宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

フロギストン説

 ものが燃えるのはなぜか? 私たちは酸素の働きによると習っています。でもそれってどういうことか説明して、と言われると…。燃焼とは酸化反応の一種で、っていうことは錆ることと同じ反応ということですよね。感覚的には、フロギストンという燃素が離れることと言われた方が、すっと入ってきます。

 古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、「水・空気・土・火」を四大元素と考えました。すごく単純な発想だなぁと思っていましたが、それは私が学校で習った理科の影響ですね。

 フロギストン説の展開を見ていくと、科学の言葉の形成過程や推移を通して、私が(学校で習って)真理として受け入れている考え方も、仮説として始まり、実験や観察の中で作られてきた反証可能な理論なのだということがよく分かります。

 実際、燃焼の理論を追っていくと、感覚実感といかに離れているかもわかります。火とか炎というのは、何なのか。火とか炎はものが燃えているときに出ている現象ですが、この現象は燃焼と言われます。燃焼とは、可燃物が酸素と反応する酸化反応です。うーん、酸化反応と燃焼は直観的にはすぐには結び付きません。

 酸化反応というと、どうしても緩やかな錆の反応とか、体内のブドウ糖が酸化されて水と二酸化炭素になるとかを思い出します。酸化という言葉には腐食というイメージがあるせいでしょうか、燃焼も酸化反応といわれると、あれそうだったっけ、と思わず考え込みます。

 フロギストン、ギリシア語で可燃物を意味する言葉から来ています。1697年にドイツ人医師ゲオルク・エルンスト・シュタールが、ヨハン・ベッヒャーの「燃える土」にヒントを得て、燃える元素を考え、フロギストンと命名しました。フロギストン説では、物質はフロギストンと灰の結合したものです。燃焼させると物質からフロギストンが放出され、灰が残ります。金属灰を木炭と燃焼させると、金属と灰になります。これは木炭の中のフロギストンが金属灰と結合して、木炭が灰になって金属(金属灰+フロギストン)に戻ります。今でいう還元反応です。

 ウーン、それなりに説明されています。ただ、金属灰の質量が、元の金属より重いことは16世紀の時点で確認されていました。そこで説明としてフロギストンは負の質量をもっているなどの説明も出されました。

 ヘンリー・キャヴェンディッシュは1766年に、金属と酸が反応したときに出る気体の研究を行って、これが非常に軽くかつ燃えやすいことを発見します。そしてこの気体こそがフロギストンではないかと考えました。現在、水素(H)として知られているものです。キャヴェンディッシュは貴族で、大金持ちの変人天才科学者と言われる人です。「クーロンの法則」や「オームの法則」もそれが発表される以前に、発見していたことが、死後の研究ノートから分かっています。

 ジョゼフ・ブラックとその研究を引き継いだダニエル・ラザフォードは今でいう二酸化炭素を取り出し、それをフロギストン空気(1772年)と呼びました。ジョセフ・プリーストリー(英国の牧師)は当時知られていなかった酸素の収集(1775年)に成功しますが、これに脱フロギストン空気と名前を付けています。フロギストンを全く含まないという意味です。プリーストリーは最期までフロギストン説を支持した人として知られています。

 プリーストリーと同時期にアントワーヌ・ラヴォアジエは、フロギストン説に拠らずに燃焼を説明しようと努力しました。彼は空気を「空気の基+火の物質」と考え、燃焼で金属灰が重くなるのは、金属に空気の基がくっ付くせいだと説明しました。この空気の基を探る実験の中で、プリーストリーと同じ実験を行って空気とほぼ同じ密度を持つ気体(酸素)を収集します。この気体を純粋な空気と命名しますが、プリーストリーからこの気体の性質を十分調べていないと批判されました。プリーストリーが脱フロギストンと名付けたものです。

 ここからがラヴォアジエの発想力が輝きます。彼は、フロギストン説に拠らず、空気は2種類の物質からなると想定します。そしてその一方が、燃焼の際に金属と結合すると考えました。だから金属灰の質量は増えるわけです。そして1779年に、すべての酸はこの気体と非金属性の物質が結合したものと考え、「酸を作る元素(principe oxygène)」と名付けました。「酸素」の名前の由来です。

 酸素説の方が、新しく発見される実験結果の説明を無理なくできることで、こちらが受け入れられていったという経緯があります。

 科学の展開において、仮説は大きな役割を果たします。現象を説明しようとして、仮説を立てます。例えば遺伝因子があるというような仮説は、メンデルのエンドウ豆の交配実験のような実証例の積み重ねから推測(1865年)されました。しかし、そのとき遺伝因子があるということは予想されても、その正体が、知覚できる形で実証されたわけではありませんでした。後になって遺伝子の正体がわかりました。1953年にワトソンとクリックによる二重らせんモデルによって、DNAの塩基配列であることが実証されたことは、よく知られています。

 この仮説・理論形成の過程はあまり詳しくは習いません。最新の結果について学習するのが通例です。でも、理論が形成される過程を一度は詳しく学ぶ必要があるなぁ、と感じます。最初の頃の理論の方が、私たちの生活の実感に近い気がするからです。そこからどのように試行錯誤を繰り返しながら、現在の理論が作られてきたか。そこが分かると、科学の理論の反証可能性、という意味も分かります。フロギストン説なんて、ほんとにその時代の最高の知性がああでもない、こうでもないをやっていた訳です。

 フロギストンなんて空想的な、と今の感覚では思いますが、その時代には最も理性的なものの一つだったわけです。看護や介護を科学的思考で捉えていく、ということも、この仮説・理論の成り立ちの中にヒントがある気がします。

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        柴沼清「ある哲学者の肖像」:枝画(えだが)という技法の作品

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