宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「遊びをせんとや‥‥」

 明けましておめでとうございます。2020年を迎え、今年はいろいろありそうだなぁと思っています。元日の午後、初詣に行って来ました。大洗の磯前神社は、鳥居の下から参拝客が並んでいて、とてもお参りできる感じではありませんでした。母だけは、高齢者特権で、脇からお賽銭を投げ入れてお参りさせてもらいました。私たち他の家族は磯崎の磯前神社でお参りしようと、仕切り直し。でも、ここも今までになく並んでいました。令和初の元日だからでしょうか。ともあれ、並んで無事お参りしてきました。ゆっくり過ごすことのできた元日です。

 このところ、『梁塵秘抄』の遊ぶ子どもの歌を考えています。『梁塵秘抄』は平安時代後期の今様歌謡集(1180年前後)で、後白河院(1127-1192)が編纂させたものです。今様というのは、今でいう流行歌です。七五調四句や八五調四句、あるいはそのバリエーションの詩型を特徴とし、鼓などの伴奏で歌ったようですが、現在音楽の次元は失われています。

 後白河院は、和歌が不得手で、今様に執着しました。今様は遊女たちが歌っていた俗謡で、後白河院は遊女乙前に弟子入りしています。異様なくらいの執着心を今様に持っていたようです。『梁塵秘抄』と言えばやはりこの歌でしょう。

 「遊びをせんとや生まれけむ  戯れせんとや生まれけむ

  遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそゆるがるれ」

 この「我」は遊女というのが現在では定説のようですが、遊女は単なる売笑婦ではなく、歌舞を表芸とする妓女でした。遊女がアソビ、アソビメと呼ばれるのは、歌舞音曲を演ずるのがアソビだからです。

 『更級日記』(1060年頃成立)に、足柄山の麓で出会った3人の遊女(アソビ)について印象深い文章が出てきます。この「足柄山の遊女」の部分は、参考書などでも取り上げられることが多い部分です。

 「声すべて似るものなく、空にすみのぼりてめでたく歌をうたう」

 「見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなくうたひて」

 遊女(アソビ)は今でいうプロの歌手と言ってよさそうです。そしてこの3人のうちの一人が、「こはた」というものの孫と名乗っています。芸を伝える家系が存在したことを意味するだろうと西郷信綱さんは書いています。「わが身さへこそ」の「我」は遊びを生業とする遊女と読むことをなるほどと思います。

 遊ぶために生まれてきたかのように、無心に遊ぶ子どもたちの(歌)声を聞くと、わが身までそそのかされ、動きだす。なぜなら遊女はアソブことを自らの生業としている存在だから。そして最初の二句は、子供の在り様だけでなく、遊女そのものの在り様へと回帰する(西郷信綱梁塵秘抄ちくま文庫から)。

 私は、最初の二句は子どものあり様だけを歌っていると受け止めていました。そして「わが身さえこそ」を、大人一般の心のざわめきと読んでいました。でも、「日常の仕事をやめて何かをするのが、アソビの本義である」という解釈に立てば、大人がそうそう子どもの遊ぶ声を聞いて、心をそそられ身体が動きだしたりはしません。ほっと和んだりはしても。仕事を離れた高齢者の場合は、うずうずするかもしれませんが。そういう童心への憧れ説もあるようです。その他にも、遊女の罪業感や浄土欣求などから読む解釈もあるようですが、西郷さんは違うのではないかと言います。確かに、読み込みすぎの感じがします。これは今様の世界なのだと考えると、「我」は遊女だという解釈に納得が行きます。

 14世紀前半に書かれた『徒然草』第14段にも、『梁塵秘抄』の名前が見えます。この時代までは一般的に目にされていたようですが、音曲の次元はどうなっていたのか。兼好法師は言葉に感銘を受けていたようです。もともとはかなりの量があったようですが、現存するのはわずかな部分のみです。1911年に佐々木信綱たちによって発見されたものが、大正から昭和にかけて刊行されて、一般に知られるようになりました。 

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    昨年の年末に活けたお正月の花。梅、千両、根引き松、シンビジウムモカラ、金柳、苔梅

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