宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

遊びの力

  そろそろ梅雨入りかなぁ(14日に梅雨入り宣言が出されていました)と思う曇り空が続いています。体調にも影響しますね。こういう時こそ、「遊ばにゃそん、そん」。下は、枝を使った工作です。

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       「枝で遊ぼう」の試作品(モミジバフウの実、萩の枯れ枝、粘土、ネット)

「遊びをせんとや生まれけむ

 戯れせんとや生まれけむ

 遊ぶ子どもの声聞けば

 わが身さへこそゆるがるれ」

 これは『梁塵秘抄 』の有名な歌です。以前にもこの話に触れたことがあります(2020年1月2日)。『梁塵秘抄 』は平安時代後期の今様歌謡集(1180年前後)で、後白河院(1127-1192)が編纂させたものです。今様というのは、今でいう流行歌で、鼓の伴奏などで歌ったようです。現在音楽の次元は失われています。

 ところで、この「われ」は遊女という説があります。「遊ぶ子どもの声聞けば」の部分を、私は大人一般の心のざわめきと読んでいました。でも、「日常の仕事をやめて何かをするのが、アソビの本義である」という立場に立てば、大人がそうそう子どもの遊ぶ声を聞いて、心をそそられ身体が動きだしたりはしません。仕事を離れた高齢者の場合は、うずうずするかもしれませんが、自分からは遊びに乗ってこない、レクリエーションを拒否する高齢者も多いです。また、自分がやって面白ことに大人は心をそそられます。歌う声に自分の身もゆさぶられる、というのは、それが自分にとって身近だとも言えます。歌うことや遊ぶ内容が、ぴったり来ないとき、大人は乗って来ません。自分たちで「遊びの企画」を考え、実行する中で得た実感でもあります。

 だとすれば、この「わが身」は一節にあるように、遊女(のわが身)と解するのが妥当なようです。遊女は単なる売笑婦ではなく、歌舞を表芸とする妓女でした。遊女がアソビ、アソビメと呼ばれるのは、歌舞音曲を演ずるのがアソビだからです。遊女(アソビ)は今でいうプロの歌手と言ってよさそうです。遊ぶ子どもの姿を見るのでなく、「声聞けば」という部分からも歌舞音曲を生業とする存在のあり様につながって行きます。

 ともあれ、「遊びをせんとや‥‥」のこの歌は、時代を越えて心に響いてくるものがあります。遊びを生業とするわけでない大人も、遊ぶ子どもの声を聞くと、心を揺さぶられるものがあるのは事実でしょう。「遊びの力」をますます身近に感じて来ています。

h-miya@concerto.plala.or.jp