宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

世界の中での活動の復権

 このところ、新型コロナ・ウィルス肺炎への対応で、人の動きがかなりセーブされています。トレーニング・ルームが閉鎖されているので、身体が動かせず、肩こりが解消しません。出来るだけ、歩くようにしています。

 さて、ハンナ・アーレントの『人間の条件』のキャッチコピーを作ると、タイトルのようになるかなと思います。アーレントは人間の活動力を「労働」、「仕事」、「活動」に分類しました。また、公的領域と私的領域が区別され、それは自由の領域と生の必要性に従属する領域の区別でした。公的領域での活動力の代表が政治活動であり、私的領域は奴隷的労働によって維持されていました。

 近代の個人主義によって、私的領域は親密さの領域として著しく豊かになり、近代の私生活は政治領域と対立するというより、やはり近代に登場する社会的領域と対立するようになりました。近代以降、「その成員がたった一つの意見と一つの利害しか持たないような、単一の巨大家族のように成員であるかのように振舞うよう要求する」社会が台頭した、と言われます。この分析を読んでいると、日本の「世間」と西欧の「社会」は同質ではないかと思わさせられます。よく日本には「社会」という中間地帯が無いと言われますが、「世間」はあります。

 自由の領域というと、私たちは、自発性の発揮される領域と考えます。しかしアーレントは、古代ギリシアにおける自由に選べる生活様式とは、「美しいもの」に関連する点で共通していると言います。つまり「必要でもなければ単に有益でさえないようなものに関連している」三つの生活領域を上げています。

 この三つの生活様式とは、第一が肉体の快楽を享受する生活です。そこでは与えられているままの美しいものが消費されます。第二がポリスの問題に捧げられる生活で、卓越が美しい功績を生み出します。第三が、永遠なる事物の探求と観照に捧げられる哲学者の生活で、永遠なる事物の不朽の美と関わります。

 付け加えると、アーレントは哲学が永遠を目指したことに批判的です。彼女は不死性を求めるべきと考えています。死すべきものの任務は、「無限の中にあって住家に値する物――仕事、偉業、言葉――を生み出す能力にある」(34頁)と言います。そして残念ながら、哲学においては「永遠にたいする関心のほうが、不死を得ようとするあらゆる種類の熱望に対し勝利を収めた」(37頁)のです。しかし、これはローマ帝国の没落が、死すべきものの手になる仕事に不死なるものはないことを証明したからだと言われます。

 現代における「活動」の代表例は芸術や学問でしょうか。アーレント古代ギリシアにおける政治を活動の代表と考えていました。活動については「物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力」であり、アーレントが人間の条件として挙げる「多数性」に対応するものと言われています。多数性とは、私たちが人間であるという点ですべて同一でありながら、誰一人として同一でないことを言っています。この私たちの存在の仕方が、「平等と自由」という理念の根拠と言っていいと思います。活動とは、自由の領域で行われるものなのです。

 世界については、「世界は万人に共通のものである。これは、世界の唯一の性格であり、世界が万人に共通であればこそ、私たちは世界のリアリティを判断することができる」と言われます。そしてこの世界に適合するのが共通感覚(常識)なのです。

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       ひな祭りは終わってしまいましたが、とても簡単に出来ました

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