宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ギリガンのケアの倫理1)「正義の倫理」と「世話の倫理」

 


 昨日は、夏の間お休みだった生け花の会があり、久しぶりにお花を活けました。茶色に紅葉したモミジと白いトルコキキョウ、黄色い葉鶏頭に八つ手の葉っぱ。色合わせは活けているときは、地味に感じましたが、家に戻って玄関に活けたら驚くほどの華やかさ。生け花は活ける場所とのコラボなんだと、改めて気づかされました。芸術作品も本来は場所とのコラボだったものが、美術館のような特定の場所で観賞するものという「約束」がいつの間にか当たり前になっています。

             f:id:miyauchi135:20170930225038j:plain                f:id:miyauchi135:20170930224855j:plain            男女共同参画支援室の交流室でお稽古していますが、広い空間と自宅の玄関では花の雰囲気が異なりました。

 美術作品の「自立」という方向性と自我の自律の理念が重なって感じます。ギリガンのケアの倫理は、どこまでも関係性の中にある「私」の道徳的発達を追求したものです。これは女性被験者のジレンマへの対応の中に、明瞭に表れています。

 ギリガン(Carol Gilligan1936~)はE・H・エリクソンに学んだ後、コールバーグの指導のもとに、青年期のアイデンティティ形成及び実生活上の道徳的葛藤を扱う研究をしていました。その中で、普遍的な道徳性の発達段階を唱えたコールバーグに対し、二つの点から批判を展開しました。第一は文脈的相対主義の問題です。第二は女性の道徳性の発達の問題です。

 文脈的相対主義の問題とは、コールバーグが文脈相対主義者たちを4と2分の1段階(4段階から5段階への移行段階)と評価した問題です。これに対しギリガンは、文脈的相対主義は、もっと高い水準にあると考えています。なぜなら文脈相対主義の問題とは、成熟した成人期の道徳的判断そのものの問題でもあるからです。大人が直面する道徳的状況は一般的原理と葛藤を生じる(嘘を言うことは悪いことですが、正直に「あなたの歌は聞くに堪えない」と言うのが望ましいわけではありません)ことがよくあります。その後ギリガンの関心は、むしろ女性の道徳性発達に向けられているので、以下では1982年に出版されて大きな反響を引き起こした『もうひとつの声』を参照しつつ、その問題を取り上げることにします。

 ギリガンはコールバーグの理論が男性を中心に構成されたものと批判しました。コールバーグ自身、彼の最初の理論構想の目的は、道徳性の発達を引き起こす要因として仲間集団への参加と、父親との同一視に関する仮説を検証することであったと言っています。ギリガンは、コールバーグが理論化しなかった「もう一つの」発達の道筋を提示しようとしました。ギリガンは女性を被験者に、道徳的ジレンマ(コールバーグのモラル・ジレンマや実生活上のジレンマ)や自己の捉え方に関する面接を行いました。そして、ギリガンは二つの声それぞれに「正義の倫理」、「世話の倫理」という名前をつけて、両者の比較をしました。まず、よく引き合いに出されるハインツのジレンマに対するエイミーの回答をみてみましょう。ここではエイミーの回答と、同じ11歳の男の子(ジェイク)とのそれを比較検討しています。

 【エイミー】:そうねえ。ハインツは盗んじゃいけないと思うわ。ハインツは、そのお金を人に借りるとか、ローンかなんかにするとか、もっと別の方法があるんじゃないかしら。ハインツは絶対その薬を盗んではいけないわ。でも、ハインツの奥さんも死なせてはいけないと思うし。(なぜ盗んではいけないと思いますか)。だって、もしハインツがその薬を盗んだら、確かにその時だけは奥さんを助けることができるわよ。でも、もしそうしたらハインツは監獄に行かなければならないかもしれないし、そうしたら奥さんは前よりも病気が重くなってしまうかもしれないわ。そうなったら、ハインツは、薬よりも大事なものをなくしてしまうことになるじゃないの。こんなことはちっともよくないわ。だからハインツたちは人に事情を話して、薬を買うお金をつくるなにか別の方法を見つけるべきだと思うわ。

 これに対してジェイクは、ハインツは盗むべきだというはっきりした回答を最初から持っていました。なぜなら、彼はハインツのジレンマを財産と生命という価値観の葛藤問題として理解し、生命に論理的優先権を与えたのです。論理に魅了されているジェイクは、道徳的ジレンマは人間についての数学問題に類するものと考えています。

 しかしエイミーは、ジレンマの中に数学の問題ではなく、人間に関する、時間を越えて広がる人間関係の物語を見ています。「正義の倫理」は道徳問題を諸権利の競合から生じるものとし、形式的・抽象的な思考で諸権利に優先順位をつけることでこの問題に解決を与えようとします。ここでの自己の概念は、分離されたものであり、その自分自身から始めて、やがて「ほかの人たちと一緒に生きていかなければならない」ということを認識して、妨害を制限し、損害を最小にする規則を見つけようとします。この立場での責任は、行動を制限することや攻撃を抑制することに関わります。すなわち、ジェイクにとって責任とは「他人のことを考慮して自分のしたいことをしないこと」なのです。なぜなら、彼によると攻撃性の表出によって人は傷つくからです。

 しかしエイミーにとっては「自分のしたいこととは無関係に、他人が彼女にしてもらいたいと願っていることをすること」が責任の意味することです。なぜなら、自分の要求が答えてもらえないとき人は傷つくと、彼女が考えているからです。エイミーは、他人との結びつきを前提にして分離の変数(結びつきが同時に分離であるような条件)を求め始めます。以下、次回にまとめたいと思います。

コールバーグの道徳性の発達段階論を検討する

 コールバーグの道徳的認識の発達段階の設定は面白いと思いますが、そこには混乱があるような気がしています。ギリガンが指摘したように、別の在り方を混在させている気がします。私は、第2段階から第3段階を経るのでなく、第4段階、第5段階に行くリニアと第2段階から第3段階、そして別の展開があると思います。第6段階は両方の系列に関わっている気がします。第2段階から慣習レベルの第4段階の「決まりは決まり」系列の展開をすると、第5段階の社会契約的法律志向が発展理念として受け入れやすい。ただし、第5段階は建前としても掲げられます。

 ここでもう一つの問題が指摘できます。それは、道徳の発達について哲学的に考えることと心理学的に考えることとを統合しようとする点です。取り組みとしては評価しますが、心の発達と道徳の在るべき姿への論理的展開とが平行関係で捉えられて、心の発達の段階設定でも到達目標と掲げられることは、それほど自明なことだろうかという疑問です。

 コールバーグは、発達心理学において発達段階を設定し、それが文化の違いや性差を超えて設定可能であるという前提から出発します。そして、そのより高い段階への移行(分化と統合という基準に基づく発達)が見られるとしますが、その望ましさを心理学の中だけで証明することはできません。望ましさは価値に関わる問題だからです。

 この価値と事実の関係をコールバーグは平行関係であると言います。すなわち「道徳性の発達の方向」と道徳哲学における「適切性の規準」は導き合いの関係ではありませんが、平行関係にあるということです。道徳哲学における「適切性の基準」は道徳的規則の持つべき性質として次のように整理されます。①普遍化可能性の基準と②指令性(個人的な好みや欲求を超えた命令の性質、「べき」)です。これは人間一般に当てはまる理性(真偽・善悪を見分ける力)の在り方を示すものです。

 道徳性の発達は、発達心理学における基準では分化(たとえば鯨を食べる人間は悪いので殺されても仕方ない、という動物の生命への自然的共感反応を示した子が、人間の生命の価値と動物の生命の価値を区別するようになる)と統合(人間の生命価値と動物の生命価値を質的差異があるものとして位置づけ直す)の度合いの進展ですが、それはまた倫理学における適切性の基準をより十分に満たすような道徳判断が可能になる過程でもある、とコールバーグは言うのです。つまり、道徳性の発達と道徳哲学における適切性の基準が平行関係にあるという前提から出発していますが、道徳哲学の規準は建前としても受け取ることが可能なものです。世の大人がよくやってますよね。

 コールバーグは認知・構造的特質を道徳性発達の中核に置きますが、道徳判断は、単に論理的、技術的思考の意味における知能が、道徳的状況や道徳問題に応用されたものではないと言っています。そして、次のような検証不可能な仮説が含まれていることも言われています。すなわち道徳的原理を発達させるには、その前に道徳性の全段階を経過しなければならないだろうという仮説です。もしこれが事実でないとすれば、道徳の分野における普遍的連続性を説明することは困難になると考えられます。

 成熟した道徳判断の妥当性(高い段階は低い段階よりも適切である)を保証する基準は、真実性の価値や有効性といった基準より、もっと一般的な構造的基準に基づいています。この一般的な基準は、発達理論において、あらゆる成熟した構造を規定すると考えられている形式的な基準です。それは分化と統合の増進という基準です。発達は認知的葛藤や認知的不安状態(たとえば親子関係で求められている行動と、友人関係で求められている行動が異なっているというような状態)を「原動力」にした道徳的認知構造内の再組織化という過程をとります。前の段階の矛盾の解消によって道徳性は発達を繰り返すわけですから、当然段階の飛び越しはありえないのです。そして発達においてより高い段階が、包括性を持つことはいえると思います。

 しかしこの発達心理学のアイディアと、道徳哲学における適切性の基準は本当に平行関係を持つのでしょうか。カントからヘアーにいたる形式主義哲学者たちが、真の道徳判断ないし適切な道徳判断の特徴と考えてきた形式的基準は、このような発達の形式的基準(分化と統合)と一致するにしろ、哲学における基準の導出は純粋に論理性の次元でのことではないでしょうか。この疑問は、彼が発達の最終段階とその結果の道徳判断の基準を「正義」――後に正義と慈愛に変更されていますが――においていることへの疑問でもあります。

コールバーグの道徳性の発達段階論3)

 私たちが通常道徳として受け止めている規範レベル、それが慣習的水準と呼ばれているものです。一言で言えば、この水準は現状維持を前提としています。そしてこれもコールバーグは2段階に分けます。

〔慣習的レベル〕

 個人の属する家族、集団、あるいは国の期待に添うことが、それだけで価値があると認識され、それがどのような直接的結果をもたらすかは問われません。さらに、社会の秩序に対する忠誠心、その秩序の積極的維持と正当化、所属集団への同一化傾向が見られます。

<第三段階――対人関係の調和あるいは「良い子」志向>

 善い行動とは、人を喜ばせ、人を助け、人から承認される行動です。多数意見や「自然な」行動についての紋切り型のイメージに従う傾向があります。「善意でやっている」ことが重要であり、「良い子」であることによって承認を得ます。

【動機づけ】・賛成:薬を盗んでもハインツを悪い人間だと思う人はいないでしょうが、盗まない場合は、家族の者は彼を人でなしの夫と思うでしょう。

      ・反対:みんなから犯罪者と考えられてしまいます。自分の家族や自分の顔に泥を塗るような行為をしたことを後悔するでしょう。

<第四段階ーー法と秩序」志向>

 権威、定められた規則、社会秩序の維持などへの志向が見られます。正しい行動とは、自分の義務を果たし、権威を尊重し、既存の社会秩序を、秩序そのもののために維持することです。

【動機づけ】・賛成:結婚するとき、人は妻を愛し、大事にすると誓います。結婚は愛情だけではなく法的契約に似た一つの義務でもあるのです。

      ・反対:法律上、財産の権利の侵害は悪です。刑務所に入れられ冷静になったとき、自分の不正と法を犯したことに対する罪の念を常に感じることになるでしょう。

 この第3段階と第4段階の順序は、自律に向かう正義原理からは納得しますが、人間関係を重視する立場からすると、第4段階は「杓子定規」になります。

〔慣習以後の自律的、原理的レベル〕

 このレベルでは、道徳的価値や道徳原理を、集団の権威や道徳原理を唱えている人間の権威から区別し、また個人が抱く集団との一体感からも区別して、なお妥当性をもち、適用されるようなものとして規定しようとする明確な努力が見られます。

<第五段階ーー社会契約的遵法主義志向>

 正しい行為は、一般的な個人の権利や、社会全体により批判的に吟味されて合意された基準によって、規定される傾向があります。個人的価値や意見の相対性が明瞭に意識され、合意に至るための手続き上の規則が重視されます。「法の観点」が重視されるのですが、第四段階とは異なって法を固定的には考えません。社会的効用を合理的に考察することにより、法を変更する可能性が重視されます。

【動機づけ】・賛成:薬を盗まず妻を死なせるとすれば、それは恐怖心の結果です。したがって自分の自尊心を失うとともに、他の人々の尊敬をも失ってしまうでしょう。

      ・反対:共同体での自分の地位と尊敬を失い、法を犯すことになります。感情に流され、長期的展望を忘れてしまうと、自尊心も失ってしまいます。

<第六段階――普遍的な倫理的原理志向>

 正しさは、論理的包括性、普遍性、一貫性に訴えて自ら選択した倫理的原理に一致する良心の決定によって規定されます。これらの原理は、人間の権利の相互性と平等性、一人ひとりの人間の尊厳性の尊重など、正義の普遍的諸原理です。

【動機づけ】・賛成:薬を盗まず妻を死なせてしまったら、人から非難されず、法を犯すことがなかったとしても、自分自身の良心の基準に従わなかったことで自分を責めることになるでしょう。

      ・反対:薬を盗めば、人からは非難されなくとも、自分自身の良心と誠実の基準に従わなかったという理由で自分自身を責めるでしょう。

 第5段階・第6段階は倫理学的理論のレベルと考えていいでしょう。第5段階がいわゆるコンプライアンス、遵法主義が目指しているものです。第6段階は、現実にはなかなか実現できないと言われています。

コールバーグの道徳性の発達段階論2)

 さて、コールバーグは、仮想の道徳上の葛藤場面に対する反応を分析して、三水準六段階の発達段階を抽出しました。有名なハインツの例を引きながらこのことを説明しましょう。

 ハインツのジレンマ】 ヨーロッパで、一人の女性が非常に重い病気、それも特殊なガンにかかり、今にも死にそうでした。彼女の命が助かるかもしれないと医者が考えている薬が一つだけありました。それは、同じ町の薬屋が最近発見したある種の放射性物質でした。その薬は作るのに大変なお金がかかりました。しかし薬屋は製造に要した費用の十倍の値段をつけていました。病人の夫のハインツはお金を借りるためにあらゆる知人をたずねて回りましたが、全部で半額しか集めることができませんでした。ハインツは薬屋に、自分の妻が死にそうだとわけを話し、値段を安くしてくれるか、それとも、支払いを延期してほしいと頼みました。しかし薬屋は「だめだね。この薬は私が発見したんだ。私はこれで金儲けをするんだ」と言うのでした。そのためハインツは絶望し、妻のために薬を盗もうとその薬屋に押し入りました。

 ハインツはそうすべきであったか。またその理由は。

 上のジレンマへの回答は「賛成」か「反対」かの二者択一です。問題はその理由付けなのです。この理由づけ(動機づけ)の構造を分析することによって、コールバーグは被験者の発達段階を決定したのです。道徳性の段階の定義と、それぞれの段階に分類される動機の例(レスト、1968年のものも参考にまとめた)は次のようになります。

〔慣習以前のレベル〕

このレベルでは、子どもは「善い」「悪い」「正しい」「正しくない」といった文化の中で意味づけられた規則や言葉に反応します。しかしこれらの言葉の意味を、行為のもたらす物理的結果や、快・不快の程度(罰、報酬、好意のやり取り)によって考えたり、そのような規則や言葉を発する人の物理的力によって考えます。このレベルには次の二つの段階があります。

<第一段階――罰と服従志向>

 罰の回避と力への絶対的服従がそれだけで価値あることと考えられます。罰や権威が 支持する根本的な道徳秩序に対する尊重からではありません(後者の場合は第四段階)。この段階の動機づけの例は賛成の場合、反対の場合、それぞれ次のようになります。

【動機づけ】・賛成:もし妻を死なせてしまえば、自分が困ったことになるでしょう。妻                                                           を救うためのお金を惜しんだと非難されるだろうし、妻の死に関して薬屋とともに取調べを受けるでしょう。

      ・反対:もしも薬を盗めば、捕まって刑務所に入れられますから。

<第二段階――道具主義相対主義者志向>

 正しい行為とは、自分の必要と、ときに他者の必要を満たすことに役立つ行為。公正、相互性、等しい分け前などの要素が存在しますが、常に物理的な有用性の面から考えます。この段階での正しい行為とは、自分や他人の欲求を満たすための手段なのです。

【動機づけ】・賛成:捕まったとしても薬は返すことができるので、重い罪の宣告は受けないでしょう。刑務所から出たときには妻がいれば、辛くないでしょう。

      ・反対:薬を盗んでも長く刑務所に入れられることはないでしょう。しかし、たぶん彼が出所する前に妻は死ぬでしょうから、彼にとってあまりよい事態にはならないでしょう。

 リコーナという人は、現代のビジネス関係の中では、この第2段階が優位になっていると言っています。大人世代がこの段階で生きている人が多いということです。道徳以前の段階で、取引的な関係性の中に生きているということでしょう。次は、慣習レベルの話です。

コールバーグの道徳性の発達段階論1)

 キャロル・ギリガンのケアの倫理を考えるにあたって、ローレンス・コールバーグの道徳性の発達段階論をまず抑えておく必要があります。ギリガンのケアの倫理は、このコールバーグの理論への批判あるいはその一面性の指摘として出てきたからです。

 コールバーグ(Lawrence Kohlberg 1927~87)は精神病院で心理学のインターンとして働いていましたが、臨床心理学の道徳概念に疑問を感じインターンを辞めます。そして、10歳から16歳の子どもの道徳判断の発達に関する博士論文の研究に着手しました。

 コールバーグの道徳性発達理論の中心は、「認知論」と「普遍主義」であると言われます。前者について彼は、ジョン・デューイ、G・H・ミード、J・M・ボールドウィン、ジャン・ピアジェと、自分の道徳理論に関する一連の仮説を認知発達的理論と言っています。これは表面的な道徳的行動や道徳的知識を問題にするのでなく、道徳的判断の背後にある認知(物事について知る)構造に焦点を当てています。

 1928年~30年になされたハーツホーンとメイの「ごまかし」に関する研究は、どんな人も状況によって「ごまかし」を行うという衝撃的結果を導き出しました。この研究は、道徳的言葉や表面的に受け入れられた徳目が道徳的行動を導くとは言えないことを明らかにしました。なぜなら、ごまかしをする人も、しない人と同じようにごまかすことはいけないと言うからです。しかし、コールバーグの道徳的認知構造の研究の結果、人が状況によって「ごまかし」をしたりしなかったりすることを、論理的に説明することができるようになりました。そして道徳的発達段階が上がるにつれて、「ごまかし」が減ることが統計学的に有意であることも言われました。つまり、道徳的に成熟した人間は、もろもろの規則に従うのでなく「正義の原理によって行動」しています。そしてこの成熟は、認知的発達に支えられているのです。

 次に、彼が主張した「普遍主義」というのは、文化や時代を超えて共通の(普遍的な)道徳的判断の「形式」が存在するということです。道徳規範(内容)がどこでも同じと言っているわけではありません。そしてこのような考え方の実践が道徳的発達段階の設定であり、その判定法です。これらは何度も改定されています。しかし道徳性の段階が存在するという考え方は、修正されることのない中心的前提です。

 コールバーグはこれを次のように述べています。①段階とは、思考と選択における質的に異なる構造と形式のことです。その内容とは区別されます。②段階は「構造を持った統一体」です。個人の道徳判断のレベルは、葛藤場面や規範が違っても一貫しています。③段階は、一定不変の連続性を示します。個人は段階を飛び越えたり、後退したりすることはありません。発達速度に違いはあっても、発達の段階に文化による違いはありません。④段階は「階層的に統合されたもの」です。可能な最も高い段階で思考し、最も高い段階を好む傾向があります。

 彼は以上の道徳性の段階の概念を前提に、最初の被験者(男性)たちを対象に30年にわたって縦断的研究を行いました。後に異文化や女性にも適用可能かどうかを確かめるために、別の縦断的研究を行うようになります。次回は、コールバーグの道徳性の発達段階の考え方を具体的に理解するために、ジレンマを使いながら3水準6段階の話を書きたいと思います。

介護施設とリハビリテーション

 明日はお彼岸のお中日です。今日、やっとお参りしてきました。彼岸に行けるかどうかは分かりませんが、いずれこの此岸からは去っていきます。高齢者の集まっている介護施設にいると、「早くお迎えに来てもらいたい」と利用者さん同士が話し合っている場面に頻繁に出くわします。今いるところは、リハビリテーションを看板に掲げている施設です。通常のイメージだと、リハビリは社会復帰を目指して行うものと捉えられていると思います。では、高齢者にとってのリハビリって何なのでしょう。

 リハビリテーションの語源はラテン語で、re(再び)+habilis(適した)という意味を持ちます。再び適した状態になること、機能低下した状態から回復することというような意味になります。1980年代のWHOなどの定義を見てみると、機能回復と同時に社会への復帰や参入を達成するあらゆる手段を包括すると言われています。1999年の「地域リハビリテーション支援活動マニュアルの定義」には「医療保険介護保険でのサービスのひとつであるとともに、技術であり、ひとつの思想でもあり」、同時に多角的なアプローチを必要としていると言われています。

 リハビリしてその先どこへ行くのか希望がないなら、あまりやる気にならない人もいるでしょう。高齢者にとって行きたくなるような場所とはどういうところでしょうか。私は、道の駅のような、高齢者にとっての情報提供と楽しさとくつろぎと、そして何かやりがいが提供される場がないかなあと考えています。極楽までの、彼岸までの「道の駅」。そこへ行きたいと思えば、高齢者にとってもリハビリは、張りあいのあるものになるのではないでしょうか。

インフォームド・コンセントの前提条件

 今日は一日☂。台風18号の影響です。台風18号は午前11時半頃、鹿児島県南九州市付近に上陸し、午後5時頃、高知県宿毛市付近に再上陸したようです。そして眠くて仕方ない一日でした。

 気合を入れ直して、インフォームド・コンセントの前提条件をまとめておきたいと思います。インフォームド・コンセントは患者や被験者が与え、医療者や実験者が受け取ります。主役は患者・被験者側です。前回、インフォームド・コンセントは医療裁判における判断基準の法理として発展してきたことを書きました。患者がインフォームド・コンセントを与えるにあたって、まずどのような情報が提供されなければならないか。これは結構難しい問題をはらんでいますが、アナスがあげる7項目は次のようなものです。

 1)治療ないし処置の概要、2)その治療・処置に伴う危険性、3)その治療・処置以外の選択肢と、それに伴う利益や危険性、4)治療を行わない場合に想定される結果、5)成功する確率と何をもって成功とするか、6)回復後に残る問題と正常な日常生活に戻るまでにかかる時間、7)同じような状況下で、信頼に足る医師たちが提供している情報。

 それぞれの項目について、具体的にどのような基準でどこまで開示するかという点に関しては、1)患者の健康を守る責任のある専門家社会の慣行による基準、2)(平均的な注意力、行動力、判断力をもって行動する)合理人が自己決定権を行使するために必要な量と質という基準、3)個々の患者にとって重要な情報という主観的基準に分けられます(R.フェイドン/T.ビーチャム『インフォームド・コンセント』)。

 患者側から言えば、主観的基準での開示が望ましいと思いますが、ただこれは医師に、患者の個人的価値観や関心や性格までを直感的に理解することを要求し、医師に不当な法的負担を強いることになります。「医師は法廷で患者が後から考えた利己主義的な弁明のなすがままにされる」と論じられます。私も親知らずを抜いたとき、起こり得る可能性をいろいろ並べられて、怖くなったことがあります。客観的に言えば、その通りなのでしょうが、そこまで別に知りたくはないと思いました。その代わり、父の大腸がんの手術の時は、術後に起こり得る状態をもっと教えて置いてほしかったと思いました。

 次に成人がインフォームド・コンセントを与えるにあたって、知っておきたい前提条件は次のようなものです。

1)患者は医師に、理解し納得するまで何度でも質問してよい。質問の自由。アメリカ病院協会が作成した「患者の権利章典」(1973年)の第2項目に明確に掲げられています。2)患者が同意した医療を実施したときの責任は医師にある。「ヘルシンキ宣言」基本原則3に挙げられています。3)法律が許す範囲での患者の同意拒否権。診療を拒否したときに起こる事態について説明を受ける権利がある。4)患者の同意撤回権。医療開始前、医療開始後も可能であれば中止できる権利。この場合、医師は患者との人間関係を悪化させてはいけない。5)患者は医師を選ぶ権利を持つ。6)患者は満足の行かない診療を拒否する権利がある。しかし医師が承諾しない治療法を、医師に強制はできない。

 患者側が分からないということを言い続けるのは、難しいところがあります。結局、お任せしてしまう。確かに、最終的には信頼関係なのでしょうが、自分なりに納得できるところまでは、理解したいと思う患者も多いと思います。自分なりの落としどころを探している。そして、医療者はそれに付き合う必要がある。インフォームド・コンセントの前提条件はそういうことを言っていると思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp