宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

自己犠牲の徳?

 今日は風が強く、洗濯物も外には干し難いです。バスタオルの類は、外に干して、他のものは部屋干しすることにしました。陽ざしはあるので、部屋の中は暖かです。「最高気温11度くらいにはなるようですが、体感温度はそこまではいかないでしょう」と気象コーナーで言ってましたが、外に出ると本当に寒い。風に吹き飛ばされそうになったりします。

 今、自己犠牲の問題を考えています。ケアリングから生じる問題の一つですが、難しい問題です。ケアにおいては自己犠牲と責任が混同されがちということがまず挙げられます。あるもののために命までも投げ出すことが自己犠牲ですが、それは何か自分を超えるものに価値を見い出すことでもあります。ただ、自覚的に価値設定がされないまま、自分の時間や自分の命まで差し出すとき、自己犠牲には自分に酔う(自己陶酔)という側面も無きにしも非ず。自己陶酔でもしなければやってられない、ということでしょうか。あるいは社会的・宗教的価値に従った生き方の結果の自己犠牲の場合、不安感や他者からの評価がインセンティブと言うことが考えられます。これは自分の真の欲求に無自覚になる、あるいはそれを隠ぺいすると言うことにもつながります。

 ミルトン・メイヤロフは、自分自身をケアすることには何ら自己中心的なものはないと述べます。自己中心主義とは、「自己に病的にとらわれてしまうこと」だと言います。となると、「自己犠牲の徳」とは病的に他者に捉われてしまうこと、と言えるかもしれません。

 例えば親が子どものために一生懸命働いているとき、その時はそんな自己陶酔なんて関係ないでしょう。それこそ必死で頑張る。でも、子どもが巣立って行ったりして、繰り返し繰り返しそのときのことを語ったりしているのを聞くと、物語になっているなぁ、と感じます。自分の頑張りを自分で褒めている。日本の従来の親子関係の典型では、そういう親の頑張りを子どもが認め感謝して親を尊敬する、というものです。でも現実は、どうだったのかな。今の子どもたちは、「感謝しているけど何度も言われるとうざい」という感じでしょうか。

 それは私たちの世代でも、親世代に対する感覚としてはあると思います。頑張って働いて、夫にも仕え子どもの教育もきちんとしたのに、自分の思うようには子どもや孫たちから尊敬してもらえない。そういう、しっかり者の(現在80歳代から90歳代の)高齢の女性たちの愚痴は結構聞きます。彼女たちは、「自己犠牲の徳こそ女性の徳」と自分に染み込ませて生きてきた感じがします。その徳を達成したはずなのに、という嘆きの声なのでしょうか。

 介護の現場にいて思ったのは、人に何かをすることの充足感、というものは確かにあると言うことでした。子育ては義務になってしまって苦しくなる。でも基本にあるのは、育ち行く命につきあうドキドキ感です。介護は、支えることの充足感でしょうか。

 ジーン・ベイカー・ミラーは、「私たちは皆自分自身と他者を必要とするのに、社会の中で男性たちは彼ら自身に集中するよう育てられ、女性たちは『他者』に集中するよう育てられる」と書きました。「私」の自立の根底にあり続ける「私たち」。「私」の自立とは他者の出現でもあります。「私」の自立もあいまいなまま日本の共同体は存立してきました。基本は「私たち」のままだったのかもしれません。とすると、親が子どもを必死に守り育てるとき、自己犠牲というより自分の延長だったのかもしれません。日本社会で一般的に「自己犠牲の徳」の問題性は、成立しない? 

 考えるほどに分からなくなりました。(+o+)

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