宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ASDとADHDの重なり

 昨日の暑さに比べて、今日は冷たい雨ふりの一日です。このところ、ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)のバイオリン協奏曲を聞いています。音の美しさと滑らかさ、そして演奏が速い。私は、この速さが気に入っています。破綻なく弾き切る技量の凄さはもちろん、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲も彼が弾くと、憂愁を感じることなく聞き終えることが出来ます。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲は有名で、冒頭部分はCMにも使われています。メンデルスゾーンは、聴き易くて、いろんなバイオリニストで聴きましたが、チャイコフスキーは何となく気が滅入る部分があって、聞かなくなっていました。でも、ハイフェッツの演奏には、それがありません。仕事しながら流していても心地よい。ブルッフブラームスのバイオリン協奏曲も、ハイフェッツ演奏でよく聞いています。

 『発達障害』(岩波明、文春新書、2017年)を読んでいるところです。ASD自閉症スペクトラム障害)とADHD(注意欠如多動性障害)の診断基準(DSM-5)を読むとかなり異なっている印象があります。DSMは、いろいろ批判がありますが、世界保健機構(WHO)の「疾病及び関連保険問題の国際統計分類(ICD)と共に、国際的に広く使われています。日本の行政はICD-10を使っています。精神医学の診断の現場においては、両方が使われ、かつ従来の診断法も使われているようです。DSMは、Diagnostic of Statistical Manual of Mental Disordersの略で、最新版がDSM-5です。

 岩波明さんは、この本の中で、ASDADHDの区別は、ASDの同一性への拘り(常同性)が重要だと言っています。コミュニケーション障害や場の空気が読めない、ということをASDADHDとの識別点にすることに疑問を呈しています。確かに、ASD診断を出されている子どもと、ADHD診断を出されている子どもとで、似通った傾向が見られることがあります。他の人の著書の中で、診断はその子にとって生活の障害になってい割合が強い方で付けられている、というようなことを読んだことがあります。つまり両方の傾向を持っていても、生活にとってより問題を起こしてしまう方の診断名が付けられている、ということが書かれていました。

 岩波さんは、昭和大学附属烏山病院に通院中の外来患者における自覚症状を比較しています。ASD63例(平均28.8歳)とADHD66例(平均31.4歳)を、健常者38例と比較しています。ASDの症状は、AQ(自閉症スペクトラム指数)という質問紙で評価し、ADHDの症状は、コナーズADHD評価スケール(CAARS)・スクリーニング版を使っています。

 AQの値は、健常者38例で平均15.2点、ASDでは平均38.4点、ADHDで平均28.5点だったようです。これは、ADHDにおいても一定のASD特性の存在を示していると解釈されます。CAARSスクリーニング版の評価では、健常者の平均が多動で4.9点・不注意で5.8点、ADHDの平均は多動11.9点・不注意18.5点、ASDの平均は多動8.4点・不注意14.7点でした。こちらもASDの値は、健常者とADHDの中間値でした。ASDにおいてもADHDの症状が見られるわけです。

 以上から、岩波さんは、ADHDASDの表面上の症状はかなり似ていると書いています。診療の現場でも、ASDとして他病院から紹介されてきた人が、「『対人関係が不得手な』ADHDであることが多い」と書かれています。この逆は稀だそうです。なぜかと言うと、対人関係が苦手だとASDと世間が決めつける風潮が強いからだとか。まぁ、言われて見れば、思い当たるところあります。

 問題にどう対処するかに、その症状の原因をどう判断するかは重要です。ただ、あまり性急にその判断をすると誤るなぁと思います。それと、重なりの大きさは、対処の仕方を考えるときにも、慎重さを要求されます。一つひとつの問題に対応するとき、手探り状態ですが、ただ忘れないでおこうと思っていることがあります。一番困っているのはその当事者であること。周りは確かに振り回されるのですが、一番大変なのはその当事者であることは、肝に銘じておきたいと思います。

                 4月14日の偕楽ツツジ

h-miya@concerto.plala.or.jp