宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

脱成長とはラディカルな潤沢さの回復

 昨日の台風はそれほどではなく、ほっとしました。でも今日も雨模様。今年の梅雨はあまり雨が降らず、今日の雨は作物には恵みの雨です。

 『人新世の「資本論」』の第6章でコミュニズムのある種の潤沢さ、ということに目を開かれました。脱成長は、現在の気候変動を止め、地球環境を守るためには必要なのかもしれないと思っていました。気候ケインズ主義の限界の所で、技術革新を待っていては時間がない、という指摘に「なるほど」と思ったので(ここの残りの部分は別の日にまとめます)。ただ、私のイメージは資本主義での脱成長イメージだったと、第6章で気づきました。

 価値と使用価値(有用性)は別だ、という視点は言われ見ればその通りです。価値は希少性から生み出され、資本主義はあの手この手でこの希少性を生み出していくと言うのです。土地の例が上げられています。土地の投資目的の売買が禁止されて、土地の価格が下がっても、土地の使用価値に変わりはない。確かにその通りです。

 マルクスの「本源的蓄積」論というイングランドの「エンクロージャー」分析に触れられています。従来この部分は、資本主義の離陸を準備した血塗られた「前史」を描くものと理解されてきました。しかし、それでは不十分だと言われています。

マルクスによれば、「本源的蓄積」とは、資本が<コモン>の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程のことを指す(237頁)。

 前資本主義社会における共同体は共有地をみんなで管理しながら、労働し、生活していました。戦争や社会の変質の中で共同体が解体されても、入会地や解放耕地と言った共同利用の土地は残り続けました。土地はもともと根源的な生産手段であって、私的な所有物ではなく、社会全体で管理するものだったというのです。イギリスではこのような入会地を「コモンズ」と呼んできました。しかし、共有地でみんなが生活に必要なものを自前で調達していたら、市場の商品は売れません。だから、囲い込みによって、このコモンズは解体され、排他的私的所有に転換されなければならなかったというのです。

 この感覚、何となく分かります。子どもの頃、線路わきの空き地を自由に横切っていました。いつの頃からか、柵が設けられ、通れなくなりました。街の一斉清掃でも、そういう土地の草むしりやごみ拾いはやらなくなっています。いわゆる不法侵入になってしまいます。

 資本主義の離陸には、土地だけでなく河川というコモンズからも、人を引き離す必要がありました。河川は飲み水や魚を供給するだけではなく、無償のエネルギー源でした。無償の水力がなぜ排除され、石炭という化石燃料に頼る技術革新がされたのか。これも希少性の問題と関わっているようです。

 石炭や石油は河川水とは異なり、排他的独占が可能なエネルギー源です。マルサス流の説明では、資源の供給不足が生じることで、新たに廉価な代替物が発見・発明されるということですが、水力は無償で潤沢でした。

水力は自然に潤沢に存在しており、完璧に持続可能で廉価な動力源だった。共同で管理可能な<コモン>だったのである(241頁)。

 マルサス流の説明では、無償で潤沢な水力から、有償で希少な石炭への移行が起こったのかを、上手く解釈できません。アンドレアス・マルム『化石資本』(2016年)によると次のように解釈されると言うのです。

 石炭や石油は河川の水とは異なり輸送可能で、何よりも排他的独占が可能なエネルギー源であった。この「自然的」属性が、資本にとっては有利な「社会的」意義を持つようになったというのである(241)。

 このコモンズの潤沢さを取り戻し、希少性に価値を置く、しかも人工的に希少性を作り出す資本主義に抗する道を見つけ出すのが、マルクスの脱成長コミュニズムだ、と言われています。

 潤沢さを回復するための方法が<コモン>の再建だと言うのです。<コモン>のポイントは、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理するということです。例えば電力は<コモン>であるべきです。現代人にとって、水と同じように電力は「人権」として保障される必要があります。市場に任せるべきではないと言われています。そして排他的所有と馴染まないラディカルな潤沢さの例として、太陽光や風力があります。市民電力やエネルギー協同組合による再生エネルギーの普及です。市場経済の下で、なぜ再生可能エネルギ―が遅々として進まないのか、その原因は希少性を作り出すことが困難で利潤が出ないから、ということだと言うのです。

 もう一つワーカーズ・コープの例が上げられていました。労働者たちが共同出資して、生産手段を共同所有し、共同管理する「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」という働き方です。実は、私が2015年の選挙に出たときに掲げたものの一つです。あの頃は勉強不足で、きちんと理論化できていませんでした。

「ラディカルな潤沢さ」が回復されるほど、商品化された領域が減っていく。そのため、GDPは減少していくだろう。脱成長だ(266頁)。

 ウーン、脱成長というのはこういうことだったのかと、唸りました。

 だが、そのことは、人々の生活が貧しくなることを意味しない。むしろ、現物給付の領域が増え、貨幣に依存しない領域が拡大することで、人々は労働への恒常的プレッシャーから徐々に解放されていく。その分だけ、人々は、より大きな自由時間を手に入れることができる(266-267頁)。

 潤沢さは、経済成長のパラダイムから離れることを意味します。単にバラマキで新自由主義の「緊縮政策」に対抗するのではなく、資本主義に終止符を打つために、<コモン>の復権による「ラディカルな潤沢さ」を再建する必要性が言われています。資本主義の人工的希少性に対抗するために。この人工的希少性は人間の物質的欲求を掻き立てることで、維持拡大されてきました。しかし、地球環境の問題を考えても限界が見えています。別の豊かさを追求しなければならない。

 マルクスが掲げた「自由の国」は人間らしい活動を行うために求められる領域のことでした。衣食住を確保するための自主管理領域は必然の国ですが、その上に真の自由の国が始まると言われます。芸術や文化やスポーツ、そして友情や愛情などが繰り広げられる領域です。

 私たちは、必然の国で力を使い尽くしてきたのかもしれません。そこからの解放感を物質的欲求で満たそうとした。目先の変わった食を求め、シーズンごとのファッションの動向に鋭敏になり、と。しかし、私たちはやり直しのきかない分岐点に立っています。

 気候変動は不可逆的で、待ったなしです。私たちはどういう世界で、どういう生活をしたいのか。「これまでよりも少なくしか生産されなくても、全体としては幸福で、公正で、持続可能な社会に向けての『自己抑制』を、自発的に行うべき」(272頁)と言われます。自己抑制としての自由を選べるかどうか、私たちは問われているのだと思います。

                  歴史館水車(2023.7.4)

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