宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

八幡宮のあじさい祭

 梅雨の時期にも、晴れる日があります。丁度、13日はそんな一日でした。水戸八幡宮あじさい祭に行って来ましたが、「今が盛りです」とボランティアの方が言っていました。今年は花が早いようです。あじさいにもいろいろあるんですね。

f:id:miyauchi135:20180616223149j:plain f:id:miyauchi135:20180616223305j:plain

             6月13日水戸八幡宮の紫陽花 

 神社やお寺は、空気がすがすがしく感じられます。建てられている場所や建物の配置、植林の仕方などが影響しているのでしょうか。神社は日本の神道の信仰に基づく施設ですが、日本では仏教との混淆が浸透していて、神仏習合という宗教現象が一般的でした。これに対して中世から、神仏分離の動きが時折思い出されたように高まりましたが、歴史の授業で思い出すのは、明治維新期の廃仏毀釈です。

 光圀以降の水戸学では神道を尊重し、仏教が軽視されました。明治維新政府の最初期の宗教政策に、藤田東湖・会沢正志斎ら後期水戸学が深く影響していたようです。明治維新政府の神仏分離令や大教宣布は、仏教と神道の分離が目的で、仏教を排斥しようとしたわけではないと言われていますが、廃仏毀釈運動という破壊活動を引き起こしてしまいました。アフガニスタンタリバンが爆破したバーミヤンの石仏を思い出してしまいます。

 バーミヤンの遺跡群は、アフガニスタンの首都カブールから北西230キロの山岳地帯に位置するバーミヤン渓谷にあります。仏教文化が繁栄した時代の様子を伝える文化的景観を持ち、2003年にユネスコ世界遺産に登録されています。登録に先んじて、2001年3月にタリバンによって、イスラム偶像崇拝禁止の規定に違反しているとして、磨崖仏が破壊されました。あの時のニュースはかなり衝撃的だったことを覚えています。

 日本の廃仏毀釈運動は、それ以上でした。日本中を、破壊運動が吹き荒れたという感じだったでしょう。明治期の廃仏毀釈運動に影響を与えた水戸藩神仏分離である寺社改革は、1660年代初めころから始まったようです。水戸八幡宮がある八幡町ももとは寺院だったそうです。そこにあったいくつかのお寺は破却され、土地は宅地化され、お寺は各地に移されました。

 現在、私たちはあまり神社とお寺を分けてはいないのが実情のようですが。

意識は何ものかについての意識である

 デカルトは心の領域を発明した、というのはローティの表現です。対象認識に先立つ内在的領域の発明or発見は、確かに画期的なことです。ただ、内閉してしまったことで問題が起きてしまいました。つまり、私と世界、私と他者、私と身体が分断されてしまいました。私が私の意識の中から出られないなら、どうして世界や他者や身体を確かなものということが出来るのでしょうか。そこでフッサールが取ったのが、とことん意識を解明するということでした。意識こそが、世界や他者や身体を確証するようなあり様をしているのではないか、ということです。 

 そしてそこから出てきたのが、意識の志向性という意識の特性でした。どういうことか。志向性とは、意識が様々な現れという感覚体験を突破して、その現れの元のものを知覚経験するという意識の働きのことを言っています。

 メルロ=ポンティは『知覚の現象学』で、斜めから見る正方形が菱形として知覚されないのは、正面向きの正方形を思い出すからではないと言います。「斜めに提示された菱形という現われが、そのまま前向きに提示された正方形という現れに等しいから」なのです。私たちの直接経験では、例えば、机の上面を平行四辺形や台形に感覚することを突破して、長方形の上面を知覚しています。多様な現れと元の現出者は一体なのです。私たちはこれ以上根源に遡ることはできません。

 現れるものと現れは、切り離すことはできません。意識するとは常に、何かを意識することであり、これ以上に何かを確証することはできません。現れるものの現れ方はさまざまですが、現れ方から切り離された現れるものというのは存在しません。現れるものと現れの間にはずれがあるので、見間違いや聞き間違いが生じます。しかし、それを修正していくのも、感覚・知覚という意識経験なのです。

 廣松渉は思い違いの連続であっても、現実には、「誤解だったと思い知らされることがなくなる」程度までは修正されうるし、現にそうして「相互理解」は進捗すると言います。私たちの感覚や知覚は、確かにそのような構造を持っていると思います。 

こころの座

 授業で、機械論的自然観の成立の話をしたとき、デカルト心身二元論から始めました。デカルトは、人間は「こころ」を持つので「機械」ではないと考えていたことも話しました。授業が終わってから、ある学生から「こころはどこにあると考えてますか」と質問されました。その学生は、脳の働きが「こころ」を生むと考えていると言っていました。

 デカルトに倣えば、「こころ」は考えること、感じることなどの特性の主体のことです。作用に作用者がいるという考え方は、文法の罠に嵌っているのだというのがニーチェの考え方です。ニーチェは遺稿集の中で「すべての出来事は何らかの行為であり、すべての行為には行為者がいると考えるのは‥‥(中略)‥‥「主体〔主語〕」に対する信仰である」と言っています。行為と行為者を分ける思考を批判するとき、ニーチェはよく稲妻の例を挙げます。

 「わたしが『稲妻が光る』と言うとすれば、その時にわたしは、『光る』を行為としてみる一方で、『主体』としても設定している。つまりこの出来事の奥に一個の存在を前提しており、その存在は、出来事と同一ではなく、むしろそのままであり続けるもの(bleiben)、存在するもの(sein)であって、『変化するもの(werden)』ではないと見ているのである」(『道徳の系譜』第1論文)

 このような思考は主語述語概念が発達したインドゲルマン語系の人間の示す傾向と言われていますが、現代の私たち日本人もこういう思考形態を共有している気がします。ニーチェはウラル・アルタイ語圏の哲学者たちは別ように世界を見るだろうと言っていますが。

 こころの働きにはどこかに座があると考えたい。でも、認知の作用が大きく脳の機能に依存しているとしても、こころは脳の機能にだけ依存する働きなのでしょうか。身体機能を損傷せずに脳死状態に陥った存在が、長期に亘り心臓が生き続けている例が、「長期にわたる脳死」(1998年)という論文でシューモンによって紹介されました。2003年時点でも19年に亘って、自宅で人工呼吸器をつけたまま心臓は生き続けていました。お母さんは、自分が出懸けたり帰ってきたりすると、彼は分かる、血圧が変動するからと言っていました。

 日本語には「身に付ける」「身のほど知らず」「身から出た錆」「身に覚えがある」「身も蓋もない」「わが身を振り返る」など、身という言葉に単なる肉体以上の意味を込めて使う使い方が沢山あります。ここでの「身」には、たましいやこころを含んだ意味合いがあると思います。生きられる身体はたましいやこころがそこで動く「場」なのかもしれません。

片づけ

 今日は一日中、洗濯と片づけに追われていました。まあその間に、「ホームズ」を見ていたので、効率が悪かったとも言えます。それにしても、なんでこんなに物がいっぱいあるのだろうと、ため息が出ます。

 洋服の整理の仕方で、捨てるか残すかをときめくかどうかで決める、というやり方を提案した人がいました。なるほどとは思いましたが、どうもあまり広がらなかったようです。一年着なかったものは処分するとか、ひとつ物を買うときは一つ捨てるとか、まあ、色々やり方の提案はありますが、私はどれも徹底できないでいます。思いきれないのでしょう。なら、買わなければいいのですが、ダイソーは時々覗いては何か買ってしまいます。

 新聞記事の切り抜きも、思い切って捨てないと、溜まって行きます。いつか使うだろうと思っていると捨てられません。かと言って、完全に情報をペーパーレスにすることにも踏み切れません。ネットでニュースを見る人が増えていますが、おそらく私はこれをやると、テレビのニュースとワイドショーで基本済ませてしまいそうです。これは情報が更新されたら、その前のニュースはそのまま忘れそうな気がします。

 モノや情報がこれほど安価に豊かに手に入る時代は、ごく最近の現象です。今年は明治が始まってから150年目、第2次世界大戦敗戦からは73年目です。近代化と物質文明化の進展はたかだかこんなもの。情報化社会はコンピュータの発展と軌を一にしていると思いますが、これなど1980年代以降と言っていいと思います。溢れかえるモノや情報との付き合い方が、まだまだ試行錯誤状態で、身に付いてないのは仕方ないこと。

 「無くても何とかなる」「あることで頭と気持ちを悩ます時間と労力が勿体ない」の方針で、片づけていくことにします。恐らく何度もこの方針を胸に刻みながらやることになりそうですが。

「考える葦」

 このところのメディア報道を見ていて思うのは、パスカルの言葉の重みです。パスカル(1623-62)は、近代社会の不安の中に生きた人です。様々な社会秩序が大きく揺らぎ、共同体の中での自分の位置や大きくは宇宙の中での人間の位置があいまいになり、個々人が新しい社会の在り方を模索していた時代です。パスカルは『パンセ』の中で、人間の弱さを語り、考えることにその尊厳を見い出します。

 「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でも一番弱いものだ。だがそれは考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙は何も武装する必要はない。‥‥(中略)‥‥しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことを何も知らない。だから、私たちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。‥‥(中略)‥‥だから、正しく考えるようにつとめようではないか。ここに、道徳の原理がある」(347)

 人はいずれこの世界を去ります。でも、そのことを忘れて生きているのが現世の人間なのでしょう。現代人である私たちは、死の後、を考えることはあまりありません。どうしても「今」に囚われています。そして、「今」がずっと続くと思ったり、「今」の自分の望むようにすることや社会が自分の思うとおりになることが「善」と信じて、行動します。

 「正しく考えるようにつとめようではないか」というパスカルの言葉が響いてきます。どうしたら「正しく考えられるのだろうか」と。まずは謙虚でありたい。

 謙虚であるとは、自分への疑いであり、自分の信じるように「しか」考えることができないのが人間であると知ることで、ときに自分の信念に「怖れ」をもつことなのだと思います。権力を持つほどに、必要になる資質ではないでしょうか。

f:id:miyauchi135:20180531012237j:plain f:id:miyauchi135:20180531012356j:plain

                   5月22日の三反田の水田

自己決定権

 今日は仕事で常陸大宮市にいました。2時前くらいに竜巻警報が出て、3時過ぎに黒雲が沸いてきて、ざぁーと一雨降りました。4時前に勝田駅に着いたときには、晴れていました。局所的な天候の変化の激しさに驚かされました。

 さて、医療や介護の現場では、当人の自己決定権(この言葉をストレートに使うことは少ないと思います)が重視されるようになっています。要は当人がどうしたいかということですが、何に対してか。身体や生命に関わる部分でのQOL(生活の質、生命の質)およびSOL(生命の尊厳)をめぐって、と取りあえず言えると思います。

 患者や家族の意思が重視され、患者の自己決定権を治療における基本原理とするという機運を作っていくきっかけとなったのは、1976年にアメリカ、ニュージャージー州最高裁判所で出された、カレン・アン・クインランさんの植物状態への判決でした。カレンさんは21歳のとき(1975年4月)、友人の誕生パーティで意識を失い、昏睡状態から植物状態になりました。回復の見込みがないことを知ったカレンさんの両親は、人工呼吸器の取り外しを医師と病院側に頼みましたが、聞き入れられませんでした。そこで両親は裁判に訴え、最高裁判所は人工呼吸器の取り外しを認めたのです。しかし、人工呼吸器を外した後、カレンさんは自力呼吸を回復して、肺炎で亡くなるまで9年間植物状態のまま生きました。

 では自己決定権とはどのようなものでしょうか。日本の生命倫理英米流の考え方が強いのですが、そこでの自己決定権の考え方は次のようにまとめられます。①成人で判断能力のあるものは、②身体と生命の質を含む「自己もの」について、③他人に危害を加えないかぎり、④たとえ当人にとって理性的にみて不合理な結果になろうとも、⑤自己決定の権利を持ち、自己決定に必要な情報の告知を受ける権利がある。

 歴史的に自己決定権の成立には、ナチスに代表される人体実験やゴールトンの優性思想の広がりへの反省と、医療の進歩には治験が欠かせないという側面との葛藤があり、その解決策が自己決定権でした。自分の福利に一番敏感なのは被験者あるいは患者であると考えるからです。もう一つは、アメリカの1960年代の黒人の公民権運動に刺激されて高まった「患者の人権運動」の流れです。医師のパターナリズム(家父長主義、温情的干渉主義)批判がなされると同時に、弁護士が煽る形での医療訴訟が急増します。そして、裁判に当たって患者の意志の尊重と人権の保護についての基準としてニュールンベルク倫理綱領が注目されました。

 優生思想の極みに出てきたのが、ナチス・ドイツの優生政策でしたが、それを裁いたニューㇽンベルク医療裁判の成果が、ニューㇽンベルク倫理綱領です。この流れは、現代のインフォームド・コンセントの法理や医療現場での実践に繋がっています。インフォームド・コンセントは、患者の理解に基づく患者の選択権と自己決定権の行使によって成立します。

 また、自己決定権は医療側の自律尊重原理に呼応しています。<自律>は自己統治、自由権、プライヴァシー、個人的選択、自己の意思に従う自由、自己の行動を起こすこと、自ら人格であると言う多様な観念の集合体に言及するものです。自律はギリシア語のautos(「自己」)とnomos(「規則」、「支配」、もしくは「法律」)に由来します。ギリシア都市国家における自己支配、自己統治をさすために用いられました。市民たちは法を課されるのでなく、法を作りました。

  政治的な自己支配を個人による自己統治へと拡張したのが、個人的自律の核心的理念です。自律的人間は自由に自己選択し、かつ情報を得た上での計画に従って行為します。あたかも真に独立した政府が、その領土や政策を支配すべく、行為するのと同じなのです。

 自律的行為者を尊重するには、二つの側面があります。第1に、その人が自己の価値観に基づいて自己の見解を持つ権利、選択する権利、行為する権利を含め、その人の能力や見方を認めるという心的態度を取ります。第2に、その人を自律的に行為させる、あるいは自律的に行為しうるように扱うという尊重する行為です。

 この自己決定権は、それを適切に行使するための条件として、「情報提供と理解」という問題があります。これについてはまた考えることにしたいと思います。

優生思想

 旧優生保護法(1948年~96年)の下で、障害を理由に不妊手術を強いられた人たちに社会的注目が集まり、救済措置の流れができ始めています。

 旧法に基づき強制不妊手術を受けた人は1万6500人に上るとされます。そのうち、個人が特定できる資料が残っているのは約25%。今年1月に宮城県内の60代の女性が、手術に関する資料の開示を受けて、全国初の国倍訴訟を提起しました。これがきっかけとなって、国会議員の間では救済立法をめぐる議論が起こり、国は全国的な実態調査に取り掛かりました。

 旧厚生省の衛生年報などによると、手術件数は1955年がピークです。57年に旧厚生省は各都道府県に手術の実施件数を増やすことを求める通知を出しています。これは手術の減少傾向に歯止めをかけたい狙いもあったのではと推測されています。この通知には56年の都道府県別の手術件数の一覧表が付けられ、「極めて不均衡」と実施件数のばらつきを指摘し、積極的手術を求めています。北海道が最多で312件、岡山127件、大分111件で、最少は千葉、秋田など8県のゼロでした。茨城県は1件です。北海道は96年度まで、事業方針に手術目標や予定人数を掲げていたことが分かっています。

 旧優生保護法は、1996年に優生政策的なものが一掃され、母性ないし母体保護のほうを残して「母体保護法」に改正されました。中絶条件に経済的理由が挙げられていることは現在でも問題として取り上げられますが、旧来の優生思想に対してはけりがつけられたと考えられています。

 旧来の優生思想の背景をなす優生学(eugenics)は、19世紀から20世紀にかけて大いに流行した社会ダーウィニズムの一典型です。チャールズ・ダーウィンの弟子フランシス・ゴールトンが1883年に作り出した言葉で、ギリシア語で良い、力強いの意を表すeuあるいはesusと、誕生、血筋の意を持つgenosからなる造語です。1904年第1回イギリス社会学会で「優生学――その定義、展望目的」という有名な講演を行い、「ある人種の生得的質の改善に影響を及ぼすすべての要因を扱う学問であり、またその生得的質を最善の状態に導こうとする学問」と定義しました。

 ゴールトンの思想はイギリスでよりもアメリカで広く受け入れられ、アメリカは優生断種のための法律をもっとも早く取り入れ、威力を発揮しました。1931年までに全米30州で断種法が成立、この思想は移民制限の論拠にも用いられます。1924年に成立した絶対移民制限法は<劣った人種の移民の増大で、アメリカ社会の血全体が劣悪化するのを防ぐ>とする法律。65年の移民国籍法で全面的に解消されました。

 ドイツでは1895年に出版されたプレッツの『民族衛生学の基本方針』が出発点。これは優生学社会主義の理想を合体させようとするものです。1920年代、カイザー・ウイルヘルム人類遺伝優生学研究所が開設され、ナチス時代に一気に拡大します。ヒトラーは国家を生物学的人種が構成する民族共同体と考え、優生学はその構成員の遺伝的健康の保全にあたるものとされ、ナチス政権下で大きな役割を果たします。ナチス政権成立直後、優生裁判所制度を導入した断種法が成立、56000件以上の断種が行われました。その後ゲルマン民族至上主義と反ユダヤ主義的政策が強化されていきます。

 日本でも優生学は明治時代末から、徐々に知識人の関心を引き始め、1930年に日本民族衛生学会が発足し、優生学を大きな柱とした機関誌『民族衛生』を発刊しています。ただし日本では、従来の衛生学や公衆衛生学的施策を実施していくのが精一杯だったようで、太平洋戦争中には、ナチス断種法に倣った国民優生法を成立させましたが、ほとんど機能しないまま敗戦。国民優生法は1948年の優生保護法として再生します。そして1996年、強制優生断種の性格を残す部分が削除され、母体保護の名による中絶の条項だけを残すもの(母体保護法と名称も変更)となりました。

 優生思想は、現代の常識では批判の対象であるといえるかもしれません。しかし、劣った子孫の出生の防止のための断種という消極的優生学を、人権侵害で差別的と批判する風潮とは別に、出生前診断が可能になった現代、胎児診断による選択的中絶はどう考えたらいいのでしょうか。

 また、現代の遺伝子学の進歩がもたらしている課題、遺伝性疾患の治療を遺伝子レベルで行うことの是非。現在では治療は体細胞のみに限っていますが、生殖細胞をいじることでしか治療につながらない場合、そしてその安全性がある程度確保された場合、どうなるのでしょうか。生殖細胞をいじることで、より優秀な子孫を作るための遺伝子改良や遺伝子整形といった、積極的優生思想と向き合う必要が出てきます。まだ、SFの世界のような気がしてはいますが。

h-miya@concerto.plala.or.jp