあったので、部屋の中は暖かでした。この日は月に一回の生け花の日でした。今回は、お雛様がテーマ。スイトピーで男雛と女雛を作り、花畑の中に立てました。

 お雛様の原型は紙で作った一対の立ち雛だそうです。紙雛とも呼ばれました。雛人形には二つの流れがあります。一つは、身代わりの人形(ひとがた)。この人形に人間の汚れを移し、身代わりとして川や海に流して厄払いをします。「流しびな」はこの名残です。もう一つが、雛あそび(ひいな遊び)。これは、平安時代の貴族の子どもたちの間で盛んになされたおままごとです。人形の制作技術が向上すると、お雛様は立派になって、流すものから飾るものに変わって行ったようです。

 そして、江戸幕府が、桃の節句五節句の一つとして女の子の節句に決めることで、雛祭りが定着していったと言われます。節句とは、季節の変わり目の日です。邪気払いをしたり、体調を整えたりします。1月7日は人日の節句で、七草粥を食べます。3月3日は上巳の節句、桃の節句とも言われます。5月5日が端午の節句。菖蒲の節句とも言われ菖蒲湯に入ったりします。7月7日が七夕(しちせき)の節句、笹の節句とも言われます。9月9日が重陽節句。菊の節句で菊を浮かべた酒を楽しんだりしました。

 それぞれに意味があったわけですが、今は、何となく行事として楽しむくらいの感覚になっている気がします。

      スイトピー、ガーベラ、アリストメリア、桃、レースフラワー、ゴット

梅まつり2024

 偕楽園の近くまで行く用事があったので、梅を観てきました。偕楽園は、水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって、1842年(天保13)に造園されました。弘道館で学び、偕楽園で心身を休めるという構想だったそうです。

 園内には100種約3000本の梅が植えられています。ちょうど中咲きの梅が見頃でした。遅咲きの梅も、蕾が膨らんでいて、もうじき咲き誇ると思います。

 



モルックで対戦

 昨日は前日、前々日と一転した寒い一日でした。雨はさほどではなく、傘を差さなくても近い距離なら何とか移動可能。

 昨日の「はまぎくカフェ」はニュースポーツ対戦でした。ニュースポーツは、20世紀後半に考案・紹介されたスポーツ群で、1979年にはじめてこの言葉が使用されました。勝敗に拘らずに、レクリエーションとして楽しむ身体運動を指します。

 単に高齢者向けの運動群ではなく、ハンググライダーのようなものも入ります。新素材が手に入り易くなって誕生した運動や、世界の或る地域で伝統的な民族スポーツとして楽しまれていたもの、ゴルフを年齢・体力・技術・プレー環境を考えてアレンジされたグラウンドゴルフなどと、多様です。

 モルックは、フィンランドからロシアに広がるカレリア地方発祥のキイッカを基にしたニュースポーツです。1996年にフィンランドのラーデン・パイッカ(Lahden Paikka)社によって考案されました。フィンランド国際モルック協会が2001年に結成され、現在は、国際モルック連盟が、毎年、国際大会を主催しています。日本では、2011年に、日本モルック協会が結成されました。2020年現在の競技人口は、5000人から8000人と言われています。

 ちょっとボーリングを連想させますが、木の棒(モルック)を使って木のピン(スキットル)を倒すゲームです。スッキットルは12本で、それぞれに1から12までの数が書いてあります。

 下の図のように並べます。このピンの塊から3~4メートル離れた場所から、モルックを下手投げで投げます。 ゲームを始めるときのピンの並べ方(ウィキペディアより

 

 ピンを一本倒すと、ピンに書かれた数字が得点になります。2本以上倒すと、倒れたピンの数が得点になります(例えば5本倒すと5点)。ピンは倒れて完全に地面に着いているものだけが、カウントされます。寄りかかったり、重なっているピンは数えません。毎投擲後、ピンは倒れているその位置に立てられます。ですから、だんだんとばらけて行って、一本狙いができるようになります。グループ戦の時は、それぞれのグループが交互に投げます。

 そして、最初に得点が50点ジャストになったプレーヤー(の組)が勝利します。50点を超えてしまうと、25点に戻ります。この逆転可能性の面白さ。最初はどんどん点数を加算していきますが、途中から、考えながら、ピンを狙います。なかなか勝敗が付かないので、3分という時間を区切った対戦がありました。ギリギリ1秒残しで30点(今回は30点で設定)を獲得して勝利し、大盛り上がりでした。

 ラダーゲッターもゲームはしませんでしたが、投げて引っ掛けて点数をカウントすることはやりました。皆さん、ゲームの選択が良かったと言ってくれました。とても楽しい時間でした。

『判断力批判』を読む 18)趣味判断の量ⅱ:普遍的伝達可能性

 美学的判断である美の普遍妥当性は、一切の関心に関わりない判断であることから普遍妥当な本質を持つ、とまず定義されました。そしてその判断が個別的・単称判断であるのに普遍妥当性を要求する形は、「主観的」普遍妥当性であることが言われました。では、この主観的普遍妥当性は何に基づくのか、というと普遍的伝達可能性(allgemeine Mitteilbarkeit)による、というところまで見てきました。

 これはどういうことを言っているのでしょうか。まず、「趣味判断において与えられた対象に関する快と、対象の判定とで、どちらが先か」では、対象の判定が先でないと、感官的感覚における単なる快適になってしまいます。そこで、この判断の根底にあって対象に関する快を引き起こすものは、与えられた表象から生じた心的状態(das Gemütszzustand)に、すべての人が普遍的に関与できるということだ〔27〕、と言われます。

 でもすべての人が普遍的に共有し得るのは、認識と認識に属する限りでの表象だけです。この時の表象は客観的で、それゆえ、すべての人はそのように表象せざるを得ないのです。それなのに、普遍的に関与できる性質を持つ判断の規定根拠が単に主観的なものだとすると、それはある種の心的状態以外のものではないと言われます。ウーン、何を言っているのか?

ところでもしこのような普遍的関与性に関する我々の判断の規定根拠が単に主観的なものであるとすれば、即ち対象の概念に関わりなく考えられるとすれば、かかる主観的根拠は或る種の心的状態ーー換言すれば、我々の表象力が与えられた表象を認識一般(Erkenntnis überhaupt)に関係せしめる限り、我々の表象力相互の関係において見出される心的状態以外のものではあり得ない。〔28〕

 概念なら、すべての人が客観的に関与できます。心的状態の共有とは何でしょうか。それも普遍的共有。以上の引用部分の後に、このような表象が構想力(Einbildungskraft)と悟性(Verstand)によって認識一般(この認識、あの認識ではなく)を成立させる自由な遊びの心的状態になら、すべての人が普遍的に関与できるというのです。つまり表象が認識能力の活動を開放すると、この両者は自由な遊びを営むと言われます。構想力とは直観における多様なものをまとめ、多様なものの表象を概念によって統一するのが、悟性です。

 そしてこのような心的状態に基づいて、普遍的伝達可能性は達成されます。主観的普遍妥当性は、判断する主観の主観性の根源的在り方に関わります。その根源的在り方を形成する表象作用そのものが普遍性を持っている、と言うのです。

美的判断の「主観的」普遍妥当性は、判断する主観の主観性の根源的在り方を形成する表象作用そのものの普遍性に、その根拠を持つことを明らかにした。長野順子「カントにおける美的判断の『主観的』普遍妥当性」58頁)

 さらにこの心的状態も伝達されると想定されます。そこで出てくるのが、共通感覚です。ただ、これは「単なる観念的規範にほかならない」〔67〕と言われるように、理念として提示されています。この共通感覚の想定によって、必然性が言われます。この問題は、趣味判断の様態のモメントの所で、もう一度考えたいと思います。

             2023年3月11日撮影 弘道館公園の梅

『判断力批判』を読む 17)趣味判断の量:主観的普遍妥当性

 今日は昨日より、北風が冷たいです。それでも、陽が射しているので、部屋の中にいると暖か。来週は気温が高めのようです。

 趣味判断の第2のモメントが「量」ですが、これは個人の判断(単称判断)であり、かつ論理的判断でないにもかかわらず、判断が「すべての人に例外なく妥当することを必然的に要求する。‥(筆者中略)‥趣味判断には、主観的妥当性に対する要求(ein Anspruch auf subjektive Allgemeinheit)が結びついていなければならない」〔18〕と言われます。

 ここで言われていることは、「これは美である」と言ったら、それに他の人も賛成することを要求しているということです。他の人たちが彼と別様に判断するなら、その人たちを非難して、当然持っていなければならない趣味を欠いていると断定する〔20〕、と言うのです。人それぞれは成り立たない。つまり、「美」という判断には普遍妥当性への要求が本質的なもの〔21-22〕と言われます。

 そしてここでの要求は、概念には基づかないのです。善は、概念によってのみ普遍的適意の対象として表象され、すべての人に例外なく妥当することを要求します。これに対して快適なものは個人的感情に基づいています。だから快適なものに関しては、各人が各様の趣味を持っている、趣味は人それぞれが成り立ちます。美は、個人的感情に基づきながら、しかも普遍妥当性を要求します。対象の概念に基づかない普遍性は、論理的普遍性ではなく美学的普遍性であり、判断の客観的分量を含まず、主観的分量を含むにすぎない。ということからこれは主観的普遍妥当性(subjektive Allgemeingültigkeit)と言われます。

 では、なぜ普遍妥当性を要求できるのか。カントはこの両者( 快適に関する趣味判断と美に関する趣味判断)を、感覚的趣味と反省的趣味と区別します。ただし感覚的趣味が経験的には極めて広範囲に亙る一致をみることも認めています。そして反省的趣味がすべての人に普遍的に妥当することを要求しながら、その要求が極めてしばしば拒否されることも経験の教えることである〔22〕、と言います。その通りですよね。ですから、この要求は可能かどうかの問題ではないのです。

 そして第2モメントで良く取り上げられる部分が、9の趣味判断での快の感情と対象の判定の先後関係です。快が先になってしまうと感官的感覚における快適から始まることになって、すべての人が普遍的にその快に預かるというのは自己矛盾だと言われます。ということは、まずは普遍的に共有できる対象の判定があって、それが間接的に快を引き起こすと考えた方が妥当だということです。ここで出てくるのが、普遍的伝達可能性です。

 それはどのような判定なのか。稿を改めます。

   国立西洋美術館の庭の『地獄の門』(オーギュスト・ロダン)2024年1月12日撮影 

『判断力批判』を読む 16)三つの適意と趣味判断の「質」

 今日は曇ってはいますが、かなりの暖かさ。明日にでも春一番が吹くのでは、と言われています。

 趣味判断の第1のモメントである「質」。まず何かを美と判定するとき、そのものを認識する表象を、構想力によって主観と主観の快・不快の感情と結びつける、と言われます。この表象と快・不快の感情の関係は、客観的ではなく、「主観が、表象によって触発されるままに自分自身を感じるにすぎない」〔4〕のです。その時、適意(気に入る)や不適意(気に入らない)が生じますが、美とは一切の関心と関わりなく適意の対象となるもの、と言われます。

 趣味とは、ある対象もしくはその対象を表象する仕方を、一切の関心に関わりなく適意或は不適意によって判定する能力である。そしてかかる適意の対象が即ち美と名づけられるのである〔16〕。  

 適意(気に入る)には、まず関心と結びついているもの、つまり欲求能力と結びついているものが二つあります。一つは、快適なものであり、もう一つは善いものです。快適なものとは感覚的刺激による適意を伴い、善いものとは純粋な実践的適意を伴うもの、その客観的価値が承認されるもの、と言われます。これに対して趣味判断は、単なる観想的判断、現実がどうであれ単に対象の性質を快・不快の感情に引き当てるだけの判断である〔14-15〕というのです。

 こういう性質が、「無関心的でかつ自由な唯一の適意」〔15〕と言われます。快適さは情意的的傾向に関係し、美は恩恵と、善は尊敬と関係します。「そして恩恵こそ唯一の自由な適意」〔15〕なのです。

 この利害関係や傾向性から自由であることから、適意の根拠が個人的なものではないことを認めざるを得ないことになります。彼の適意の根拠は個人的なものではなく、すべての人に対する適意の根拠(普遍性)が含まれていなければならない、と考えざるを得ない〔17〕と言うのです。

 成程無関心・一切の関心に関わりなく(ohne alles Interesse)とは、こういうことかと思いました。ここからは趣味判断の第2モメントの話になります。

                 2023年2月20日撮影

『判断力批判』を読む 15)趣味判断批判からの美の定義

 美的判断が主観的というのは、何かを美しいという判断は、対象に言及しているのではなく、自分の感情に言及しているからです。「これはバラです」は客観的対象認識ですが、「このバラは美しい」は自分の感情を述べています。主観的というのは、そういう意味です。そして、たまたま、誰かがその判断をしたとして、それは万人の持つ認識能力を誰かが行使したということで、他の誰かがその能力を使っても同じことが言われるということです。そのために、普遍妥当性が言われます。

 趣味判断の批判は4つのモメントからなされています。質による定義は、美とは「関心なき適意」というもの。量による定義は「主観的普遍妥当性」です。美とは個別による判断です。単称判断にもかかわらず普遍妥当性を持つのはなぜか、ということなのですが、これに対しては、「主観の表象作用そのものの普遍的な伝達可能性」が言われています。ここが肝の一つですね。関係による定義では、「目的なき合目的性」が言われます。様態による定義では、「主観的必然性あるいは必然的適意」が言われますが、その根拠になるのが、共通感(Gemeinsinn)です。

一つひとつ考えてみたいと思います。

          2024年2月11日芸術館タワーのライトアップ

h-miya@concerto.plala.or.jp