宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

古河歴史博物館:"藩主って転勤族‼?”

 古河駅の西側地区は、お寺や神社が沢山ある古い市街です。道は狭いのですが、レンガ畳の小道や古い土塀が残っていて、歩くのが楽しい場所でした。古河歴史博物館の近辺は特に風情がありました。古河第一小学校もレンガを取り入れた作りで、隣の古河文学館かと一瞬間違いました。古河文学館、古河歴史博物館、鷹見泉石記念館は3つで一つに完結する空間を形成していました。散歩道としては最高だと思います。

 博物館は最初の展示室が鷹見泉石です。幕末の古河藩家老を務め、洋学の見識に富んだ人だったようです。渡辺崋山とも交流があり、崋山の手による「鷹見泉石像」が展示されていました。彼の集めた資料は、当時の重要事件を知るための手がかりとして大きな価値を持つようです。国の重要文化財に指定された資料3153点が、定期的に展示替えをして公開されています。

 展示室2では、古河の歴史が展開されていました。私は江戸時代の藩主が、結構頻繁に変わっていることに驚きました。土井家は前半と後半に分かれていました。前半は1633年に土井利勝(16万石)が下総佐倉(今の千葉県)から入り、5代続いて47年10か月で志摩鳥羽へ移っています。その後、堀田、松平、別の松平、本多、また別の松平と続き、1762年に土井利里(7万石)が肥前唐津(現在の佐賀県)から入り、廃藩置県まで108年10か月を土井家が治めました。

 藩主って、幕府という会社に勤める転勤族の管理職だったんですね。まあ、半分は江戸屋敷住まいだから、どちらかというと江戸が自分の故郷? 江戸時代って「鎖国」とか定住民化、流れ者差別などで、固定化(よく言えば安定化)のイメージが強かったのですが、管理する側は、参勤交代もあり、定住化していません。移動民への私たちの違和感とは異なって、管理する側は移動民だったわけです。

 どうも水戸近辺にいると、水戸徳川家の感覚で藩主を捉えがちですが、そう言えば改易・転封が幕府による大名統制の基本だったと思い出しました。領民は土地に縛り付け、諸藩の統治者だけを切り離して動かす、そうだったそうだった。学校で習ったことって、感覚としては身に付いてないなあ。古河がもっと近かったら、何回も行きたい博物館です。

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   小学校から古河文学館へ           文学館から歴史博物館へ

 

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