宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

生の内発性

 今日は快晴、真夏日です。ひたちなか市の最高温度は31度で体感温度は36度だそうです。日陰で風が通るところにいると、それほどの暑さは感じません。でも一歩外へ出ると、太陽熱をヒリヒリ感じます。やっぱりι(´Д`υ)アツィー。

 私たちは家族(母一人子一人でも家族)の中に生まれてきます。その家族は共同体の一部です。共同体はさらに大きなユニットの一部です。そしてそれらは、現代では国家の単位に集約します。国家は、さらにほかの国家と連合を組み、国際的単位として国際連合があります。

 私たちは一人では生きられないと言われますが、生存の条件として他者を必要としているということは分かります。誰かと共に生きる、共に生きざるを得ないのが、私たちです。その関係を制御するのが、道徳であり法です。しかし、その前に各自の生の内発性が考えられる必要があります。

 内発性を表現する言葉がいくつかありますが、微妙に異なっています。まず「自発性」は、内部から発した衝動で行動するときに使われます。「自ら進んで行う」という意志の強固さを意味します。自発性は引き出すことはできますが、自発性それ自体を教え導くことはできません。

 「自主性」はやるべきことが決まっている場合、他人の指導や指令によらず、自分の判断でそれをこなすこと。「主体性」は自分で目標や目的を設定し、判断・行動すること。自分の頭で考えることです。「自律性」は自分で自分を律すること。「自立性」は、他の援助を受けずに自分で生活できること。以上は、育み育てることができます。道徳の対象となるものです。

 「積極性」は行動のきっかけは問いませんが、物ごとに対して自分から進んで関与し、ある程度以上の意欲、関心をもって取り組むことです。これはどちらかというと気質的なもので、もちろん成長過程や経験によって変わりますが、上の4つが行動の在り方として指導できるのに対し、心の持ちようを変えていくことです。より、工夫が必要になります。

 人間の幸福は「自発性」に関わっています。この「自発性」はどうすれば引き出され、維持されるのでしょうか。バートランド・ラッセルは度が過ぎたナルシシズムを批判し、外界への関心から発する何らかの行動への衝動としての「熱意」と言いました。

 熱意を失わない人たちを思い浮かべました。そう、彼らは幸福な人たちだと思います。その熱意の発揮を阻止する力として働く新型コロナ。でも、ウィルスもまた「いのち」です。仏教だけでなくキリスト教や他の宗教でも、こういう状況はどう捉えられるのでしょうか。

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             8月19日の稲穂

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