宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「私は何をするべきか」という問い

 「私はこれから何をするべきか」。この問いは人生の健康な活動時間が伸びると、否応なしに自分で考えざるを得なくなります。この「何をなすべきか」の問いは、好きなことをすればいいじゃない、とは単純に言えないところに難しさがあります。「何をなすべきか」には、道徳的問いと非道徳的問いがあります。還暦以降の問いは、特に後者に関わると考えられますが、ただこの両者は切り離すことができない部分があります。

 好きなことをするのは、私たちは趣味と捉えて生きてきた気がします。仕事をしているとき、好きなことをしていても、それはどこかで仕事につながります。仕事の息抜き的に好きなことをする、ということも多かったのではないでしょうか。じゃあ、仕事がなくなって、好きなことを思う存分できるのかというと、どうも気が抜ける。

 子育てを終えた主婦の空の巣症候群が言われたのは大分前ですが、仕事も同じでしょう。企業が定年後の人生設計講座的なことを始めたのも、随分前です。仕事とは異なったインセンティブをどう見付けるのか。そういうところから、日本でもボランティアが盛んに言われるようになった。江戸時代や旧民法下であれば、隠居というポジションがありました。現代のサラリーマン社会において隠居にあたる退職は、平均寿命が延び、健康年齢も伸びた現代では、新たに第2の人生を構築しなければならない状況を生みだしています。会社に通っている間に、地域との関係は疎遠になり、あるいは形成できないまま、生産活動が停止し、行き場の構築が問題になります。地域の関係性は会社の関係性とは異なっていて、なかなかそこに馴染めず居場所を作れない。核家族化した時代の引退は、引き籠りになりそうです。語弊があったらごめんなさい。

 私たちは生涯を通じて、「いかに生きるべきか」「何をするべきか」の問いの前に佇みます。非道徳的な問いも道徳的な問いと無関係ではなく、そしてまた、生涯を見通して考える必要があるようです。

  「私はどう生きるべきか」の問いは、容易に「人はどう生きるべきか」の問いに包摂される、とバーナード・ウィリアムズは言っています。道徳的問いの場合は、それは必要なことであり、自分の考えが思いこみであるかどうかをチェックできます。もっとも、その問いに答える立場は一つではなく、大まかに「人の徳性を重視する徳論」、「動機を重視する義務論」、「結果を重視する功利主義」と分かれます。非道徳的問いの場合は、より個別性が強く関わります。性別、才能、機会、運、育成環境、時代などと、別の意味の一般論とは関わりますが、より本人の意思や意志が大きな要因になります。そして、自分がどう仕事して家族を作って生きてきたかは、どういう道徳を掲げていたかとも無縁ではありません。 

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