宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『判断力批判』を読む 21)趣味判断の「様態」:共通感ⅱ)

 判断の様相には、蓋然判断、実然判断、必然判断があります。共通感は、この必然判断の根拠として使われています。そもそも共通感or共通感覚とは何なのか。まずはその辺りをもう一度振り返ってみたいと思います。

 コモン・センスの常識という意味合いでの使い方は18世紀のイギリスで一般化しましたが、キケロなど古代ローマの古典に遡ることができます。これに対して、感覚の統合という意味は、見えにくくなっていますが、遡るとアリストテレスにあり、中世世界でもこの方の意味が主流でした。

 アリストテレスの共通感覚(センスス・コムニス、コイネ・アイステーシス)の考え方は、次のようなものです。私たちは何かを感じ取るとき、視覚同士や味覚同士の感じ分けだけでなく、例えば白くて甘いと感じるとき、視覚と味覚とを感じ分けています。この感じ分けは判断以前のことですから、一種の感覚能力によると考えられます。感じ分ける感覚能力は異なった種類の諸感覚に相渉る同一の能力でなければならず、「すべての感覚器官に共通なる部分によって」であり、それは「共通感覚の様態」であると言われます(アリストテレス『睡眠と覚醒について』455a13-26。(『アリストテレス全集6』岩波書店、1968年、245頁))。

 ではこの共通感覚とは感覚全体を外部感覚、内部感覚とするとき、どこに位置づけられるのでしょうか。この位置づけはアリストテレスでは曖昧であったと言われます。ただアリストテレスは、共通感覚は触角とともにあることが最も顕著だと言います。なぜなら触覚は他の感覚器官と分離して存在できますが、他のものはこれから分離してはあり得ないからと言われます。

 アリストテレスには、常識の源流とも言えるフロネーシス(賢慮)の考え方があります。これは、「単に一つの能力ではなく、すでに一定の形をとった慣習的共同存在」(ゲオルク・ガダマー『真理と方法Ⅰ』法政大学出版局、1986年、30-31頁)というようなものです。では、アリストテレスにおいて、感覚の統合形態としての共通感覚と、常識に通じるフロネーシスはどのような関係を持っていたのでしょうか。ハンナ・アーレントは『過去と未来の間』の「文化の危機」において、この関係について次のように述べています。アリストテレスはフロネーシスを洞察力と呼んで、哲学者の知恵から区別しています。フロネーシスは政治家の第一の徳であり卓越です。つまり「判断する洞察力と思弁的な思考の違いは、前者は私たちが通常共通感覚と呼ぶものに根差すのに対し、後者は絶えずそれを超え出るところにある」というのです。

 アーレントにとって共通感覚は、「世界」を私たちに共有させるものなのです。本来私的で主観的な感覚与件が、私たちが他者と共有する非主観的で客観的な「世界」に適合するのは、この共通感覚のおかげだと言われます。そして判断することは、世界を他者と共有できるようにする活動様式、最重要ではないにしても重要な活動様式であると言われています。この判断力論について、アーレントイマヌエル・カントの『判断力批判』から導出したと言います。

 カントは『判断力批判』において「考え方の基準」とする格律を述べています。これは趣味批判の原理とも言われます。前の回でも述べたようにその格律とは、(1)自分自身で考えること、(2)自分自身を他者の立場において考えること、(3)自己矛盾のないように考えることの三つです。この第2の格律が拡張された考え方の格律であり、判断力の格律と言われます。これを可能にするのが、自分自身を他者の立場に置く能力としての共通感覚なのです。そして、カントがいう意味での他者の立場への自己の置き換えは、健康な人間では先験的な性格を帯びています。

              水戸黄門祭にて(2024年8月4日)

h-miya@concerto.plala.or.jp