宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

介護ケアとは「私がどういう人間か」にかかる在り様

 以前(3月20日)、介護士って何をするのかについて書きました。介護士は要介護者の伴走者ではないかと、その時考えました。そして、その思いはナイチゲールの次のような思想とつながりました。

 「教育の仕事は別として、世の中で看護ほどに、その仕事において《自分が何をなしうるか》が、《自分がどのような人間であるか》にかかっている職は、ほかにはないからです」(ナイチンゲール著作集 第3巻』266頁

  このナイチンゲールの思想は、現代においては看護師より介護士に当てはまるような気がします。看護師は医師のアシスタントの役割も果たしますが、医療の発展によってその比重がますます大きくなっているのではないでしょうか。技術者としての側面が大きくなって来ている気がします。プロフェッショナルとしての技能の習得が、重要になって来ているということです。<専門家>としての側面が強くなって来ている。ナイチンゲールの時代の看護師(この時代は看護婦)のあり様は、むしろ介護士に引き継がれている気がします。

 もちろん現代の看護師も、食事や排泄援助、全身の清拭、洗髪、入浴介助など身体を清潔にする行為や、罨法など身体を楽にするための湿布などにも関わります。これだけを取れば、介護業務と言えます。介護において看護師しかできないような部分ももちろんありますが、それはむしろごく一部です。

 インスリンの注射は看護師しかできませんし、ストマケアやストマへのパウチの取り付けは私が所属していた施設では基本看護師がやっていました。血圧測定も水銀血圧計は看護師のみが使うということになっています。しかしこれらは、介護業務のほんの一部です。基本、生活・身体援助は介護士が主に行います。「医師のシンボルが聴診器ならば看護師のそれは洗面器一杯にたたえられた水(あるいは湯)」という表現があるそうです。介護士は入浴介助、排泄介助、食事介助が三大業務と言われてきましたが、これはどれも水が関わります。伝統的な看護師のあり様は、介護士にスライドしている気がします。

 介護ケアを超えて、ケアとはどういうことか考えるとき、まさに「私がどういう人間か」に関わる在り様と言えると思います。ネル・ノディングズが述べているケアの定義を拒否する姿勢は、まさにケア主体の在り方こそがケアの真髄であることを意味している。ノディングズの思想は、深いところでナイチンゲールとつながっていると感じます。

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            5月10日 夕日に映える中根の水田

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