宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

錆を落として、身軽になっていくこと

 高齢者のケアに関わって、ケアの原点とは何かを改めて考えています。子どもを対象にしたケアとの違いは何なのか。登山の支援と下山の支援には違いがあると同時に、支援として同じものもあると思います。それは何なのでしょうか。

 高齢者ケアで思うようになったことは、相手と同じ景色を見ることからの出発です。相手を見るのでなく、まずは同じものを見る。80歳を過ぎた人の発達を指導するという考え方は、どう考えても無理があります。もちろん本人が学ぶ意欲と喜びを持って、新しいことに取り組んでいくとき、それに協力することには吝かではありません。

 日常生活動作の維持と再獲得に絶えず努力している人もいれば、依存的な人もいます。その支援の妥当性をどう判断するかが、結構頻繁に問われます。そこはその本人の習慣や希望と医療的対応との綱引きで、そこそこ妥当なところに落ち着かせる。しかし、本当にそんなものなのか介護は、という疑問が生じました。

 高齢の方たちと関わったとき、最初、どうしていいか分かりませんでした。高齢の方と向き合ったとき、相手を観察するだけではなく、観察する前に、あるいは観察しつつ同じ景色を見ることの重要性を思うようになりました。三好春樹さんが、「介護の町内化とエロス化を」(川本隆史編『ケアの社会倫理学)の中で次のように書いています。

 「向き合っていると、二人だけの閉じた世界になるのに対し、並んでいると、世界の中に二人がいる、という感じなのだ」

 ケアする側とケアされる側が、直接的に向き合ってしまうと関係が閉じてしまって、恣意性が出易くなります。そこにワンクッション置く必要性があります。教育の場では、教材がその役割を担いますが、介護の場では何か。世界の共有ではないかという気がします。

 同じものを見ることから始める大切さを思うのは、知覚の事実性によります。メルロ=ポンティは、知覚には現実性、事実性があり、そこには誤謬の生じる余地がないと言っています。誤謬は判断をめぐって起こります。まず、同じ場で同じ空気を吸って同じ景色を見る。絶えずそれを繰り返し、相手の見ているものへ思いを馳せる。ちょっとした表情や言葉で、何を見ているのかが分かることがあります。同じに見えているなぁと思うこともあれば、「えー、そういう風に見えているのか」と驚くこともあります。

 高齢者ケアに関わって、高齢者は、本人の自覚とは関係なく、「旅立ち」への準備をしていると感じるようになりました。まさに下山の時期です。そしてこの時期の自発性は、遊戯衝動として現われると思います。子どもにとっての遊戯が人生に必要なものを獲得していくツールであるとするなら、高齢者にとっては何なのか。それは、自らを開放していく、この世で身に付けた錆を落としていくツールではないかという気がします。

 「老いるとは楽しむこと、耐えることではない」(ブロンウィン・ビショップ)と言われたように、楽しむことは人生の義務から解放された老いた者の特権です。そして楽しむことでしか、人生の中で身に付けた錆は落ちないのかもしれません。錆が落ちないと、身軽に「旅立つこと」は出来ないと思います。

 彼らの傍で、同じペースで呼吸し、同じ景色を見ることで、私の中に生まれてきた老いて行くことへの「納得」。しかし、実際に老いの中で彼らが「納得」しているものとは、また、少しずれている気もします。

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                3月25日 勝田中原町の桜

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