宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

言語の習得と人間関係の感情的体験

 人間が関係的存在であることは、私たちにとってごく常識的なことです。しかし具体的にそれは何を言っているのでしょうか。

 現象学の「間主観性」の問題は、私が生きることが出来るのは自分の人生だけなのに、その「私」の自己理解は他者との関係と切り離せないことを言っています。「私」は他人とともに「私たち」という在り方をしています。「私」が「私たち」を構成するのではなく、「私たち」の中で「私」が構成されていくと言ったらいいでしょうか。

 言語を通して私たちは交流することが出来ます。この言語は、人間関係の中で習得されます。「私」が語る言葉は最初から共有されたものです。「私の中の何ものか」を語っているときにも、その語ることは共有された言葉でなされ、「私の中の何ものか」もまた、その言葉の影響を受けています。

 まず言語習得には幼児が特に言語に「敏感」で、話すことを学習しうる時期があると言われています。幼児がその両親に対して最も強い依存の状態にある2歳までの時期だそうです。野生児の研究や聾児への言語教育の遅れの示す結果などから、言語習得と幼児が家庭環境に入り込むこととの繋がり、及びその時期が推定されています。

 メルロ=ポンティ(1908-1961)は『眼と精神』(みすず書房、1966年)の中で、幼児の言語習得の在り様から、言語習得が対人関係の感情的経験と連帯していることを述べています。

 言語習得と幼児の環境変化の関係では、幼児に弟や妹が生まれたときに示される「赤ちゃん返り」が上げられます。これは嫉妬だと言われています。その本質は、自分の現在にしがみつこうとすることです。しかし、自分がもう末っ子ではないという状況を受け入れたとき、その幼児の態度は変わります。「私は末っ子だったが、もう末っ子ではなく、私は一番上にもなることだろう」と。これは時間的構造が習得され、<過去-現在-未来>という図式が構成されたからだと言います。

幼児が自分の家族関係を引きうけ形づくる時、それと同様に、幼児はある思考の型全体を学ぶのです。さらに幼児は、言葉のある用法全体を学び、また世界の或る知覚様式をも学ぶことになります。(『目と精神』127頁)

 思考の型全体の学びが一気に成立する瞬間がある、というのは何となくわかります。すでにいろいろな部署でパッチワーク的に進んでいる成長があって、ある瞬間、どこかが繋がって、全体が一気につながる、というイメージです。成立している知の枠組みが変動するときも、微妙に軋みだしていて、部分部分で組み換えが起こっていても、ある閾値を超えないと全体は変わらない。変わるときは、一気に変わる感じがします。

 言語の習得と人間関係の感情的体験の連帯。単純な因果的説明でないところが面白いです。

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           水戸駅エクセル北に飾られていた飯泉あやめの作品

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