宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

新聞を読んで:「普通」という基準を考える

 最近、認知症や介護問題の記事が目に付きます。私自身が関心があるからかもしれませんが、取り上げられる回数が増えている気がします。

 東京新聞で言うと、「暮らし 生活」のページですが、月曜日のテーマ「働く」では1月14日「悩む前に 介護離職を防ぐ」(上)、1月21日同(中)、そして28日が同(下)と3回に亘って掲載されます。火曜日のテーマ「健康」で、1月15日「地域で共に生きるため 『認知症基本法議員立法で制定の動き」がありました。

 障害を持つ人や社会的に周辺化されてしまう人たちを扱う記事も増えている気がします。「地域の情報」のページで、15日に掲載された「しみん発 ホームレスに希望再び」と22日の「社説・発言」のページの「視点 弱さを受け入れられる社会に 摂食障害当事者として」(社会部・中村真暁)には、いろいろ考えさせられました。

 「ホームレスに希望再び」で、さんきゅうハウス理事長の吉村一正さん(72)は、「どん底に落ちたと思ってもそこで終わりじゃない。仲間がいる」「人が一番つらいのは、誰にも理解されないということ」と語っていました。ホームレスと聞くと、そんなつらい状況は嫌だと思うし、何となく距離を置きたくなります。敬愛する故片山洋之介先生は、「上野公園に座っていると、ホームレスのおじさんが寄って来て、『これ食べなよ』とパンをくれたりする」と笑いながらおっしゃっていたことがあります。片山先生には人と距離を作らない、そういうひょうひょうとした趣がありました。

 自身の摂食障害を紙面でカミングアウトした中村さんは、今でも自分の弱さに振り回されていて、体験を書くことを躊躇したが、生きづらさに悩む人たちに「一人ではない」と伝えたかったと書いています。そして「摂食障害でなくても、居場所がなく、つらい思いをしている人は少なくない。自身や他人の弱さを受け入れられる社会にするには何が必要か、当事者として、記者として、考え続けたい」と結んでいます。

 少し前まで、そして今でも、認知症に対して外聞が悪いと思う人は少なくないと思います。しかし、認知症が脳の器質的疾患から生じていることが知られるようになって、大分一般の人たちの捉え方が変わってきた気がします。それと同時にやたら、認知症にならないための生活習慣とか食生活が言われ始めましたが。

 吉村さんや中村さんの発言や経験から感じるのは、私たちの持っている「普通」という基準の問題です。そしてちょっと自分の周りを見回してみれば(自分を含め)、「普通」なるものから誰しも少しあるいは極端に逸脱している部分はある、ということに気が付きます。「普通」という基準は意味がないと言っているわけではありません。それは社会を構成しているプラスの価値の表明であり、そこの維持は努力目標になります。また人との交際における、間合いを作る壁でもあり、それは守りの壁でもあります。だって、誰かと出会ってその都度、根掘り葉掘り聞いたり、調べたりしないとその誰かとの関係が結べないとしたら、気が重いし、人間関係がおっくうになります。

 ただその基準の意味がどういうものかを絶えず反省していないと、いつの間にか基準に取り込まれて苦しくなるのも事実。自分を縛ったり、他者を裁いてしまったりします。本来、人が生きる、上手く、よりよく生きるための約束事だったものが、いつの間にか当たり前(自然)で、それから外れるのは恥ずかしい、外れると人でなしになってしまう。

 本末転倒。でも、そういう傾向は私自身にもあります。そういうとき、吉村さんや中村さんの言葉にハッとさせられます。「普通」という基準は踏み込みすぎない防波堤としながら、でも例えば誰かから「私LGBTなの」といわれたとき、「あーそうなの」とさらっと受け入れられる社会であったら、生き易いだろうなぁと思います。

 私たちはいのちを預かって、今を生きています。いつかそのいのちを返すときが来るまで、楽しく苦しく生きている。そしてそれはせいぜい100年でやってきます。そう思うと、今大切なことは何なのか、立ち止まるきっかけになります。そういう俯瞰する目も必要なのだと思います。

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                1月22日 夕方の名平洞

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